尺調
先日の「たけしのこれがホントのニッポン芸能史」のテーマは「衣装」。
芸能界における衣装が果たした役割について言及されていた。
おそらく芸能界について扱う番組だと思うのだが、番組の終盤に北九州市の成人式の話題が差し込まれていた。
なぜそうなったのかわからないが、たけしさんに見てもらったのは、出身市民として申し訳なく思う。
北九州市では、他の市区町村と同様に、金の使い方に関する教育が不十分なのだ。
たけしさんのおっしゃる通り、結局、ハロウィン。
先日の「たけしのこれがホントのニッポン芸能史」のテーマは「衣装」。
芸能界における衣装が果たした役割について言及されていた。
おそらく芸能界について扱う番組だと思うのだが、番組の終盤に北九州市の成人式の話題が差し込まれていた。
なぜそうなったのかわからないが、たけしさんに見てもらったのは、出身市民として申し訳なく思う。
北九州市では、他の市区町村と同様に、金の使い方に関する教育が不十分なのだ。
たけしさんのおっしゃる通り、結局、ハロウィン。
すいません、取り乱しました。
いろいろと聞いて、「受け止められないけど、受け止めてあげなければならない」という言葉が、最もしっくり来た。
「…しなければならない」という言葉を使わないように普段から気を付けているのだが、今回ばかりは選択肢を定める必要があり、やむを得ない。
あまりにつらくて、たまらずICEの「People, ride on」を聞いている。
「ニュースは今も変わらない メディアが増えても変わらない」という歌詞について、改めて意味を考えることになった。
ここ数日は、時間があればニュースを閲覧していた。
それは、最初の報道に変化をもたらすような新しい事実が報じられることを、無意識に期待していたのかもしれない。
でも、ニュースは変わらない、報じるメディアが増えても事実は覆らない。
そして、情報を受け取った僕は、判断のすべてが委ねられている。
どんなに考えても、答えは出てこない。
それこそが、受け取った側の生きている理由になる。
そう言い聞かせる。
変わらぬ生活を送ること、いつもと同じように人のささやかな期待に応えること。
それは保てているけど、何もしない時間には思い返してしまう。
受け入れられないのだが、受け入れてあげなければならない。
僕はお笑いファンであり、表に出てきたことだけを見聞きして笑うことがすべてだ。
上島竜兵61歳。代表作、これといってなし。
「代表作がない」とは、これほどにも重い言葉だとは気付かなかった。
自分の城を持たず、あらゆるお笑いにかかわり、多数の後進を導いた人。
その笑いは国内にとどまらず、はっぱ隊の代打要員としてアメリカにも行った。
僕が見てきたお笑いの歴史。
そのほとんどにつながりがあり、すべての時間に存在している。
1本の木の根が土の中でつながっていて、その木が奪われたことであらゆる箇所のの土の表面がめくられ、傷を負っている、という感じがしている。
あるいは、これまで楽しんできたお笑いのすべてが強引に裏返しにされそうな感じ。
そんなことは決してないので、必死に抵抗している。
TVを見始めた最初からのスーパースターというのとは違い、TVに出てきたころからその過程を見ているわけだ。
突然で、しかも思いもよらぬ形で、しんどい。
訃報を知った電車内で、隣の人のスマートフォンではNHKプラスで「あさイチ」が放映されていた。
音は聞こえないが、普段と変わらないであろう画面を見て、心が締め付けられる。
きっと、「ラヴィット」も普段通りに放送しているのだろう、たぶん「ヒルナンデス」も。
お笑い芸人は、笑わせることが仕事である、今も、これからも。
軽率な行動を後悔することになるかもしれないが、現時点の感想を率直に記す。
今日まで「お笑いファンは、お笑い芸人の姿を見て笑っているのがよく、それが最大の応援と尊重である」と信じてきた。
今でもそう思いたいのだが、もしかしてそれは間違っているのだろうか。
いや、それが成立していなければ、その人はお笑い芸人ではないのではなかろうか。
それでは、お笑い芸人ではなくなっていたのだろうか。
そんなわけはない!
もしかして、お笑い芸人は自分から辞められないものなのだろうか。
いや、本人が望むのなら辞めるのは許されるものであり、やめてはいけないものは存在する。
改めて、日常の重要性を感じる。
取るに足らないようにも見える日常が人を支えているのであり、決して日常を軽んじてはならない。
「いいとも」のレギュラー経験者をこのような形で失うのも、耐えられない。
「竜兵会vs出川軍」の草野球特番、来週も箱根駅伝の山下りの裏で見られるものと、当たり前のように考えていた。
2022年のTV番組の最高峰だった。
来年の正月をどう迎えればいいのだろう、正月は来るのだろうか。
いろいろ思い出してきりがなくて、眠りにつくのも怖い。
その中で、一番強く思うのはこれだろうか。
「カットしないでね、カットしないでね」
社会復帰。
さて、近頃高校における「朝課外」に関して盛り上がりを見せている。
僕は、実は「賛成派」であった。
僕が高校生の頃、入学して「朝課外」というものが存在することを知り、仰天した。
異論を言える雰囲気でもなく、有無を言わさず受け入れさせられ、毎日7時30分の授業開始に間に合うよう出校していた。
「こんなにはよ行かんでもよかろうもん」と思いながらも従順な態度を見せ、7時起床、7時10分朝食、7時20分に家を出た。
時折7時23分出発、速足で登校し、7時29分に到着ということもあった。
そう、僕の自宅は、生徒の中で最も高校に近い場所にあったのだ。
僕が高校1年の当初、自分のクラスの全員がずっと無遅刻無欠席を続けており、妙な緊張感が漂っていた。
それを家が最も近い僕が途絶えさせるのも興ざめだと、さすがの空気を読まない僕でも心得ていたので、必死で登校していた。
それがある日途絶えて、緊張感から解き放たれほっとしたことをよく覚えている。
同級生の話を聞いていると、登校時間が2時間かかる生徒もいるようで、つまり家を出るのは5時30分ということである。
僕は、近所にあるという理由で高校を選んだような感覚にいたのだが、多くの生徒はそうではなかったのだろう。
まったく、その当時の気概の違いが、今の生き方に現れている。
卒業後、他の地域の人の話を聞き、高校での「朝課外」が福岡県や九州特有の取り組みであることを知り、さらに仰天した。
全国の高校生は一律に「朝課外」を強制させているもの、と信じ切っていたのだが、それは勝手な思い込みに過ぎなかった。
まんまとだまされていた。
その一方で、だまされていなかったら、おそらく僕は地元を脱出することがかなわなかった、と思うようにした。
なので、実は感謝している、何せ普通に歩いて10分の場所に住んでいたのだし、ただだったし。
今になって、「「朝課外」は強制しているものではない」という弁明を聞き、鼻白む。
そんなことを述べる教師がいたら、もう死後の地獄行きを覚悟しているのだろう、立派なものだ。
ただ、思い返すと、「朝課外」は本当に役に立つものだったか、疑問に思う。
確か、「朝課外」は正規の授業ではなかった、と記憶する。
数学であれば、問題集を進めていたはず。
他には英語、古文、漢文があって、それぞれ教科書とは別のサブテキストを使っていた覚えがある。
数学はまだ役に立ったのかもしれないが、他の教科について「やっててよかった」ことなど、一切なかったのではないか。
それだったら、1時間余計に睡眠時間を取った方が脳のためにはよかっただろう。
でも、きっと1時間寝るのが遅くなり、「モグラネグラ」を見るくらいしかしなかっただろうが。
いやいや、せめて英語くらいはしっかり向き合い、リーディングの量を確保しておけばよかった。
こんな惨めな思いをせずに済んだかもしれず、機会を用意していただいていたのに、情けないばかりだ。
つくづく愚かだったと思う一方で、誰も得しない「伝統」の「朝課外」は早急に廃止してしまえばいい、という主張を新たにしたい。
卒業生が何か言うのなら、自分が「朝活」でもすればいい、どうせ早く目が覚めて何もすることがないんだろ。
それが嫌なら、県庁や市役所の早朝開庁でも実現させればどうか、無報酬、無空調で。