小火
トップリードの映像コンテンツを見る、という項目をリマインダーに登録していたのだけど、その機会が訪れることがあるのだろうか。
残念。
トップリードの映像コンテンツを見る、という項目をリマインダーに登録していたのだけど、その機会が訪れることがあるのだろうか。
残念。
自宅近くの路上に、スマートウォッチが落ちていた。
なぜか「大事なものだし、触れてはいけないだろう」と思ってしまい、そのまま放置してしまった。
通常なら、拾得して警察に届けるところだったのだが、スマートウォッチに躊躇してしまったのは、なぜだろう。
自分の行動が未だに理解できない。
土曜はいつも出掛けるが、今日は都合があって、自宅にいる。
珍しく、録画した番組ではなく、リアルタイムのTV放送を視聴。
実際は、放送の受信映像を表示させながら、読書。
フジテレビの「正直さんぽ」の後、「タイプライターズ」という番組が始まる。
新聞を取りTV欄を確認しつつ、その番組のオープニングテーマが気になる。
ピアノを中心としたインストゥルメンタルである。
メモを取り、チャンネルを変え、スマートフォンで検索する。
テーマに使われているのは、Schroeder-Headzの曲らしい。
Schroeder-Headzのことは知っている。
見に行った土岐麻子のライブに、メンバーの渡辺シュンスケが参加していた。
その後、ショップでCDを借り、iTunesに取り込み、1度聴いて星4つを付けていた。
改めて、CDを聞き直す。
番組で使われていたのは「blue bird」で、やはり心地よい。
音源を持っているのに聴いていないとは、情けないことだ。
星5つを付け直す。
TVのチャンネルはBS朝日に合わされ、「ホーム・アローン2」が映っていた。
中学校のイベントで、今はない映画館で見た以来だと思う。
25、6年前にもかかわらずよく話の筋を覚えているものだ。
羽場裕一似のホテル接客係、坂口良子風の母親(むしろ、これは逆か)など、とても印象深い。
佐藤正午「ビコーズ」を読み返す。
2016年の夏から続けている、「小説を読む」という取り組みの一環である。
光文社文庫で言えばP187からの、歩いている様の描写で、文章への没入感が急に高まる。
いつだか覚えていない程の昔には感じていた、小説への没入感だ。
近頃読んだ小説からは感じなかったのは、佐藤正午が持つ力を他の小説が持っていないのか、あるいは読み手の経験値が低かったからだろう。
それでは、このような没入感を今後は他の小説でも感じるか、というと、やはりそうでもないようだ。
今は、1970年代生まれの作家が書いた、よく知られた題名の話を読んでいるが、ストーリーは別として、描写に薄っぺらさを見てしまい、没入とは程遠い。
これは、相性とか種類に帰属する問題なのだと思う。
手元にある光文社文庫の「ビコーズ」は初版第2刷である。
第1刷は1988年5月発行、第2刷は2000年12月とある。
12年間増刷がかけられなかったようだ。
この本を僕はたぶん、中古本として買った。
年明けから、また病院通いである。
本当に、気をつけなければならない。
それにしても、病院のシステムは複雑である。
まず、入り口からどこに行っていいのかがわからない。
わからないので受付に行けば、「何科を受診されますか」と尋ねられる。
僕は、診療科マニアではないので、適切な診療科を選べているのか、不安になる。
再診の場合は、自動受付機で手続きする必要があるらしく、これも手間取る。
受付票が出るけれど、次にどうすればいいか、どこに行けばいいかわからない。
近くにエプロンを着た中年男性がいたので、声をかけ、お世話になる。
診療科の受付に受付票を提示すると、番号が表示されるので待つように言われる。
緊張感のある待ち時間である。
医師の診察を終えたら、診察室を出るように言われる。
でも、何をしていいのかわからない。
待っていたら呼ばれたのでよかったが、思わず帰るところだった。
会計受付に行けば、どうやら自動会計機で支払うらしい。
でも、どこだかわからないので、また尋ねる。
自動会計機と格闘し、支払いを済ませるものの、伝票を取り忘れたらしく、自動会計機がけたたましい音を立てる。
そのまま帰ろうとしたが、そういえば、薬を出すとか医師に言われた気がする。
伝票をよく見ると、薬の引き取り券がついていた。
どこで薬を引き取ればいいかわからず、きょろきょろし、挙動不審をあらわにする。
病院の受診システムは、ぜひとも標準化し、国民に周知してほしい。
この先、老いていくのを考えると、とても不安である。
あれは「白日夢」だったのだろうか…。
TVのチャンネルを変えていたら、「新春テレビ体操 2018」という番組に出くわした。
お馴染の、Eテレらしい、何もないセットのバックに、大きな犬の絵が掲げられている。
まずは、体操陣、演奏陣の抱負から始まる。
2018年は、ラジオ体操放送開始から90年だそうで、ラジオ体操の歴史を振り返った。
江木理一の映像から、1951年のラジオ体操再開が紹介され、ラジオ体操第一の初代、および二代目の一部を披露。
「タモリ倶楽部」で幻のラジオ体操と言われた、あの二代目である。
背景の照明が初日の出みたいで、まるで「ボキャブラ天国」のようである。
そして、現在のラジオ体操第一。
ピアノ、シンセサイザーに加え、木琴、鉄琴、トライアングル、シンバルなどの打楽器がそろった豪華アレンジ。
別番組によると、体操を演じる人たちは、体育大学の教員からの推薦とオーディションで決まるそうで、さすがの切れである。
最後に、一同勢ぞろいしお別れ。
前の人の特徴的な足の引き方による身のかがめ方が、印象に残った。
早くも、「新春テレビ体操 2019」が楽しみな一年である。
それにしても、何のための番組なのだろうか。
期待していたのだが、この年末年始、千葉テレビでの「台風クラブ」の放送はない模様。
さて、近頃「台風クラブ」という言葉をGoogle検索すると、同名のロックバンドがヒットする。
故意なのか確信なのか、それとも偶然なのか、偶然とはいえ、現代人ならネットで検索しないものだろうか、はたまたネットで見つけてラッキーとでも思っているのか、命名理由を調べる気にもならない。
そんな中、2018年の「爆笑ヒットパレード」に「台風クラブ」というお笑い芸人が出演していた。
このような状況なので、冒頭の文章を修正する。
期待していたのだが、この年末年始、千葉テレビでの映画「台風クラブ」の放送はない模様。
「あのアンパンマン号は「整備不良」である」という糾弾を、放送のキャプチャとともにネットにさらす行為。
受容できる範囲内の失敗を恐れるよりもチャレンジの方が重要だと僕は考える。
なので、普段ならとがめないところだ。
それでも「ひげを手入れする暇があるなら練習しろ」と思ってしまうのは、僕が古い人間だからなのか、あるいはひげがまばらに生えてしまうことによる嫉妬があるからなのだろう。
ジュウヨン(重要)な場面でジュウシン(重心)が取れていなかったのだろうか。
「手の震え」という点であれば、僕は欅坂46よりも、後半のウッチャンの方が気になった。
小学生の時に橋幸夫の物まねを練習し、「潮来笠」をカセットテープに吹き込んでいた人が、40年以上を経て紅白歌合戦の総合司会を担い、「いつでも夢を」を歌ったシーンで、最も笑った。
あと、NHKホールから横浜アリーナに呼び掛けた時、ウド鈴木が出るのかと勘違いしたことを、ここに記す。
全般的に、軽薄で無難だった、という印象は強い。
2階のルーフステージがなくなったことには好感が持てる一方で、審査員席が前回同様ステージ下手側に設けられたのは、審査員が始終観客やカメラにさらされており、よくないものと考える。
そもそも、審査員数が8名にまで減ったことが、気に食わない。
ステージの作りのせいで会場がとても狭く感じられ、豪華感が失われていた。
ステージを映す際に見えるカメラスペースは、興ざめだった。
軽薄だと感じるのは、ヒットした歌が少ないからである。
紅白に期待してしまう、重厚感あるコンテンツがなかった。
いくら演出が凝っていても、視聴者に迎合しても、メインコンテンツがなければ、つらい。
過去の曲を出したら文句を言われるし、過去の人を出すのももってのほかだ。
紅白が紅白らしくなくなるのは、歌がないからである。
その点で言うと、今回の出演者のほとんどは、しっかりとした仕事をしていたと考える。
数少ないミスマッチの一つは、郷ひろみの演出である。
これは強く言いたいが、やはり、郷ひろみでは演出に無理があり、偽物のように見えた。
強い意志をもって荻野目洋子にするべきだった。
事情が分からないので、「オファーを断られた」とまで思いたいくらいだ。
無難だったのは、ウッチャンがいたからである。
ウッチャンにオーダーすれば、安定と盤石の内容になるに決まっている。
ウッチャンは、TV番組の王道を最も理解し、それを尊重するタレントの1人である。
自身のネタに持っていきがちな鶴瓶には、こうはできない。
これは、2018年の「鶴瓶大新年会」を見ても、自明である。
僕は、2017年は「安心な紅白」という選択でよかったと思う。
ただ、これが毎年だと、どうかと思う。
また、国民すべてが「安心な紅白」で納得していたかというと、そうは思えない。
結局は、安易なキャスティングや手軽な企画物ではなく、NHKでしか見られないものを見たい。
その力がないのなら、受信料を支払っている甲斐がない。