曇天の続き

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2017-11-28 Tue.

不振

2017-11-28

「話がかみ合わないな」と感じていた原因は、僕が発した「見逃した」という言葉にあった。

ある話し合いで、話者の論理展開が強引に感じ、僕はそれに気づいた上で指摘しなかった。
議論の目的がすでに明確であり、論理展開の強引さを正すよりも議論の進展を優先するべきと考えたからだ。
後日、その件が蒸し返され、意見を求められた僕は「その件は「見逃した」」と答えた。
それに対し、「「見逃す」のは注意散漫といえる」という趣旨の指摘を受けた。
指摘の内容を理解できなかったが、聞きただすのもまた本筋から離れることになりそうだ、と判断し、この件についても反駁せず見逃した。

数日経って、突然気づいた。
「見逃す」には、2つの意味があるのだと。

この時僕がつかっていた「見逃す」の意味は、「見過ごす」である。
つまり、気づいていたけど、何も言わなかった、ということを表現したかった。

一方で、指摘を受けた文脈でつかわれた「見逃す」の意味は、おそらく「見落とす」である。
僕のチェック機能が働いていないために気づかなかった、と相手に思われたのだ。

指摘を受けたのも、かみ合わない理由も、すべて僕が「見逃した」ことに起因している。
指摘を受けた件については、指摘を受ける覚悟を持って行っていることだ。
一方で、かみ合わなかった件については、こちらに修正の余地がある。

「見逃す」は、誤解を生じさせる危険な言葉である。
この日記でも、2つの意味で用いている個所がある(「見過ごす」の例「見落とす」の例)。
今後は、つかわないように気を付けよう。

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2017-11-24 Fri.

没落

2017-11-24

ものすごく体調が悪い中、健康診断を受診。
これで病気が見つからなかったら、僕は医者の存在意義を疑う。

順番を待っている際、TVに映っていたのは、「バイキング」。
ほぼ初めての視聴である。

名前は伏せるが、アナウンサーがずっとまごまごしていた。
これで「おもしろい」という演出なら、僕がこの番組を見ることはもうないだろう。
このクオリティで、よくもカメラの前に出てくるものだし、よくも公共の電波に乗せられるものだ。
出演者も制作者も、きっと羞恥心を失うための訓練を積んでいるのだろう。

いわゆる「ニュースバラエティ」とか「情報バラエティ」と称される番組の放送時間は多いが、僕は「情報7days ニュースキャスター」くらいしか見ていない。
どちらかというと、土曜の夜の酒の邪魔をしないから「ニュースキャスター」を見ている程度だ。

朝から同じ素材がこねくり回されているのを与えられ、視聴者は飽きていないのだろうか。
たぶん、飽きないから提供されているのだろう。
同じことをするのなら、テレビ東京以外の民放チャンネルは1つでいい、とまでは言わない(独立UHF局の、行政へのおもねり方を見れば、嫌気がさす)けれど、近い将来本当に1つくらいチャンネルがなくなってしまいそうだ。

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2017-11-23 Thu.

赤糸

2017-11-23

「返却するのが面倒だ」

そういう理由で、レンタルショップに行くのをやめ、見たい映画を借りなかった、という発言を聴いた。

確かに、レンタルショップに行くのは面倒である。
僕の生活動線には、レンタルビデオショップがない。
返却は郵便で済むとは言え、店に行くには、途中の駅で降りる必要がある。
さらに言うと、僕が見たいと思うビデオなどが、その店にあるとは思えない。
実際、事前にウェブサイトで調べて、在庫がないことによる落胆を何度も味わった。

それでは、ウェブサービスでビデオを見ればいい、となる。
そもそも前述の発言も、見たい映画がネットで配信されていないことを確認した上でのものだった。

しかしながら、僕が見たいと思うビデオなどが、ウェブサービスで提供されているとも思えない。
実際、オンデマンドサービスにアクセスし、提供リストに上がっていないことによる絶望を何度も味わった。

むしろ、自分の興味をサービスにオンデマンドしなければならないのだ。

それでもまだ、救いがある。
ウェブサイトで注文すれば、ディスクが郵送されるレンタルサービスがある。

そんな経緯で、およそ2年ぶりに映像ディスクを借りた。
そのタイトルは、「千津子とその妹の物語-「ふたり」メイキング-」である。

見終わってみると、好きな映画第1位は「ふたり」に決めてしまっていいのではないか、とすら思う。
過去を振り返れば、映画ランキング第1位は「ふたり」である、という1996年6月7日時点のメモもあったし。
もちろん、現実に引き戻されると、対外的な意見を述べなければならない世の中からのプレッシャーを覚える。

印象に残ったのは、

  • 雨ばかり降っていた印象があったが、(水を撒いていたのではなく)実際の雨が降った中での撮影が多くあったこと。
  • 中嶋朋子の最後の撮影は、千津子が亡くなるシーンであったこと。
  • 石田ひかりが撮影を終えて、寝台特急「富士」で帰京したこと。
  • 岸部一徳はさすがに若く、赤川次郎が羽田圭介のように見えたこと。

である。
特に、岸部一徳のインタビューでの話は印象に残り、子供のころに持っていた気持ちをいつまでも持つことで、大林作品に参加している、みたいなコメントがあった。

それにしても、少なくとも20年前に最初に見て、計3回くらい見ただけの映画なのに、内容やシーンを、ところどころではあるがよく覚えているものだ。
1997年の尾道旅行でロケ地巡りをしたことを差し引いても、だ。
今後、自分の記憶に新たな「いいもの」が焼き付けられることがあるのだろうか。
思い返しても、ここ10年でいいことを1個だけしか認定できない、この頭で。

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2017-11-17 Fri.

鼓動

2017-11-17

「ドキンちゃんの声の人、亡くなったんだよ」

街で耳にした、子供に告げる母親の声。
キャラクターはいつまでもそのままで、声が失われてしまう。
長寿アニメーションの、愛されるが故の宿命である。

でも、これを「機械が再現しています」と解決するのは、まだ心が追いつかない。
これが許容されるのは、たとえば「モヤモヤさまぁ〜ず2」のショウくんである。

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2017-11-15 Wed.

白犬

2017-11-15

さて、期待することの第3位は、出川哲朗の乱入である。
これは、絶対にあると思う。
僕は、昨今の活躍を見ると、審査員でもいいのではないか、とすら思う。

第2位は、昨年に引き続き、タモリさんの登場、そして総合司会とのからみである。
「おっ、なにやってんの」というようなコメントが聞きたい。

そして、第1位は、やはりはっぱ隊の出演である。
「これに勝る登場パターンはない」と僕は思うので、ウィキペディアにもあるように、まずは「NHKの気持ちがわかっていない」ことから反省を始めてほしい。

…本当の願いは、この忙しさの中でも、2018年の「鶴瓶大新年会」はあってほしい、ということに尽きる。

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2017-11-02 Thu.

小槌

2017-11-02

新栗の季節となり、僕は甘栗店へと足を運ぶ。

「サイズはどれに」との店員の問いかけに、「1,000円のものを」と答える。
「1,080円です」というので、千円札を2枚差し出す。
おつりの920円を受け取る。

時々、「このようなやり取りがよくも成り立っているな」と感心する。
僕は小銭を持っていないために、千円札を2枚渡した。
その際、店員が「お前2,000円持っているじゃないか。じゃあ、代金は2,000円ね」と言い出すことは容易に想定される。
このような言い分が出てこないのが、よく考えると不思議だな、と思う。

こんなことを思うのには、中学高校期を小倉で過ごしてきたことが影響しているのだろうか。
現金をいくら持ち合わせているかを周囲に知られると、とても面倒なことに巻き込まれかねない、という懸念はいつもあった。
まあ、本当に金を持っていなかったのだが。

このエピソードから、わが生誕地を「修羅の国」と呼ぶのなら、そう呼ばせておこう。
しかしながら、僕から言わせてもらうと、他の人があまりに無防備なのだ。
周囲が秩序に従って行動していることは、決して当たり前のことではなく、とても恵まれていることだ。
それに、金を持っていることを知られたら、面倒な奴らが付きまとってくるのは、今も同じである。
ああ、金を持っていなくてよかった。

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