府中
ああ、吉田真由子が降板するときがついに来たのか。
ああ、吉田真由子が降板するときがついに来たのか。
子供のころ、祖父に毎月少しずつ藤子・F・不二雄のコミックを買ってもらっていた。
「ドラえもん」に始まり、「パーマン」「新。オバケのQ太郎」「21エモン」が書棚にはあった。
ただ、「ドラえもん」は34巻までで途切れている。
たぶん、連載に追いついてしまい、祖父の習慣もそこで終焉を迎えたのだろう。
Amazon Kindleで「ドラえもん」が購入できることを知った。
2016年は、まだ読んでいない「ドラえもん」35巻以降を、毎月1冊ずつKindleで購入し読み進めることにした。
僕がもし電車内で涙ぐんでいたら、それは「ドラえもんに休日を」の話を思い出しているからである。
ところで、「ドラえもん」45巻だけは、何年か前に購入した。
大長編ではない最後の連載である「ガラパ星から来た男」は極めて難解で、僕は「ドラえもん」を読みなれているにもかかわらず、3回読み直して理解した。
それでいて筋が通っていて、オチもしっかりついている。
巨匠の仕事は実に恐ろしい。
どちらかというと、「ダウンタウンなう」のナレーションがいつもと違っていたことに驚いた。
キャスト側にこだわりがあるのかは知らない。
僕は一時期からはっきり意識しているのだが、もはや芸能ニュースについては、その内容に興味があるのではなく、その内容によってどのような騒ぎが引き起こされるのかという点に着目して、推移を見守っている。
これを、下手をしたら一般のニュースにも適用しようとする動きもあるから、それは厳しくけん制していきたい。
市川紗椰は「菊バウアー」と呼んでいた気がするし、僕はそちらの方がなじみがあるのだが、でも本人が言っているようでは何も言えない。
ウルトラマンスタンプラリーは、今は勢いが収まってはいるものの、開始当初の行列を見る限り盛り上がっているようだ。
2015年夏、お付き合いでポケモンスタンプラリーをやってみた。
感想は、「暑い中動き回って、何が楽しいのか」。
きっと童心を失っているに過ぎない。
ウルトラマンスタンプラリーの参加者の知り合いに感想を聞いてみると、「興味はなかったけど、やっているうちに楽しくなる」。
その人は40代なので、世代背景があるのかもしれない。
だったら、僕がはまるようなスタンプラリーの題材は何だろうか。
そう考えて思い当たったのが、「1990年代新進気鋭女優スタンプラリー」。
これなら、いく。
宇多田ヒカルNHK朝の連続テレビ小説のテーマソングを手掛けることになり、「紅白歌合戦」への期待が高まるとともに、写真で見た宇多田ヒカルが大塚家具の社長に見えた事実も無視できない。
エレベータに乗る際、扉に挟まれる回数が、近頃増えた。
エレベータの操作盤の前に立っている人は開ボタンを押さない。
代わりに、スマートフォンを操作している。
おそらく、スマートフォンで重大な局面に立ち向かっている、察するに株式の信用取引でもしているのだろう。
僕も不注意でスマートフォンを操作している人にぶつかり、そのスマートフォンがエレベータの扉の隙間に落下してしまうかもしれない。
「大沢悠里のゆうゆうワイド」が4月に終わる、と聞いて行ったことは、ラーメン屋に行く、ということだった。
よく行くラーメン屋では、平日の昼間は必ずTBSがかかっており、「大沢悠里のゆうゆうワイド」が流れていた。
なので、僕にとって「大沢悠里のゆうゆうワイド」とは、ラーメン屋である。
このニュースを聞いてから、どうしても行きたくなったので、すきを見て行ってきた。
それにしても、30年も帯番組をやるとは、すごいことだ。
そして、僕はそれをラーメン屋でしか聞かなかった、というのは、情けない。
さらに、このラーメン屋には金曜に行くことがないので、「お色気大賞」を聴いたことがない。
年明けになってからNHKオンデマンドで「紅白歌合戦」を改めて視聴する。
ここ数年の習慣だ。
2016年も、2015年12月31日の「紅白歌合戦」を無事に見ることができた。
「無事に」というのは、昨今生じている諸般の事情から、NHKオンデマンドでの視聴期間が前倒しで打ち切られるのかも、と恐れを抱いていたからだ。
そんな露骨なことはないか。
まず、司会の安定には目を見張るものがあった。
脅威と成長と弁えと鍛錬をそれぞれに感じた。
僕は紅白拮抗していてほしいと願っているので、今回は紅組が勝ったのもうれしい。
右上の「LIVE」という表示が目障りだった。
「紅白歌合戦」=生放送というのは、当然ではないだろうか。
それとも、一部生放送ではなく、その時は律義に「LIVE」表示が消えていたのかもしれない。
NHKオンデマンドで見るゆずは、オリンピックがらみ恒例の、不気味な画面処理があった。
乃木坂46は、「曼珠沙華」の印象だけが残っている。
ぱいぱいでか美のパフォーマンスは記憶にないのだが、せっかく世代間で共有できる歌を提供しているのに、バンドのメンバーがことごどく滑っていくのは、がまんがまん。
氷川きよしが満足そうだった。
ディズニーの安定感に感心し、そういえば宝塚歌劇団は?、と疑問を呈するのは、僕の毎年の口癖らしい。
小林幸子の歌のチョイスには僕はがっかりしたのだが、羽生結弦が口ずさんでいたところを見ると、あれで正解なのだろう。
MISIAの作り込みについては、後に放送された清水ミチコとのラジオを聴かなければ判定できない。
EXILEの前でE-Girlsがパフォーマンスすることなど、全く思い浮かばないのだろうな。
紅白出場までプログラムされたレベッカの再結成。
「フレンズ」をメンバーの友情と絡めて紹介したところが、綾瀬はるかに用意されたセリフの内唯一の失点だったと思う。
「ラズベリー・ドリーム」や「彼女とTIP ON DUO」でもよかった。
ゴールデンボンバーよりも、石川さゆりのテレコには目を見張るものがある。
美輪明宏もそれに倣いつつあるが。
5年連続が「涙そうそう」だと聞くと、納得である。
大トリでもトリでもない「母さーん」。
そこは「おふくろさん」ではないのか、と前回の中森明菜ほどではないがこける。
高橋真梨子を終盤に持ってくるところなど、迷走なのか時代なのか、よく判断がつかなかった。
松田聖子には、相変わらずの時差があった。
最大の疑問は、水樹奈々がこれまで出続けていた理由と今回は選出されなかった理由、そして島津亜矢が選ばれた理由だ。
視聴者全体に配慮された選考基準の難しさを思い知らされる。
そして、大原櫻子はよく働いていたな。
知人に「東京防災」について教えていただく。
こういう基本的なところから、僕は排除されているのだ。
がっかり。
ウェブサイトを見たのだが、確かにブックになっていた。
しかし、pdfファイルがない。
東京都の報道発表にはpdfファイルがあるのだが、章節ごとにファイルが分かれている。
まとまったpdfファイルがない理由がわからない。
貧弱な語彙力では、この程度のタイトルしかつけようがない。
まず思ったのは、この間と同じことだ。
次に、「もう「ミュージックステーション」には出ないんだ」ということだ。
彼らが不自由の中で、自らの多くを犠牲にして人々に尽くしていたことに対し、僕は頼まれなくても感謝する。
2016年に入り、何もいいことがない。
いいことがないものの半月近くは過ごしている。
このまま年末まで耐えきろう。
星野源の歌に、田島貴男の雰囲気を感じる。
悪いことではない。
僕はもはや、北九州市の新成人の「奇抜な格好」に肯定的である。
報道によれば、成人式会場を荒らすこともなく、節度を持って「自己表現」に努めているようだ(そろって扮装することが「自己表現」と呼べるかは指摘を受けそうだが)。
もちろん、犯罪や迷惑行為があれば別だが、そのような話はあまり聞こえてこない。
もっとも、僕は内輪のみで成立するような楽しみは受け入れたくないし、彼らの格好が僕の感覚とは全く相いれないものであるのも事実である。
要は、ハロウィンと同じだ。
彼らのことを、僕は仮装大賞の審査員と同様に見ている。
「ドクターイエロー」のモノクロ写真を見る機会があり、「これなら、恐竜の色がどんなものだったか想像するよりほかないのだな」と実感する。
まさか再び「旅サラダ」を主体的に視聴することになるとは。
タイミングから、これはプロモーションではないか、とすらいぶかしむ稚拙な自分に腹が立つ。
一般的にはやりづらいが、これは芸能界だから。
数年前から、スーツやビジネス用のシャツは、パターンオーダーであつらえている。
こだわりがあるわけではなく、腕が長く、首が細く、胸板が薄いという特異体型ゆえの選択である。
セールを狙って店に行き、わかりもしないのに生地を選び、興味もないのに襟や袖口の形を指定する。
楽しいのはせいぜい、裏地やボタンの色を選ぶ時くらいだ。
そのボタンも、貝ボタンのようなオプションを選ぶことなく、基本料金で済ませる。
カジュアルでも、パンツは既製品でもまだ丈の調整ができるのだが、ジャケットはサイズが気に入るものがなく、オーダーを選んでしまう。
最近では、コートのオーダーまで考え始めている(まだ実行していない)。
そんな僕が共感を覚えるのは、街を行くかつら愛用者に対してである。
僕が気付く「かつら愛用者」は、つまり僕が気付くくらいだから、およそフィットしていない。
今朝見かけたかつら愛用者は、かつらと地毛の色があきらかに違っていた。
同僚と歩いていたが、その同僚はどう思って(おそらく)客先へ向かっているのだろう。
かつらにも既製品はあるだろうが、基本はオーダーメイドだろう。
そのオーダーメイドにも、ランクがあるはずだ。
より細部にこだわりだすと、値段も高くなる、たぶん。
1度かつらを使い始めると、そのフィット感が気になってくる。
頭に合っていなければ、かつらを着用していることが広く知られてしまう。
加齢によって、地毛の色も変わるし、毛量も変わってくる。
頭の状況に合わせて、かつらも徐々に変えていかなければならないだろう。
…そんなことを、パターンオーダーの経験から憶測する。
僕は、オーダーのシャツを着るようになってから、袖丈の短いぶかぶかの既製品を斬るのに恥ずかしさを感じるようになった。
今となっては、オーダー以外のどこの店で服を買えばいいのかわからないくらいだ。
既製服と同様に、選挙も、限られた選択肢の中から妥協して選んでいるだけなのだ。
聞いて最初に思ったことは、「もし「いいとも」があったらな」ということだ。
ヒルズ族(と名乗っている人がまだいれば、の話だが)に教えたいことはないが、「不幸を防ぐにはある程度のお金かかるよ」とは、常に思っている。
伊坂幸太郎のエッセイ「仙台ぐらし」を読み終えたところで、核実験のニュースに恐れおののいていたが、そんなのどこかに飛んで行ってしまった。
まだまだ平和である。