夕刻
午後5時を過ぎると何も手に着かず、ただただビールのことだけを考えてしまう。
今年は、スーパードライの「エクストラゴールドクーラー」を手に入れた。
我が家ではかなりの頻度で活躍し、いつもより余計に回っている。
自宅にあるシールのストックを使えば、あと5台くらい手に入る計算だ。
午後5時を過ぎると何も手に着かず、ただただビールのことだけを考えてしまう。
今年は、スーパードライの「エクストラゴールドクーラー」を手に入れた。
我が家ではかなりの頻度で活躍し、いつもより余計に回っている。
自宅にあるシールのストックを使えば、あと5台くらい手に入る計算だ。
メッセージを送っている相手は、本当にその人なんだろうか。
どうやってその人であることの確証を得ればいいのだろう。
という最近の疑問を抱えながら、mixiの同僚ネットワークを見守る。
同級生を装い相手に近づき、犯行に及ぶ、というプロットが、「土曜ワイド劇場」でよくあったな。
ところで、今日は、アーノルド・シュワルツェネッガー氏の誕生日だった。
僕の父と同じ誕生月だ。
最近気づいたのだが、僕の誕生日なぞは、誕生日を登録しているサイトやせいぜいWiiぐらいしか祝わない。
つまり、プログラムのif文だけが、僕が誕生してきたことを祝福してくれる。
それにしても、ハンサムは得だ。
全部、帳消しになるんだから。
録画しておいた、「こだわり人物伝 赤塚不二夫 ただただ「愛」なのだ」を見終える。
僕は、大抵の地元出身者を応援するつもりでいるのだが、松尾スズキに対しては拒否反応を示してしまう。
厳密に言うと、松尾スズキのネーミングセンスについていけない。
僕の最悪のお笑い評である、「たぶんそれが面白いと思っているんでしょ」という言葉がつい出てしまう。
それは別として。
第1回で、松尾スズキの故郷が出てきた。
地元の風景がテレビに映るだけで背筋がぞわーとする僕は、たぶんかなり不幸なのだろう。
「昔は、赤塚漫画に出てくるような大人が近所にたくさんいました」という発言に、共感。
僕が子供のころ、赤塚不二夫はもうほとんどテレビに出ていなかった。
なので、赤塚先生がどういう人なのか、というのはほとんど知らないまま育った。
テレビに出ていたころの赤塚不二夫を、松尾スズキは「面白くなく、むしろ悲惨」と評した。
僕がその悲惨さを何となく感じたのは、FBSの日曜昼間に放送した「下落合焼とりムービー」だ。
そのときの感想は、「なぜ、放送局が日曜の昼間にこんなものを放送する勇気を持っているのだろう」。
「24時間テレビ」の深夜で放送された赤塚不二夫とタモリのコーナーを、1度でいいから見てみたい。
以前、テレビでそのコーナーを振り返っていたのだが、その時も映像はおろか静止画すら出ず、イラストに置き換わっていた。
噂によると、かなりの内容らしい。
うだるような暑さが続いている、とテレビで盛んに言われている。
ところで、「うだる」とは何だろうか。
手元の辞書を引くと「ひどい暑さで、からだがぐったりする」(新明解)とある。
だとすると、「ような」っていう言葉はなんなのだろう。
天気予報会社が、「今日は命に関わるような暑さになりそうです」と予報していた。
ありきたりな表現に留まらず、きちんと責任を果たしているプロの仕事だと思う。
理由はわからないが、いろいろなものに恐怖を感じてしまう。
その1つが、止まっているエスカレーターだ。
古くはホラヤビルの使われていないエスカレーターを見て、「上の階はいったいどうなっているのだろう」と考えていた。
最近だと、ラフォーレ原宿・小倉店のエスカレーター。
廃墟感がいたたまれない。
あるいは、喫茶店の洋式トイレ。
理由は詳しく言わないけれど、便座の裏が視界に入ると気持ち悪くなる。
かといって、便座の上にそのまま座る勇気もない。
誰にも見られない密室で、前に入った変態が一体どういう行為をしているか、と想像すると、安心して便座に座ることはできない(除菌ティッシュで拭けばいいのだろうが)。
以前、オセロが「新幹線のU型便座が許せない」と言っていたけど、O型の便座だって結構あやしい。
便座だけじゃなく、手洗い用の蛇口やドアノブであっても、一体何が触れているものか…。
これ以上言うと、パニックが起こりそうだ。
もうやめよう。
実家4日目。
「早く東京に帰りたい」と、実家にいながらホームシックにかかる。
時間があったので、「ももち浜ストア」(TNC)を見る。
飲食店の店主が別の飲食店を紹介していくという、画期的で目新しい企画。
それしても、なぜあんなにウォーターマークが大きいのだろう、すごい邪魔。
リバーウォークのむらさき食堂で昼食。
初めて食べたのだが、飲み過ぎの体に優しく、おいしい。
5年ぶりに京町銀天街を抜ける。
昔の賑わいとはいかないけれど、かなり戻ってきたのではないだろうか。
ウェブサイトの古地図が大変興味深く、一見の価値がある。
小倉駅で、メーテルが描かれたモノレール車両に出くわす。
「空から日本を見てみよう」にも出てきたが、結構なインパクト。
写真を撮ったけれど、ここに掲載するわけにはいかない。
権利問題が難しいからだ。
北九州空港に到着。
例の如く、土産リストをバスト。
帰りも、もちろんスターフライヤー。
なぜスカイマークが参入してきたりするのか、僕には理解不能…、でも納得できない理由の存在は感じる。
振り返ると、小倉に滞在していた期間中ずっと晴れていた。
これは、かなりめずらしいことだ。
機上で、再度「ぜんまいざむらい」を見る。
さすがに2ターン目になると、大人の目線で見てしまう。
羽田空港に到着。
後で知ったのだが、この日の暑さのせいで、A滑走路の舗装がはがれた。
しかし、運航には特に影響がなく、定刻通り。
空港で夕食用の弁当を買い込み、高速バスに乗る。
帰りの高速道路はほぼ全て渋滞、仕方がないけど。
ジャンクションのRの大きなカーブを周りながら、「なぜ実家に行くだけで、こんなに大げさなことになるのだろう」と疑問に思う。
実家を出て7時間で、無事に帰宅。
早速、明太子で一杯やる。
まずは、「るり色の砂時計」(KBC)を視聴。
今度、加来いずみの温泉の入り方を実践したい。
「笑いがいちばん」を見、「アタック25」を見終わり、普段の日曜のタスクを終了。
今日は、小倉の街を歩き回ることにする。
東西方向、南北方向、小倉の市街地の端から端までを歩き、すべてを見てきた。
浸水被害を受けた旦過市場も見てきた(元通りに戻っていた)。
小倉の街を十分堪能した。
おなかいっぱい、当分いらない。
ところで、今週末は「26時間テレビ」が放送された。
僕の視聴時間は20分だった。
今日は完全なオフ、地元で過ごせる自由な1日である。
さて、何をしよう。
そうだ、母校の野球部の応援に行こう、ちょうど決勝戦だ!
東京でそう思いついたその瞬間に、僕が卒業した高校の野球部は逆転負けを喫していた。
し慣れないことを思いつくものではない、でも負けたのは僕のせいではない。
来週であれば、北九州芸術劇場でナイロン100℃の公演があったのだが、今週は何もなし。
九州国立博物館に脚を運ぼうかと思ったが、今は「馬」をテーマにした展示をやっているとの情報を得て、行く気を失う。
博多座でやる舞台「大奥」に松尾れい子が出ているんだけど、「大奥」はちょっと興味がないな。
ミニシアターでかかるような作品を福岡で上映しているんじゃないかと期待したが、思ったほど上映していなかった。
結局「インセプション」か「告白」かどちらを見るかで悩み、時間が合う「告白」を見ることにした。
本来であれば、「告白」のような映画を見に行くことは決してない。
僕は、恐い映画をすすんで見たくないからだ。
そのことを知人に告白すると、「恐いっていうか、暗い映画は見に行きたくないよね」と返され、確かにそうだなと思いなおした。
僕は、暗くて陰湿な映画を進んでみたくない。
それでも見に行ったのは、中島哲也監督作品だったからだ。
感想。
ちゃんとした大人が全く出てこない映画を久しぶりに見た気がする。
人が爆破されるシーンは楽しめた。
そして、僕は岡田将生をしばらくこのキャラクターでしか見られないのだろう。
また、「悠子先生のこと、かわいそうだと思わないの」という一生徒の台詞が心地よかった。
自己の行いを正当化するべく、都合のいい理屈だけを選んで主張する人間の性格がよく表現されていたように思う。
でも、笑えるところがなく、やっぱり暗い映画だった。
女性2人で見に来ている組が比較的多かったけど、見終わった後に何を話すのだろう。
実に12年ぶりに、福岡で自由な時間を過ごすことができた。
偶然、moumoonのインストアライブを楽しむことができた。
小松政夫の生家らしきところも見てきた。
JRで博多まで行く道中、道路建設の現場にいくつも出くわし、「ああこういうことか」と理解することもできた。
また、「The Palm Club Night 2010」のポスターを見ることができ、話のタネができたのがよかった。
小倉へ行った。
こちらは志を果たすまで決して小倉には帰らないつもりでいるのだが、親戚付き合いがあるのでやむを得ない。
小倉へ行くのは、1年2カ月ぶり。
夏休み最初の週末、早朝の地震、そして元工作員がこの日に帰国する、という理由からだろうか。
ウェブで確認したところ、高速道路の渋滞が甚だしい。
高速バスの出発時刻まで粘ってみたが、渋滞が解消しない。
しかたがないので、今回は鉄道で空港まで向かうことにした。
やっぱり夏休みだからなのだろう、電車内は子供連れでどこも混雑。
しかも、地震の影響でダイヤが乱れている。
目の回るような暑さの車内で立ち尽くし、京急蒲田の先のカーブをこらえる。
大鳥居駅で子供連れがプールを目指して降りるのに気をとられて、国際線ターミナル駅を見損ねた。
空港に着く前に、へとへとに疲れてしまう。
3環状の早期整備を切実に願う。
チェックイン。
北ウイングの端にあるレストランで、早くもビールを嗜む。
今回も、もちろんスターフライヤー。
なぜ商工会議所がJALを応援するのか、僕には理解不能。
通常は1番搭乗口なのだが、今回はバスでの搭乗案内。
実は、1番搭乗口に向かうよりもバスで搭乗する方が歩かなくて済むので、楽だ。
チャーター機はどこに駐機しているのだろうか、と車内から空港内を見回すが、見当たらない。
搭乗。
免許を携帯していることを確認し、たぶんB滑走路へ向かっている途中で寝入る。
そして、ベルト着用ランプが消灯する前に目覚め、ドリンクを2杯せしめる。
「雲のうえ」とは別に、下関市の情報誌「083」も配布されていたので、両方ともいただく。
「083」はオンラインでも入手でき、その点では「雲のうえ」は負けているか。
パーソナルテレビで地図を見るのにもほとほと飽きたので、「ぜんまいざむらい」を視聴。
かなり楽しめるアニメーションであることを知る。
北九州空港に到着。
暴力団排除条例が全国で初めて制定された安心の県、中学生が美人局を企てる先進的な街だ。
手荷物引き取り場にあった「北九州空港に連絡鉄道を」の広告がなくなっていたことに、好感を覚える。
到着ロビーでメーテルがお出迎え。
リアクション少なめで、すぐにバスに乗り込む。
バス運賃を支払うのにSuicaが相互利用できるのは、やはりものすごく便利。
小倉駅へ到着。
地下のドラッグストアで必要なものを購入。
暑さで目まいがし始めたので、タクシーへ駆け込む。
この街では、屋根とミストが流行り始めたようだ。
ここが、脚の数が少ないカエルが見つかった川である。
北九州では、「カエルの脚は何本か?」という問いに対する答えは、「概ね4本、時々2本、まれに6本」というのが正しい。
実家に到着。
酒を呑み、めしを食い、虚無を感じる。
郵便配達の不在通知が玄関に挟まっていた。
再配達を頼むために、早速着信課金の電話番号に電話する。
ところが、自動応答の案内に従っても、「お知らせ番号」というのがうまく通らない。
やり方が悪いのか、何度やってもはじかれる。
ウェブでの再配達依頼もうまく行かない。
仕方がないので、オペレーターに直通する市外局番から始まる番号に連絡する。
…つながらない。
話し中か、呼び出し音が鳴りっぱなしかのどちらかだ。
結局3時間で30回くらい電話して、ようやくつながり、再配達を頼むことができた。
別の日。
郵便配達の不在通知が玄関に挟まっていた。
今回は、通常の通知とはフォーマットが異なる、黄色の紙。
しかも、宛名が違っている。
電話してお知らせすることにした。
しかし、着信課金の電話番号が掲載されてなく、オペレーターに直通する番号しか載っていない。
仕方がないので、オペレーターに直通する市外局番から始まる番号に連絡する。
…つながらない。
話し中か、呼び出し音が鳴りっぱなしかのどちらかだ。
結局3時間で30回くらい電話して、ようやくつながった。
宛先が間違っていることを伝えると、オペレーターは「大変申し訳ありません。不在通知を回収させていただきます」と言う。
そして、オペレーターは、回収希望日時と、僕の自宅住所、名前、電話番号を尋ねた。
僕は聞かれるがままにスラスラと答えて、終了。
電話を切って、はっと気づく。
これって、もしかして新手の詐欺ではないか、と。
実は、不在通知の紙は、印刷ではなくコピーされたものであった。
僕はその通知を、完全に信用してしまった。
電話も、本当に郵便事業会社につながったのか確認できない。
相手が誰かも確認しないまま、僕は電話の相手に個人情報を教えてしまった!
不在通知に書かれた電話番号をウェブで検索するが、見つからない。
仕方がないので、郵便事業会社の支店の代表番号に電話して、確認することにする。
…つながらない。
自動応答で、「ただいま混み合っております…」とはじかれてしまう。
結局、何も確認できないままに終わった。
次の日、不在通知の回収に配達員が自宅に来た。
配達員は、何度か会ったことのある「ええ声のおっさん」の郵便事業会社の人(志賀廣太郎似)だった。
本当に郵便事業会社のマターだった、と確認でき、これで一安心。
「ええ声のおっさん」は、何度も謝っていた。
後日、「ええ声のおっさん」が書留を配達に来たのだが、その時も「この間はどうもすみませんでした」とまた謝られた。
そんなに気にしていなかったので、むしろこちらが恐縮してしまった。
以上が、日本郵便と僕との間に最近起きた、小さな騒動のありのままである。
感想。
やはり、顔なじみは重要だな、と思った。
同時に、日本郵便は結構混乱しているのかも知れない、という印象も受けた。
配達員もオペレーターもとても丁寧な対応をしていた。
おそらく、従業員ひとりひとりは自分の仕事を責任を持って遂行しているのだろう。
ただ、日本郵便の内部システムには問題があるのかも知れない。
ちゃんと回っているのだろうか、と心配になる。
まあ、外部から見ている限りだと、この程度しかわからないけれど。
世の中の人々は、反社会的勢力とそんなにお付き合いしていないものなのだろうか。
人間関係の希薄な都会だと、近所の付き合いもそんなにないから、まあ納得はいく。
しかし、地方ではどうだろう。
結構身近なところに、気づかないうちに(あるいは公然の秘密のうちに)根付いている、というのが僕の感覚だ。
何かしらイベントをするとなると、地元の何かしらの有力者が出てきて、その人が何かしらの筋の遠縁の関係者、というのはまれにある。
ある程度の仕事はお願いしつつ、気をつけていないと引き戻せないところまでいってしまうので、その辺りの加減にものすごく気を遣う…、という話を人づてに聞いたりする。
反社会的勢力のしがらみが排除されることは、実に歓迎したいことだ。
しかし、今の報道を見ていると、特定の分野に限った偏向的な報道のように思う。
かかわりのあるものを全て指摘し始めたら何もかもがストップしてしまうかも知れないけど、だからといって「必要悪」と開き直られても、と思う。
昨今の不穏な事情から、この夏は、博多祇園山笠でも小倉祇園太鼓でも「暴力団排除」が高々と謳われた。
金曜に目標に到達するためには、月曜に仕込んでおかなければならない。
ただ、月曜は前の金曜の余韻が残っている場合が多いので、仕込みを施すのは難しい。
だから、火曜、最悪でも水曜に振り幅をもたせて、金曜へとつなげていく必要がある。
顔の広いアナウンサーが火曜に出演したのは、その好例だろう。
「テレフォンショッキング」を見て、「振り幅」などという言葉を自然と使っている自分に気づく。
次の日のゲストを純粋に心待ちにし、「友達の友達はみな友達」という言葉を信じていたあの日に戻りたい。
「名探偵モンク」は、ついに今週で最終回。
最終シリーズになってから次々といろいろなことの始末が付いていき、「もうすぐ終わりなんだな」という思いが募ってきた。
ドラマの性質上、最終回を迎えないと主人公の妻の事件は解決しない。
そろそろモンクさんを解放させてあげてもいいのかな、と最終回を受け入れる準備もできてきた。
そして、ソフト化を切望する、何の影響力もない小市民としては、こうして日記で地道に触れることしかできない。
そんな中、「宇宙船レッド・ドワーフ号」の続編製作について報道がなされた。
報道によると、2011年から2シリーズ分の新作を作る予定。
吉報である。
来年に新作が撮影され、本国で放送され、少し時間が経って吹き替え版が作られ、NHKで放送されるまで、あとどれくらい時間が必要なのだろう。
ただでさえ、NHKのチャンネルが減るのだから、放送するスキも確実になくなる。
放送を見るまで、死ねない理由がまたできてしまった。
「なう」って、ブームが急速に通り過ぎたな。
吉田類のツイッターで多用されているのを見て、痛感する。
だいたい、うちの母親は30年以上前から「NOW!」って言っている(この場合は、「ぎんざNOW!」の「NOW!」)。
ところで、「酒場放浪記」、福岡遠征しないだろうか。
きっと近いうちにそういう機会があるだろう。
そのときはぜひ、北九州の角打ちを取り上げて欲しいな。
東京駅へ行く用事がある場合、昼食の3回に1回は筑紫樓の頂上麺を食べる。
残りの2回のうち1回は、ドトールのようなお手頃な店で食べる。
贅沢なものを続けて食べるのは気が引けるし、体もびっくりしてしまうからだ。
ああ、貧乏性。
残りの1回は…、絶食する。
昼食予算の都合上。
近所の公園に、ついに現れた。
自転車に乗りながら、ブブゼラを吹き鳴らす小学生が。
学級会で取り上げて欲しい問題だ。
選挙が終わってから、めっきり見なくなったもの、
それは、政党のテレビCM。
やはり「投票御礼CM」は流せないのだろうか。
それとも、宣伝するのは選挙の時だけでいいか。
だったら、街にあふれる選挙ポスターを回収する手間を惜しまないで欲しい。
NHK版大相撲ダイジェストや「ごきげんよう」のゲストと司会者のショットを見ると、よくわかる。
アナログテレビ放送がレターボックスになってから、ようやくワイド画面をいっぱい使った迫力ある映像が楽しめるようになった。
16:9の本領発揮だ。
それにしても、謝罪は本当に形だけ整っていれば成立するようになったんだ、と改めて思わされた。
つまり、組織のトップであれば、どういう経歴の人が謝っても構わない。
入った店で流れるBGMが1990年代の音楽、という現象が立て続けに起こった。
こないだの店に至っては、フリッパーズ・ギターの後に、COSA NOSTRAという流れ。
思わず、「ねぇマスター、これって僕に合わせたチョイスなのかな」と言いたくなった。
しかし、その店はどう見ても手広くやっているチェーン店で、従業員が経営者のカリスマ性に心酔しアルバイトを威圧しているような雰囲気だったので、沈黙を保つことにした。
ところで今日、ラフォーレのCMを初めて見た。
聞こえてきたボーカルに、「鈴木桃子か?」と驚き画面を見たが、実際は何とCOSA NOSTRA名義だった。
この夏に、COSA NOSTRAは復活するのだろうか。
…いや、実際にはCOSA NOSTRA復活ではなくて、鈴木桃子が戻ってくる、というのが正しい。
メンバーが数人抜けてからというもの、今もCOSA NOSTRAが続いているという事実にどうも慣れない。
COSA NOSTRAの「world peace」がiTunesで手に入るようになった。
確認すると、15トラックしかない。
音楽配信という形態ではカバーしきれないものがあるのだ、と気づかされる。
メディアに特化していた付録は、技術革新に伴い捨象されていく。
仕方のないことだ。
僕は元来真面目な人間である。
今回も、選挙に行く前に、「選挙」に行ってきた。
新聞に、「選挙」という映画の記事が掲載されていて、その映画を選挙前に見てきたのだ。
実に素直で、真面目だ。
新聞の記事を見て映画を見に行く、という行動は13年前にも実行した。
その映画とは、矢口史靖監督の「ひみつの花園」。
小倉で新聞記事を見て、大学受験がてら、新宿の武蔵野館で見た。
1997年2月27日のことだから、もうずいぶんと昔だ。
さて、「選挙」の上映は午前10時開始のモーニングショー。
場所は、新宿。
9時30分には新宿駅に到着し、駅周辺をしばらく散策する。
実は、今年初めての新宿。
街はどれくらい変化しているのだろう、と思ったが、さほど変化は感じなかった。
13年前と大きく変わっているところもあるが、細かいところがそんなに変わっていない、という印象を持った。
映画館の前に選挙ポスターの掲示板があったので、暇つぶしに又吉イエス氏の訴えを熟読する。
新宿ケイズシネマ、開場。
前にここに来たのは、1998年10月7日。
その時はまだ「昭和館」と名乗っており、ここで「弾丸ランナー」と「ポストマン・ブルース」を2本立てで見た。
場内の空気がよどんでいて、上映中に携帯電話が鳴り、中年男性が電話の相手と不穏な会話をしていた(場所柄、お察し下さい)。
12年来ないうちに、改装されてきれいでおしゃれになっていた。
本編。
海外では観客が大爆笑していたらしいが、さすがに自国のことだとほとんど笑えない。
典型的なドブ板選挙の様子に、ずっとため息をついていた。
唯一笑ったのは、選挙活動第1日目の街頭演説で、応援演説に来ていた国会議員が後ろで「しがらみなんかないぞ」と候補者につぶやき、候補者がそのまま「しがらみは一切ありません」と言っているシーン。
決定的な自己矛盾に、僕は思わず「しがらみしかないじゃん」と声に出して言ってしまう。
僕だって、幼稚園の運動会で議員が園児の前で挨拶しているシーンで大笑いしたかった。
支援者の、「だから、造反なんてとんでもないことなんだよね」というすごみをきかした発言と鋭い目つきは、実に重かった。
ある人達にとって、選挙とは民主主義とはかけ離れたお祭りである。
同じ意見であることを確かめ合い、仲間の顔を把握するための祭りだ。
そう考えると、僕が選挙にあまり関心を持てないのがわかる。
それでも、どんなに嫌気がさそうが、僕は投票することを放棄してはならないのだろう。
そんなことをしても、誰かが喜ぶだけだから。
「観察映画」という、ナレーションはおろか、テロップすら出ない映像で成立しているのには、実に驚いた。
監督の今後の作品も見ていきたい。
次の題材は、名門高校野球部がいいな。
2001年から、参議院選挙の比例代表制に非拘束名簿式が導入された。
僕はこれまで、比例代表の投票の際は、一貫して党名を記入してきた。
その理由は忘れたけど、たぶん候補者を選ぶのが面倒だったんだと思う。
しかし、今回の比例代表では候補者名を書こう、と思った。
ギャグが言いたいがために党名を記入して、「絶好調!」という当選の声を聴くのには耐えられなかったし、人の指示に無批判のまま言いなりとなり、道路信号機で懸垂をするような人に議員職を任せるべきではないと思ったからである。
ただ、比例代表で候補者を選ぶのは難しい、ということが今回よくわかった。
理由は、とにかく情報を得るのが面倒だからである。
一番身近な「選挙公報」には、党の主張は載ってはいるけれど、各氏の経歴や主張の詳細までは載っていない。
じゃあウェブで、ということになるわけだが、これも大変。
比例代表の候補者は180人以上いる。
とてもじゃないけれど、選挙前にすべての候補者のウェブサイトを回る時間がない。
党のサイトは見たが、候補者の情報が不十分なところも多く、知りたい情報が得られない。
もう選ぶのが面倒になって、いっそタコにでも選ばせようかと思ったけれど、買ってきたタコはいつの間にか胃袋の中。
仕方がないので、まず党を選び、そして党の中から候補者を選ぶという2段階方式を取ることにした。
結果的に、比例代表制の理念にあった候補者選びに落ち着いたように思える。
非拘束名簿式になったことには賛同する。
名簿順位を決める仕事が機能しなくなったし、各応援団体の勢力が数値となって現れるようになったから。
でも、現状では比例代表で候補者名を書くことにすごく抵抗を感じる。
非拘束名簿方式はそのままで、有権者がもっと手軽に候補者の情報を得られるような仕組みを整備して欲しい。
例えば、選挙管理委員会は、候補者の情報を一元的に得られるサイトを作るべきだ。
せめて、「ウェブ選挙公報」ぐらい作って欲しい。
現状の「選挙公報」や「政見放送」で議員を選んでくれ、というのは、あまりに虫が良すぎる。
そういうことを誰かが公約に掲げていたら、その候補者に投票していたのだが、僕には最後まで見つけられなかった。
「ウェブ選挙公報」があれば、見つけられたのかも知れない。
それにしても、なぜ桂きん枝は民主党から出馬できたのだろうか。
「なぜ、過去に問題のあった桂きん枝が立候補しているのか」と問題提起するメディアは多くあった。
こういう問題提起は、少し図書館にこもれば、プロのジャーナリストでなくても誰でもできる(実際に、プロでない人たちがウェブサイト上で言及していた)。
しかし、「今回はどういう経緯で、あの桂きん枝が立候補できるようになったのか」を追求した報道には、僕はまだ出くわしていない。
選挙後に期待したい。
趣味は、読書である。
空き時間があれば、本ばかり読んでいる。
読書が趣味であることを公言すると、相手が気を遣って「では、お薦めの本はありますか」とか「今は、どんな本を読んでいますか」と尋ねてくることがある。
しかし、その手の質問に、僕はまともに答えることができない。
5分前に読んだ文章の内容ですら、僕はすでに忘れているのだ。
本の話で盛り上がることなんて、僕の場合は一切ない。
それゆえ、周囲の人たちは「あいつは何のために本を読んでいるのだ」と陰で指摘しているらしい。
「本ばかり読んでいる暗い人間のくせに、大したことを知らない」とも言われているらしい。
親切な人は、その指摘を聴きつけ、僕に「あの人がこう言ってたよ」と教えてくれる。
読書しても何も身についていないことに気づくたび、虚しさを感じる。
趣味が読書だなんて言いたくなくなるし、数少ない人生の楽しみである本を読むことにすら嫌気がさしてくる。
しかし、最近は開き直ることにしている。
これまで読書に多くの時間を費やしてきて、ようやくこの程度を保つことができているのだ、と。
もし自分の限界に嫌気がさし、読書をやめてしまっていたら、僕はコンビニで買物をすることも難しいくらいの知能に落ちきってしまっていることだろう。
誰も納得してはくれないけれど、致し方ない。
読んでも、読んでも、何も役に立たない。
かといって、読むのをやめてしまうと、僕の場合もっとひどいことになる。
いつになるかはわからないけれど、いずれ紙の新聞は消えていくのだろう。
新聞が紙でなければならない必然性がますますなくなっている。
解決する必要がある問題がいくつかある。
まず、新聞広告による下支えの効果が消えてしまうだろう。
それにより、新聞は既存のしがらみから解き放たれるかも知れない。
また、いわゆる輪転機問題も解消される。
逆に言うと、一部の新聞は、輪転機を維持するために紙媒体のままでいることだろう。
新聞販売店や配達員の仕事もなくなってしまう。
逆に言うと、一部の新聞は、配達員をつなぎとめるために紙媒体のままでいることだろう。
近所に、「ラーメン選手権で全国優勝しました」と宣伝している店がある。
先日、ようやく行くことができた。
ラーメンの好みは人それぞれである。
少なくとも、このラーメンは僕の口には合わなかった。
だったら、2度と行かなければいいだけの話だ。
しかし、これだけは言いたい。
そんな宣伝をするのなら、その1番になった時のラーメンを提供して欲しいものだ。
今年は、七夕がらみのイベントやプロモーションが例年より多かった、ような気がする。
ビジネスの新たな潮流の端緒だろうか。
昨年の日記を見ると、今日は相川七瀬の日でもあったし、テレビ東京の日でもあった。
大相撲名古屋場所は、高校-NHKラインが働き、結局中継することになるのだろう。
そう予測していたけれど、そのラインは思いの外弱かった、というより存在していなかったらしい。
どちらかがどちらかに貸しを作ったのだろう。
今後不祥事が露見したら、他のスポーツでも中継しないことで対応していくのだろうか。
例えば、高校野球とか。
こんなにおもしろみのない人生を送っている僕でさえも、7、8月の週末は何かしらの予定がいつの間にか入っている。
暑い中、体を休めることもできないから、9月に高熱を出すことになるのだ。
先週末は、テレビの祭り。
全国一斉「地デジ化テスト」が実施された。
その時間帯、僕は人の指図に従い出向かなければならなかったので、リアルタイムで視聴することができなかった。
なので、録画した。
デジタルとアナログの両方とも。
アナログの砂嵐は、やはりつらいものがあった。
恐くて、夢に出てきそうだ。
そして、今日からアナログ放送のほとんどの番組が、レターボックスになってしまった。
なってしまえば慣れるものだけど、左右の額縁が出てしまうとさすがに見ていられない。
それにしても、デジタル放送は本当に鮮明なのだろうか。
ワールドカップの映像を見ていても、芝生のちらつきや選手から立ち上る湯気みたいなものが気になって、試合に集中できない。
電器店に行き、ワールドカップ公認画質であるブラビアで見ても、やはりちらつきが確認できる。
どうやら僕の目の方に問題があるらしい。
僕もついに、ツイッターを「見」始めました。
多くの人がツイッターを通じて情報を提供している以上、こちらも対応していかなければならない。
ただ、僕はツイッターにアカウントを作らず、フィードリーダーにフィードを登録してツイートを見ている。
なので、こちらからつぶやくことはない。
「トップツイート」というのを見ているのだが、出てくるのは超有名人の意見か、極端な意見ばかりだな、というのが最初の感想。
ところで、最近は多くの店舗でブログやツイッターを公開している。
自宅周辺の住所で検索してみると、近所の店のブログやツイッターがかなり出てくる。
それらを講読し、各内容をつなぎ合わせると、様々な情報が浮かび上がってくる。
サイトの中では時々、客についてコメントされている場合もある。
有名飲食チェーンのアルバイト、と自称している方が非公式に開設しているサイトもある。
そこでは、生々しい内情が吐露されていて、まともに読んでいられない。
「店の近所に住んでいます」という客のツイートまで追ってしまうと、もう大変だ。
エージェントによる監視社会が、リアルな形で到来しつつある。
10年くらい前にドラマで描かれた近未来なら、すでにもう実現しているのではないか。
とにかく、呑気に店に入ってなんていられない。
木曜。
初めてUStreamにアクセスし、「ぴちょんくんチャンネル『24時間てれぴ』」というのを見た。
角川書店のウォーカー編集部などが製作する24時間の生放送。
その番組に21時から吉田類が登場するということを知り、見ることにしたのだ。
内容は、吉田類と東京スカパラダイスオーケストラの川上つよし、そして「福岡ウォーカー」の編集長が、福岡市内の酒場に行き、酒を飲み、話すというものだった。
映像は荒いし、音声は割れている。
そして、聞こえてくる音声は、その酒場に来ている一般客の声の方が大きかったりもする。
途中である人と電話で話すシーンがあったが、電話の相手の声が視聴者にはほとんど聞き取れないまま、話が進んでいく。
何より、酒飲みが酒を飲み、語り合う様子を生放送で流す、という冒険。
酒を飲んで話をする様子をそのまま放送するのは、いわゆる禁じ手である。
一応「ダイキン」の冠が付いているのでもっとちゃんとしているのかと思っていたが、実際は「本当に成立しているのだろうか」というハラハラ感ばかりが募った。
これなら「大阪芸大テレビ」の方がよっぽど完成されている。
しかし、内容はとてもおもしろかった。
実際には作業をしながら音声だけ聴いていたのだが、途中で聴くのをやめようとは一切思わなかった。
何より、未完成なまま、いわゆる「ダダ漏れ」してくるストリーミングを視聴し、気分の高揚すら覚えた。
創生期のテレビは、こんな感じだったのかも知れない。
時間が許され、不眠症に苦しんでいなかったら、他のコーナーもぜひライブで見たかった。
いまや、簡単な技術で誰しも生放送をすることができる、という時代になってしまった。
テレビの中で起こっていたことが、技術の進歩により、自分でも容易にできるようになった。
おそらく、今後内容は洗練されていくのだろうが、その洗練の過程を目の当たりにできる時代に生まれたことは幸運であろう。
関係ないが、今日のひらパーは本当に残念、どうせ行けないけど。
本当に「変わり者」なのだろうか。
確かに僕は、結構な変人だと思う。
そのような陰口がめぐりめぐって、僕の耳に届いたこともある(教えてくれた人たちは、とても親切だ)。
「あいつは「変わり者」だから、この仕事を嬉々としてやるだろう」という思惑で、仕事を都合良く押しつけられたこともある。
自分が変人であることは認める。
しかし、僕は他人を「変わり者」である、とは考えない。
それをし始めたら、すべての人を「変わり者」として認定することが可能になってしまい、キリがなくなる。
ましてや、一部の人たちを都合良く「変わり者」として認定し、その決めつけをお友達同士で楽しみ、利用しようとは一切しない。
だいたい、僕から見れば、海の向こうで人生のすべてを野球に捧げている人も、柔道を競技として取り組みつつ議員選挙にも立候補している人も、一般的な人とは違うので「変わり者」である。
ただ、「絶対的な人気のある人についての悪態はつくな」と有吉弘行がアドバイスしていたし、「変わり者」と呼んでもおトク感を得られないので、何も言わないだけだ。
そんなことを言い始めたら、僕が応援している佐藤琢磨選手や、心の中のバンテリン第1位である中澤佑二選手も、経歴から言ってしまえば「変わり者」である。
話がそれた。
朝日新聞のサイトに、次のようなタイトルの記事が掲載されていたことを言いたかったのだった。
「変わり者数学者、やっぱり賞金拒否 ポアンカレ予想解決」
この記事で「変わり者数学者」とされているのは、ロシアの数学者グリゴリー・ペレルマン氏のことである。
ペレルマンは、この記事で言及されている件の他に、フィールズ賞の受賞も辞退した。
NHKの番組でも取り上げられた数学者である。
「変わり者」かどうかの判断は、個人に保証されている価値観の自由の範疇だと信じたい。
しかし、一般的な人の振る舞いとは違うからと言って、新聞が「変わり者」と呼ぶのは、非常に危険である。
「変わり者」の認定は恣意的に行うことが可能であり、自分たちの保身を図るために、多数派が少数派を迫害する道具として利用されるにもなりかねない。
少なくとも、そのような表現を新聞記者が使用することに、僕は反対する。
受賞したら朝日新聞のインタビューに答えなければならないから、という理由で朝日賞の受賞を辞退すると、「変わり者」と呼ばれるのかも知れない。
いずれにせよ、僕のこの記事はなんか自己弁護っぽいな。
相撲中継がなくなったら、夕方の民放の視聴率が上がるだろうね…。
名古屋場所開催中に放送される「笑点」の収録に間に合うのなら、大喜利のネタになるだろうか。
本業の話題で稼げなくなったら、スキャンダルで骨までしゃぶろう、みたいで、メディアはこわい。
他のスポーツも安閑とはしてられない。