曇天の続き

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2010-05-31 Mon.

騒音

2010-05-31

名前を連呼する選挙カーは、昔は必要だったのかも知れないが、この時代にはもう必要ないのではないか。

たぶんこう考える人の数は少ないないと想像するが、僕はうるさい選挙カーでやってくる候補者を積極的に減点している。
だから、結果的に青島幸男にしか投票できなくなる。

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2010-05-30 Sun.

哨戒

2010-05-30

「いいとも」で「絞り小町」という人達が出ていて、Googleで検索を何度もしていたら、あちらこちらのウェブサイトのGoogle AdSenseで「有松絞り祭り」の広告が出るようになった。

嗜好を監視されている。

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2010-05-29 Sat.

確保

2010-05-29

タモリさんはもしかして、「タモリ倶楽部」にスポンサーを付けるという目的で、CMを引き受けているのだろうか。

それを確かめる術も気力もないので、この推測はあくまで推測の域を得ない。

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2010-05-28 Fri.

騒動

2010-05-28

金曜の朝、午前6時。

しかし、なぜこんな時刻から店が開いているのだろう。
誰か頭のいい人の考えなのだろうが、果たして店員は拒否することができるのだろうか、できるのだろう。

自宅近所の店では、夜になってもiPadの在庫があった。
実家の母親がiPadを欲しがっているらしいから、買ってあげればよかった。
何でも、足腰が弱って本を買いに行けなくなるかも知れないから、iPadで電子書籍を読みたいのだそうだ。
頼むから、足腰を鍛えて欲しいものだ。

新聞のテレビ欄を見ると、どの局にも(NHKを含めて)iPadの文字が含まれている。
いい宣伝だ。

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2010-05-27 Thu.

北区

2010-05-27

東京23区のなかで、なぜ北区は北区という名前なのだろう。
他の区はそれなりの名前があるのに、北区の名前は23区内の位置で示されている。

…その論法で行くと、中央区も気にしなければならないことになる。
よく考えれば、中野区だって少し怪しい。

それはさておき、北区は、1947年に王子区と滝野川区が合併して誕生した区である。
その辺りに命名の理由があるのだろう、たぶん。

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2010-05-26 Wed.

源流

2010-05-26

「ワカチコワカチコ」というのは彼のオリジナルである、と考えている人がいた。

お笑い界の危機、由々しき事態である。
「チントンシャンテントン」が小島よしおのオリジナルだと思っていた人もいたが、それに匹敵するくらいだと思う。
まったく、夢だけがパスポートであることを知らないのか。
だいたい、「ワカチコ」というのは、デカメ…。

と思っていたら、借りてきたサディステック・ミカ・バンドのアルバムの1曲目に「ワカチコ」というタイトルの曲があった。
そのタイトルの由来も、あまりはっきりしないらしい。
だから、結局調べても何の意味もない。

それにしても、「何の意味もない」ってオールマイティに使えるから便利だな、と思う、おもしろいかどうかは別にしても。

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2010-05-25 Tue.

説教

2010-05-25

かなりベタな話で恐縮だが、僕は結構最近まで、上田正樹の「悲しい色やね」の歌詞にある、

「大阪ベイブルース」

を、
「大阪 Babe Ruth」
と完全に取り違えていた。

しかも、もっとひどいことに、その直前の歌詞を含めて、

「アホみたい! 大阪 Babe Ruth」

だと思って、歌詞を聞いていた。
ホームラン・バッターが、何かの比喩だと思い込んで。

こんなことを言ってると、後で熱い説教される。
代表作も特に見受けられないのに、「おい、先輩やぞ!」というただ1つの(しかも、絶対に突き崩せない)根拠で説教してくる面倒な人がいるので、こちらもお付き合いしなくてはならない。
対処策としては、「(その人が頭が上がらないもっと上の)あの人は、こう言ってましたよ」というのがあるのだが、僕には口を開く気力すらない。
悲しい顔やね。

本当に実力のある人は、後輩に口出しすることは少ない。
人に口出しするくらいなら、対象を自分に向けて、自分の芸を磨くものだからだ。

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2010-05-24 Mon.

出演

2010-05-24

「お願いランキング」のような情報番組を見て思うのだが、この頃はテレビに出たい人の方がお金を払う(出演料を持ち出す)時代である。
つまり、制作側からギャランティーを払う必要が発生しない。
地方局では制作費を抑えるためによくとられた手法であったが、いまやキー局もそういう番組が増えてきた。

CM総量規制があるので1時間のテレビショッピングは広告ではなく番組として放送する、というテクニカルなことを放送局は以前からやっていて、少しだけ問題になったことがある。
しかし、問題と呼ぶべきなのは、もはやテレビショッピング番組だけではなくなってきている。

テレビタレントや雑誌のライターは、情報を伝えたい人のためのメディアとなることを覚悟しなくてはならない。
表現者自身の考えを伝えようとしたり、自分の作品を知ってもらおうとしたりすることは、許されない。
自分は主役にならず、情報伝達の代替業に徹する必要がある。

メディアに出演する側も、出演すること自体でビジネスが成立可能と考えるのは甘い目論見である。
出演することで本業を宣伝し、本業でビジネスを成立させなければならないことを、意識しておく必要がある。

お笑い番組もそうだ。
広告に支えられ、番組は番組で独自におもしろいことをするだけで制作費を全て確保しようとすることは、到底許されないような事態になっている。
放送はあくまで宣伝の場であり、DVDやグッズ、イベントで稼ぐことが求められてきている。

放送や雑誌が、100%宣伝の場となってしまう。
そういうメディアが既に出始めている。
CM総量規制なんて、もはや現実とそぐわないように感じる。

そういう思いこめて、僕は今月もサーバの利用料を支払う。

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2010-05-23 Sun.

習癖

2010-05-23

事情があって、「同窓会 -ラブ・アゲイン症候群」を時々見ている。
尾美としのりと宮地雅子が同窓会終わりに姿を消す、というのが何とも心地よい。
芝居巧者同士がくっつくことがあるんだな、と感慨を深めながら視聴している。

三上博史の演技プランは、2010年も健在である。
自分を貫くその姿に感動したので、僕もその演技プランを普段の生活で実践してみることにした。

知人に、「どうした、鼻炎?」と指摘された。

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2010-05-22 Sat.

点描

2010-05-22

そろそろ、自宅の草取り専用の庭の草取りをしなければならない季節になってきた。

草取りとは、僕にとってはもはや修行である。
座禅と同じだ。
無の境地でひたすらむしり続け、悟りを開く。
どうせ、すぐにまた生えてくるのだ。

草取り中にアリの巣を発見した。
アリの巣をつついたら「蜂の巣をつついたような」騒ぎが起こった。

早速、アリアースで撃退する。
僕は平和主義者を自認しているし、他者とは相互不干渉でいたい。
しかし、これらを放っておくと家の中まで侵略してくるので、アリには申し訳ないのだが、やむを得ない。

のたうち回ったアリがコンクリートの上まではい上がり、そこでくたばっている。
その数、ざっと見た限り数百匹。
風が吹くと、点のような骸がふわっと舞う。
虐殺とは、こういうことをいうのだろうか。

「タモリ倶楽部」からの情報によると、僕は確実に地獄行きだろう。
そして、みうらじゅんは間違いなく無間地獄へ行くであろう。

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2010-05-21 Fri.

告知

2010-05-21

この日記では言わなかったけど、やっぱり岡部玲子は…。

現在のマスメディアは、本当に取材活動をしているのだろうか。
別にしてなくてもいいけれど、だったら、真実を追求している、といった大きな顔はもはやできないのだろう。
お疲れ様でした。

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2010-05-20 Thu.

裏被

2010-05-20

「大石恵三」という番組がいつのまにか周知のものとなり、シチュエーションによっては「伝説の番組」と呼ばれるケースも見受けられるようになった。
後述する経緯から、ほとんどの人はこの番組をリアルタイムで見たことがないだろう。
今の中学生や高校生の世代にいたっては、番組放送時に生まれていなかった人も多い。

ここで、僕にとっての「大石恵三」とは何だったのか、を記しておきたい。

「大石恵三」の放送が始まったのは、1993年4月。
話は、その前年の1992年にさかのぼる。

僕は、深夜番組でやっていた「カルトQ」に熱中していた。
ある限定された狭い分野に関する深い知識をクイズで競う、という、僕にとっては実に心踊る番組だった。
番組本を書店に取り寄せてもらってまでして購入した。

当時、自宅に帰宅するとすぐ眠り、その代わりに深夜起きている、というクラスメートがいた。
その理由は、深夜番組を視聴するためだという。
その人の社交的な性格から推測するに、どう見てもそんな風には見えなかったので、「じゃあ「カルトQ」見てんの?」と挑発的に尋ねてみると、その人は「もちろん。うじきつよしでしょ」と控えめに答えたのをよく覚えている。
ちなみに僕はこの頃、午前1時に何となく寝始め、午前5時に目覚めてテレビをつける、という生活を送っていた。

1992年10月、「カルトQ」が日曜22時30分に放送されることになった。
いわゆる、人気があった深夜番組の格上げである。
予想通りというか、ご多分にもれずというか、番組はこの時間帯になってから半年で終わった。

その「カルトQ」の後番組として始まったのが、「大石恵三」だった。

僕としては、「カルトQ」が終わったことにかなりショックを覚えた。
しかしながら、新しいお笑い番組、そしてタイトルのインパクトもあって、「大石恵三」に納得することにした。

ところでこの時間帯、日本テレビでは「進め! 電波少年」を放送していた。
番組が始まって1年くらいで、かなりの勢いがあった。

それゆえ、多くの視聴者が「電波少年」を見ることになり、必然的に「大石恵三」の視聴率は上がらなかった。
そして、「大石恵三」は半年で終わった。

裏番組が「電波少年」だったことが、「大石恵三」の短命化、および「伝説の番組」化した理由と一般的にはされている。
もっとも、「大石恵三」の後に始まった「料理の鉄人」がヒットしたことにより、この言い訳は使えなくなった、と後の三村さんは語っている。

さて、僕も「電波少年」を見ていたのか、というと、事情は少し複雑になる。
当時、「電波少年」枠はローカル枠であり、福岡では「電波少年」は同時ネットされていなかった。
現在でも、福岡では日曜22時30分からローカル番組が放送されている。
そういうわけで、「電波少年」は土曜17時に時差放送されていた。
なので、僕はこの時間「電波少年」を見ることができず、その代わりに「大石恵三」を見ていた…。

とはならなかった。

僕が住んでいたのは、関門海峡に面する北九州である。
「電波銀座」と呼ばれるこの地域では、福岡の放送局だけでなく、山口や大分の電波までも受信することが可能だった。
ちょうどその頃、山口ではテレビ朝日系列の放送局が開局し、その関係で、山口にある日本テレビ系列の放送局では「電波少年」を同時ネットし始めた。
僕は、1週間早く見られるというアドバンテージを得たいがために、テレビのチューナーを調整し、山口の電波を受信し、「電波少年」を東京と同じ時間帯に見ていた。

つまり、僕は「大石恵三」をほとんど見ていなかった。
だから、他の多くの人と同様、僕も「大石恵三」の具体的な内容をほとんど知らない。

ただ、「大石恵三」が終わってからのインパクトはよく覚えている。
ホンジャマカとバカルディという実力若手コンビが始めた番組を多くの芸能関係者が期待していたため、それがコケた後の反動がものすごかった。
だから、終わってからの方がメディアで取り上げられる率は高かったのではないかと思う。
「ホンバカでやっている番組、調子どう?」「あれ、もう終わりました」というやりとりを、僕はテレビで何度も見た。
番組が終了してすぐ、「電波少年」のゲストにホンバカが呼ばれたこともあった。

終了してから話題になる番組、これも「伝説の番組」と呼ばれる理由の1つである。

今の若い人は、「「大石恵三」ってどんな番組だったんだろう?」といろいろな想像をしていることかと思う。
僕も、古い番組に対する憧憬というものに駆られたことが何度もある。
そして、何故その時代に生まれなかったのか、と悔しい思いもしてきた。

でも、「大石恵三」に関しては大丈夫。
ほとんど誰も見ていなかったから、安心していい。
むしろ、今となっては、記号として使うことの方に意味がある。

そして、当時の状況を正確に伝え残すことこそ、お笑い好きの年長視聴者に課せられた使命である、と僕は信じている。
少なくとも、いたずらにあおってはならない。

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2010-05-19 Wed.

謝客

2010-05-19

自動車の後ろの窓に「子どもが乗っています」というステッカーが貼ってあるのを見かけることがある。
見かける度に、僕は「だから、いったい何なのか」と思う。
そこに含まれるメッセージがわからず、対応できないのだ。
「競走馬搬送中」の方が、まだ共感できる。

窓にステッカーを貼っている場合、運転席からの視界を遮らないのだろうか、たぶん遮らないのだろう。
自宅の玄関にも「子どもが住んでいます」などというステッカーを貼っているのだろうか、たぶんそうなのだろう。
僕も貼りたい、「無愛想な人が住んでいます」と、これじゃあ内田百けんだな。

ところで、「子どもが乗っています」に代わる新しいステッカーを思いついた。
それは、「子ども手当をもらっています」。
言っている意味はほぼ等価であるし、こちらの方が奥ゆかしい、と僕は感じる。

それにしても、子ども手当を払った分、老後にちゃんと戻ってくるのだろうか。
年長者に支払い、未成年者に支払い、ずっと搾取されている妄想がする。
僕はそんなに長生きしないだろうから、ただの払い損か。

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2010-05-18 Tue.

存在

2010-05-18

IT関係の事業を手がけている会社の社長が、
「リアルな世界で起こっている出来事であっても、ネットに書かれていないと存在していないことと同じである、とみなされる現象が既に起こっている」
と発言し、ネットによる報道の必要性、他のメディアに対する優位性を主張していた。

ついにそういう考え方まできたか、と思う。
こういうところから、情報による操作が始まるのだろう。

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2010-05-17 Mon.

運指

2010-05-17

モバイル端末でのタッチタイピングをできるようにするための訓練を始めようか、と悩んでいる。
たとえば、携帯電話のテンキーで、文章を速やかに打てるように練習する。
どこか専門学校に入るか、それとも通信教育を始めるかでもしようかな、と。

ただ、始めるのを躊躇している。
モバイル端末の入力方式はまだまだ進化しそうであるからだ。
タッチパネル式の端末が出てきてから、端末からボタンが排除され、様々な入力方式が出てきている。
今のテンキーに対するタッチタイピングを覚えても、近い将来には使い物にならなくなるかも知れない。

携帯電話の文字入力には、以前はポケベル方式を使っていた。
僕がポケベル世代だから、ではなく、ポケベル方式の方が入力が早いと感じていたからだ(僕はポケットベルを持ったことも、ポケットベルにメッセージを送ったこともない)。
しかしながら、ポケベル方式だと英数字を打つのにかなり手間取る。
英数字に関しては、文字の対応を完全に覚えていないと、手探りで打つことになる。
なので、今はかな方式、つまりア行は1、カ行は2…という広く普及している方式を利用している。

両手で文字入力するというのにも挑戦したことがある。
杉下右京がやっていたので、僕もそれにならって試してみたのだ。

でも、あまり上達してはいない。
携帯電話で文字入力をすること、すなわち人にメールを出すことなんてほとんどなく、習熟のチャンスがないからだ。
携帯電話でケータイ小説でも書けば、練習になるのかも知れない。

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2010-05-16 Sun.

尖形

2010-05-16

電化製品の調子が悪い場合、リセットボタンを押すよう説明書に書かれていることがある。
製品によるが、リセットボタンが小さな穴の奥にあるものがある。
その場合、「先の細いもので押してください」と指示されている。

こういうとき、僕はまず爪楊枝を使い、リセットボタンを押そうとする。

一説によると、爪楊枝は歯の掃除には不適切らしい。
そうなのかもしれないが、少なくとも穴の向こうにあるボタンを押すには実に適切な道具だと考える。

ところで、外国の家庭には爪楊枝が常備されているのだろうか。
そう思い、欧米のtoothpick事情について調べようとしたが、いかにも暇人ぽいのでやめた。

仮に常備していないとすれば、何を使うだろうか。
千枚通しや錐、裁縫用の針、アイスピック、シャープペンシル、コンパス、焼き鳥串、レコード針など。
なるほど、先の細いものは結構ある。

それでも僕は、今後も爪楊枝を選ぶのだろう。
「先の細いもの」を選ぶだけでも、その人の生活水準が如実に現れるものだ。

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2010-05-15 Sat.

角突

2010-05-15

僕の目は近視である。
なので、僕は普段、眼鏡をかけている。

眼鏡が汚れているのを異常に嫌うので、眼鏡店の超音波洗浄機を頻繁に利用させてもらっている。
自分用の洗浄機を購入すればいいのだが、自宅に物を増やしたくないし、予算がないのでそうしている。

ところで、僕の眼鏡の「つる」の末端部分には小さい穴が開いている。
おそらく、眼鏡をつり下げるためのチェーンを取り付ける穴だと思われる。
フィクションの中では、だいたいピアノ教師がつけている、あれだ。
僕は使ったことがない。

この穴を見ていて、あることがふと気になった。
そこで、机の引き出しから14年ぶりにコンパスを取り出し、コンパスの針の部分で眼鏡の小さな穴の部分をつついてみた。

すると、どうだろう。
まあ何というか、口にするのもおぞましい、得体の知れない物体がわんさか出てきた。
今の眼鏡を購入したのが2006年なので、おそらく4年分であろう。

ボールペンを使っていると、インクのかすがペン先に付く。
僕は、これを「ペンぐそ」と呼んでいる。
同様に、眼鏡から出てきたこの得体の知れない物体を、今後は「めがねぐそ」と呼ぶことにする。

教訓。
眼鏡の洗浄は、レンズの部分だけでは不十分である。
つるの部分も超音波洗浄機に浸す必要がある。
眼鏡店で店員が眼鏡を洗浄してくれる事があるのだが、おそらくこの穴までは(デフォルトでは)洗ってくれないのだろう。

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2010-05-14 Fri.

汎用

2010-05-14

僕が密かに「マヨワード」と呼んでいるものがある。

盗作されたのを開き直られたときに使う「光栄です」という言葉、ではない。
恐妻家の発言集でもない。

略さずに言うと、「マヨネーズ・ワード」。
マヨネーズは、どんな食べ物にも合う。
「マヨネーズ・ワード」とは、どんな状況にも適用できる言葉、という意味だ。
「マヨネーズ・ステートメント」の方がより適切か。

最近よく使う「マヨワード」は、「それは波だね」。
いいときも悪いときも、どんな状況でも適用可能。
そして、ウケは悪い。

現代を代表する「マヨワード」と思うのは、「脳科学的に」。
人の行為に関しては、いつでも使える。
そして、実態がつかめない。

ちなみに、長年このサイトを読んでいただいている方はご存じかも知れないが、僕はマヨネーズが苦手である。
好きな食べ物であっても、マヨネーズがかけられていると考えこんでしまう。
本来の味がよくわからなくなるからだ。

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2010-05-13 Thu.

音痴

2010-05-13

PCに詳しい、というスタンスを数年前に放棄した。
きっかけは、無線LANが普及し始めたときだ。
無線LANの種類や設定、今までネットにつながっていたのに何故急につながらなくなるのか、といった疑問などに答えられなくなったからである。

テレビやビデオプレーヤー(レコーダー)に詳しい、というスタンスも放棄した。
DVDが普及した頃からである。
DVDの種類やモードがいくつもあって、全くわからなくなってしまった。
家電に詳しいとおっしゃる人にいろいろと熱心に尋ねたのだが、結局わからないままである。
「DVDのプレイリストに出る日本語の文字コードは何なのだろう?」と尋ね、「そこまで知らなくていい」とたしなめられて以来、質問すること自体が怖い。

なので、「1125」とか「1080」などもよくわからない。
B-CASカードとかダビング10とかも納得いかないのだが、仕組みやら根拠やらが全くわからないから、反論すらできない。
ましてや、ブルーレイの録画モードや符号化方式なんて理解不能である。
そして、家電芸人はすごい。
どういう質問が投げつけられるか、というプレッシャーがものすごいのだろう。
おそらく、「答えられない質問への対処法」に長けている人に向いているポジションだ。

地上アナログテレビジョン放送の一部がレターボックスに…、という話があるけど、本当にそうなったら、テレビより先にブルーレイレコーダーを買わないとダメだろう。

それにしても「サザエさん」。
あいつら、今でも黒電話使っていて、テレビもブラウン管のくせに、放送は上下に黒い帯出しやがって。

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2010-05-12 Wed.

道州

2010-05-12

東京のたいていの有名スポットに足を運んだことがある。
でも、1度も行ったことのない有名な場所が1つある。
それは、「自由が丘」。
沿線に住んだこともなく、特に用事もない。
そんな状況で自由が丘にいくチャンスが、これまで1度もなかった。

だから、僕は思い当たる。
全国ネットのテレビで、何の悪気もなく「自由が丘」が取り上げられている時、今のテレビがいかに無神経に東京を押しつけているか、ということに。
行くことのない、全く親しみも関連もない自由が丘の情報を提供されても、僕には何の役にも立たない。

東京の他の地域ならそこまで意識しないのだが、自由が丘に関してだけはその押しつけに気づくことができる。
そして、「日帰りで行ける房総半島の素泊まり宿」とかいう特集に嫌悪感を感じる。

実は、規模が小さいながらも、もっとひどい形で同様のことが行われているケースがある。
それは、九州全域でネットされている福岡製作のテレビ番組である。
九州全域で放送している番組にもかかわらず、番組の内容は天神を中心とした情報が多い。
共同制作と銘打っている場合もあるが、キー局によるただの巻き上げだ、とすら感じる。
実際に、地元の放送局の存在意義すら問われており、ネット解消がしばしば議論されている。

僕は以上の観点から、道州制の安易な導入に反対である。
結局、中心都市圏の勢力が増大し、周辺を食い物にしようとするだけになる可能性があるから。

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2010-05-11 Tue.

当物

2010-05-11

某「パッド」にみんなが注目している中、僕も「パッド」を購入した。

眼鏡の鼻パッドを変えてみたのだ。
とても調子がいい。

しかし、よく第1世代の製品を購入できるものだ。
新しいものに警戒心を覚える僕には到底できない。

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2010-05-10 Mon.

執着

2010-05-10

僕はこの4年の間しつこく、「タカハーラ、オッグロ、ヤナギサーワ、タマーダ、マキ。おーっ」と言い続けたのか、と思うと、情けなくなる。

そして、この12年間ずっと「カズ、三浦カズ」と言い続けたのか、と改めて気づくと、自分のあまりの変化のなさに愕然とする。
時代は移り変わり、世の中は新しいネタで溢れているはずなのに。

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2010-05-09 Sun.

震動

2010-05-09

外出時、携帯電話を常にマナーモードにしたままズボンのポケットに入れている。
しかし、バイブレーション機能が作動しても、それに気づくことはほとんどない。

おそらく体型の問題なのだと思う。
あるいは、神経が死んでいる。

骨伝導着信音機能のある携帯電話があればいいのだが。
あるいは、低周波治療器のパルス波電流のようなものが体内に流れる機能とか。
そこまでくると、もはや携帯電話の機能ではないか。

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2010-05-08 Sat.

実録

2010-05-08

「ライフログ」を残す、というのが最近の一部のムーブメントらしい。
書店に行くと、関連書籍が平台に積まれている。

自分について何でも記録するのは、後々に残ることを考えると少々恐ろしい気がする。
それでも、記録を自動的に取って欲しいな、と僕が考えるものが2つある。

1つは、起床時刻。
目覚まし時計にアラームを止めた時刻を記録する機能がつけば、毎朝の起床時刻を管理できる。
もっとも、iPhoneのアプリに既にありそうだし、人によってはすぐ作ってくれそうだけど。
肝心なことだが、僕はiPhoneを持っていない。

もう1つは、テレビの視聴記録。
自分がどのような番組を見てきたのかが自動的に記録されるものだ。

以前から考えているのだが、番組にIDが付与され、過去の番組表を電子データとして利用できれば、その情報を提供するサーバに問い合わせることで、昔見た番組の内容まで引っ張り出すことができる。
こういうサービスも既にどこかで実装されているのだろうか。

確かに、自分については、よほど人から関心を持たれない限り誰も記録を取ってくれない。
ただ、死んだ後も記録を残すなんて欲のかきすぎ、かな。

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2010-05-07 Fri.

新味

2010-05-07

居酒屋にて。

注文したアイスがあまりに甘く感じた。
そして、気づいたら、ナスの浅漬けに付いてきたからしをアイスに付けて食べていた。
案外、いける。

それにしても、自宅でアイスに黒糖梅酒をかけて食べ始めたら、それは注意信号だと思う。

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2010-05-06 Thu.

決裂

2010-05-06

春の大型連休が終了。
連休中、自宅周辺はものの見事に晴れ続けた。
連休の終盤に至っては、少し暑かったほどだ。
4月までの寒さに疑いすら感じてしまう。
気温の変動があってもいいけど、もっと緩やかにしてもらえないだろうか。
おかげで、連休中は自宅の中で見かける虫の数がすごかった。

連休中、何をしたか。
僕は、あるお笑いタレントと女優の結構披露宴の放送をテレビで見ていた。
3年前に録画したものだ。

どんなにひねくれれば、こんなに晴天続きの連休中に家に籠もってこんなものを見るようになるのか、誰かに検証してもらいたいところだが、僕も物好きで見ていたわけではない。
これは、不具合に見舞われたハードディスクレコーダーに録画された映像を別のレコーダーに取り出すという作業の一環なのだ。
こんなこと、時間をもてあましていなければやらない。

今となっては、本人と関係者以外の誰が見ても、この披露宴に対してはツッコミどころが満載である。

新郎のお笑いタレントは、コンビ解消という「人生のどん底」を乗り越え、この披露宴を迎えた、と紹介される。
「底というものは、そう簡単に到達するものではないよ、未来になればわかるよ」と僕はつぶやく。
新婦の女優は、「安心して見守ってもらえるようしていきます」と両親への手紙で言っていた気がする。
「安心」とは何なのだろう、本人たちの代わりに行政手続きすることだろうか。

「この披露宴に出てくる人、招待客を含めて誰も幸せになっていない」というのが、知人の感想。
僕は、「○○にプロデュースされて人生ズタボロになった芸人」という企画書に着手する。
資産を築き、地位を築くために必要なことは、他力を利用することであろう、たぶん。

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2010-05-05 Wed.

猜疑

2010-05-05

生まれ育った町を訪れ、母校を見て懐かしむ。
実に郷愁に満ちた行動である。
しかし、現代においてその行為におよぶことは到底勧められない。

今の学校はかなりぴりぴりしていて、いわゆる「不審者」を寄せ付けない。
校舎をうるうるした目で見ていると、最悪の場合、職務質問を受けるかも知れない。
南海キャンディーズの山里さんがそういうことを言っていたが、今の時代、職務質問を受けるハードルはかなり低くなっている模様。

なお、校庭で遊んでいる子どものスナップ写真を撮ることもNG。
校舎の鉄棒で、この年齢でも逆上がりできるか確認することなど、もってのほかである。
通報されないよう、ご注意下さい。

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2010-05-04 Tue.

闘争

2010-05-04

報道によると、どうやら検察と政権与党がやりあっているようである。
検察審査会まで巻き込まれている(くじで選ばれた人、お疲れ様です)。

昔の僕だったら、「そういうことをやる余裕なんかどこにもない。国民の生活を優先して働いてください」と思うところだ。
しかし、最近はそうは思わなくなってきた。

権力機関が互いに牽制し合うのは、確かに国民の生活を守るという観点からは無意味だとは思う。
しかしながら、互いに牽制し合えるのは、権力が分散しているからできることだ。
そう考えるとこれは民主主義を維持するコストであるような気もする。
政党と官僚の癒着がこれまでに生んできた歪み(と盛んに報道していた昔)を考えると、おおっぴらにやりあっている方がまだマシなんじゃないか。

権力を集中させ、強権を発動して一致団結した方が、確かに意志決定が進みものごとを進めるスピードが上がるだろう。
しかし、進む方向を誤ったり、弱者の意見が黙殺されたりする可能性は無視できない。
少し前の政権を思い出したり、僕の居住地を統治する知事や首長を見たり、僕が小学生だった頃を思い出したりしても、何だかそういう気がしてくる。
つまり、誰も、何も信頼できないし、無闇やたらに信託できない。

決定のスピードが結果的に遅くなるのは、民主主義においては避けられないコストである、たぶん。

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2010-05-03 Mon.

自律

2010-05-03

始めに弁解しておくが、以下は苦情や批判の類ではなく、過剰表現と実直な感想、そしてジョークに過ぎない。
つまり、そんなに本気のテイストで書いているわけではない、ということだ。
大型連休中の暇つぶしです。


ここ最近、寄付の要請やら会費の支払いやらの電話、DM、電子メール、テレパシーがやたらめったらやって来る。
強欲や不安につけ込む商売に加えて、善意をついたり義務感をあおったりする話がまとわりつくようになった。
そういうお年頃なのかしら。

本当に申し訳ないけど、どの申し出も一様にお断りしている。
申し出に順位付けはしたくないというのも理由の1つだが、何より、投入する資源、つまり資金と時間がないのだ。

資金については、生きていくのに本当に精一杯なものしか手元にない。
簡素な生活を送るためと、叙勲パーティーに呼ばれた時につける腕時計を買うため、毎年低下する視力に対応する眼鏡を買うため、動作が日々緩慢になっていくPCを買い換えるため、このウェブサイトがお世話になっているサーバの管理費用を支払うため、そして何より自分と自分の家族の将来のために必死で働いているのに、資金が本当に足りるかどうかわからずに、不安でいる(重ねて申し上げますが、儲け話もお断りします)。
ここまで意固地に考えるようになったのは、ひとえに社会保障システムに対する不安を必要以上にあおられたのが原因である。

時間についても、僕に残されている時間はほとんどない、という認識に達している。
課せられた職務の遂行以外に人のために使う時間は全くないことを、もっと早く自覚するべきだったのだろう。
仕事はそこそこにして、自分と自分の家族のために時間を使うのが本筋であった。

必要以上の金を稼ぐために仕事をするのは、単に他の人から仕事を略奪するだけの行為のように思う。
一概に言えることではないが、人のためを考えてボランティアに従事するよりも、SASUKEに人生を投じる方が、もしかしたらライフスタイルとしては本来の姿なのではないか、とまで最近の僕は考えるようになってきた(SASUKEに関わること自体が、どこかの放送局に対するボランティアになっている気はするが)。

もちろん、この社会において相互補助が必要なのは理解している。
それゆえ、税金や社会保障費を必要コストと認識して、収入に似合った額を少ないながら毎年支払っている。
そして、税金の使い道についてほとんど口出しすることもなく、民主主義の合意形成システムが機能していると信じ、それにほぼ完全に委ねている(そして、選挙権を行使している)。
ましてや、特別に優遇された公的資金援助などもほとんど受けてはいない。

それでも、多くの人は資金や労力の拠出を求めてくる。
「まだまだ十分とは言えない」って言われても、ほとほと困ってしまう。
多くの人はリターン(心の安定、帰属意識の獲得、人脈形成、施してやった感)があることを強調するが、僕にとってそんなものはリターンでも何でもない。
「紺綬褒章」を欲しがることに反対はしないが、せめて授与のシステムに税金は投入しないで欲しいと真剣に思う。
それに、お金で自己実現なんて果たしたくない。
まさか、僕の寄付金控除枠を本気で狙っているのか。
それでは、本末転倒だろう。

このような矮小で偏向的な人間である僕が他人に対してできることは、本当に限られてくる。
それは、自分の身を自分で守ること、他人の領域を侵さないこと、他人に極力迷惑をかけないようにすること、といった程度のことだ。

自分のキャパシティを超えるような大きなことをしようとすると、決まってほころびが生じ、結果的に他人に迷惑がおよぶ。
それより、自分のできることをしっかり見極め、自分のことをできるだけ自分でこなしたほうがいい。
それが実は誰の時間も費やすこともなく、誰を失望させることもなく、結果的に人のためになっている気がする。

もちろん、自分ひとりではできないことがたくさんある。
できていないことについては、税金や社会保障費を支払って行政に委託するより他ない。

そこまでして、それでも余剰な資金が生まれることがあれば、僕はいの一番にユニセフ国際親善大使の黒柳徹子さん名義の銀行口座に直接振り込むことにしよう、と考えている(改めて言うことではないが、日本ユニセフ協会にではない)。
20年ほど前に徹子さんのモザンビークからのレポートを見て以来、その考えはほとんど揺らいだことはない。
心が揺らいだのは、ベナン共和国へのサポートを目立たないところで10年以上続けている1人の有名人の活動を知ったたときと、多大な恩恵を与えてくれるウィキペディアが寄付を募っているのを知ったときぐらいだ。
他のことに手出ししている余裕は、残念ながら僕にはない。
実際「24時間テレビ」を毎年見ているけど、最初に抱いた考えはほとんど揺らがないし、忘れることもない。

時間について言えば、今後余剰が出ることはなおさらないように思える。
万が一時間が余ることがあれば、神の御言葉が書かれたパンフレットを持って、あなたの玄関先を回る時間に充てたいぐらいである。


…とまあ、ここまでは完全なる長い前置き。
本当に言いたいことは次のことだけ。

2010年1月に行われた、北九州角打ち文化研究会(角文研)5周年記念イベントについてだ。
この記事に出ている、

角文研は、会費も会則もない緩い「組織」である。「鉄の結束」もなければ「しばり」もない。
でも、このようなイベントを企画し実行してしまう面白い集まりである。

に、かなり大きな感銘を受けた。
僕は角文研のメンバーではないし、今後もメンバー申し込みすることもないと思う。
それでも、心の中では1メンバーであるつもりである。
金は出さない、口も出さない、たぶん協力もできない、でも遠く離れた地から応援だけはしています。
ちなみに、僕は「勝手連」というのが苦手です。

さて、これから自分のことをするために時間を使うことにしよう。
さしあたっては、ハイチに送る千羽鶴を折ることにするか…。

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2010-05-02 Sun.

停波

2010-05-02

アナログテレビ放送は2011年7月に停止する予定だが、一部のケーブルテレビではいわゆる「デジアナ変換」というのに対応するのではないかと言われている。
デジタル放送の信号を、アナログチューナーで見られる信号にケーブルテレビ会社側で変換し、それを各世帯に送信するというものだ。

最近の報道によると、どうやら本当に対応してくれるらしい。
自宅もケーブルテレビに加入しているので、これでどうやら保有しているテレビもビデオも買い換えないですむだろう。

ただ、ここで新たな問題があることに思い当たった。
それは、デジアナ変換されてしまうとアナログテレビ放送の停波の瞬間を見ることができないのではないか、ということだ。

おそらく、アナログテレビ放送停波に先駆けて、ケーブルテレビはデジアナ変換に対応してしまうだろう。
そうすると、自宅のアナログチューナーでもデジタルで送信された映像を受信することになる。
デジアナ変換してしまえば、もはやアナログテレビ放送を見られなくなる。

「タモリ倶楽部」でもあったが、アナログテレビ放送の最後は特別の放送をするのではないか、と思ってしまう。
その瞬間を見るためにも、室内アンテナでも買うかな、と。

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2010-05-01 Sat.

移行

2010-05-01

ミニディスク(MD)に入っていた音楽を他のメディアに移行できない(実際には、移行作業が面倒で、かつ必要な装置を購入する予算もない)。
結局、CDからリッピングし直している。
AACのiTunes Plusで本当にいいのかな、と不安に思いながら。

そして残されるのは、大量のMDである。
ポテンシャルがあるのに使い道がなくて、本当に困る。
余剰なものどもを見ていると、なぜだか身につまされる思いがしてくる。
その数、およそ200…?

MDの個数単位とはいったい何なのだろう。
「個」でいいのか、それともディスクなのだから「枚」か。

音楽の入ったMDはまだよい。
元のCDを入手すればいいからだ。
しかし、困るのは、ラジオの録音の入ったMDである。
放送内容を新たなメディアで再入手するのは極めて困難である。

1990年代、僕はいわゆるラジカセを使い、カセットテープにラジオの番組を録音していた。
2001年にMDミニコンポをようやく購入し、MDにラジオ番組を録音できることにいたく感動した。
テープを裏返す必要もなく長時間録音できるからだ。
そして、何度聞いても、音質が変わることもない。

ところが2010年、事態は深刻である。
MDは長期保管メディアとしては適していない。
MDを再生できる機器を早晩失うかも知れないからだ。

現に、僕が保有するMDミニコンポの調子は何となくおかしくなってきている。
コンポを新たに買うとしても、MDデッキが付いているものとなると機種が限られてくる。
MDに記録されているのは電子データだから、それなりの装置があればデータとしてそのまま取り出せるはずだ。
しかし、そういうことができる機種も少ない。
以前、PCの外部記憶メディアとして使えるMDドライブというのがあったのだが、今も手に入るのだろうか。

僕が調べた限り、現状で手に入るもので、MDから音声データを取り出すのに適していそうで、なおかつリーズナブルな製品が、ONKYOのX-N7SX(D)である。
これなら、MDに録音された音声をMP3に変換し、USBに保存できそうだ。
そして、ラジオの録音もMP3でできそうである。

もう1度言っておく、ONKYOのX-N7SX(D)だ。
ここでつぶやいておけば、どこかから転がり込んでくるかもしれない。

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