2024-06-30 Sun.
用度
2024-06-30
今月は、矢部美穂の誕生月であった。
思うに、肯定的な表現としての「美魔女」は、矢部美穂を称する際に最もふさわしいのではないか。
そんな軽口をたたくほどの時間はもう残されていない。
なにせ、矢部美穂が21世紀を過ごした時間の方が、20世紀を過ごした時間より長くなってしまう日が近づいているのだ。
それはさておき、「ねんきん定期便」を見てみよう。
老齢基礎年金額は、基本的には1年加入すれば約20K円増える仕組みであるが、それよりも多い増加額。
老齢厚生年金額は、給与年収の0.5%が増額される計算だが、こちらもそれより多い。
この増加額が60歳まで毎年続くとしたら、学生時代の生活費ほどの額になりそうだ。
この見込みは、以前と変わらない。
そろそろ出口がちらつき始めた。
まず、受給開始年齢は65歳で維持されるのだろうか。
70歳に引き上げられる、という不穏な動きも見えてきており、仮にそうなれば、そこまで食いつないでいく必要がある。
現在働けている状況に感謝している一方で、今の仕事を70歳まで続けられる自信はない。
既得権益組合に入会し、人に指図している風を装うことで金をもらうポジションまでたどり着ける見込みもないし、それを恥ずかしげもなくやり切れる度量も持ち合わせていない。
計算機に指図することすら、次第にままならなくなりつつある。
当然、人や計算機に指図される生活など、この僕ができるはずもない。
だから今、「金の成る木」を渡すのと引き換えに高額報酬が欲しい。
受給開始年齢が維持されたとしても、繰上げ受給の可能性も探りたくなる。
65歳から年金を受け取るとしても、想定できている年金額だと、もしかしたら所得税、住民税はかからないかもしれない。
しかし、仮に課税所得0円だとしても、現在住民登録している自治体だと、国民健康保険料を年間55K円ほど徴収される。
所得割はおおよそ10%であり、所得税と住民税、保険料の総額は、控除後の所得の30%以上となる。
これに加え、介護保険料が国民健康保険料とほぼ同額徴収される。
結局、年間100K円ほど引かれるわけだから、手取りは学生時代の生活費に届かず、ショートしてしまう。
社会の安寧のために受給開始年齢を繰り下げようかと思っていたけれど、その尊い気持ちを踏み潰すような保険制度である。
全額免除や学生納付特例制度を受けていた時期の年金保険料を追納し、社会保険料控除を受けることができたものの、その機会を逸し後悔していたこともあったが、今となっては、自分の裁量が及びづらい年金額を減らすことができ、結果的によかったのかもしれない。
先日、実家で所有していた不動産を売却したために多額の国民健康保険料を払うことになった、と母親が嘆いていた。
これぞまさに「負動産」であり、これだから国民健康保険にかかわりたくない。
親族会社に籍を置けないものかと、切実に願う。
さて、僕の手元には金がない。
ただ、いずれ自分のところに戻ってくる金もあるかもしれない。
配当や売却益を確定申告すると、社会保険料の算定に影響を与える。
これを避けるためには、申告不要を選べばいい。
その方法を封じようと、申告不要を選んでも社会保険料の算定に反映させるようにする制度改定の動きも出てきた。
僕は、公平性の観点から「とっととやればいい」と考えている。
その一方で、現制度を見込んで自分の行く末を考えていた節もあり、自分の戦略には影響を与えることになる。
それでも、現制度で恩恵を受けている資産家のにやつきを想像すると、僕の保険料増額など些細な問題に過ぎないだろう。
先のことはまだ時間があるとして、心配なのは明日の生活費である。
年の途中だが、約7年ぶりに、食費の予算を増額することにした。
水準としては、10年前の10%増しである。
この僕が実体経済に金を回すようになったのだから、物価が着実に上がっている証左であろう。
散髪の頻度を知ることができた首相動静も通信社からの配信記事になったことだし、新聞購読をやめようかと検討したくなる。
そういえば、矢部美穂は旭川市生まれであった。
でも、生まれがそうであるだけで、旭川に住んでいた時期はほとんどないようで、サンプルにはならない。
2024-06-22 Sat.
才媛
2024-06-22
久しぶりに書店に行った。
普段書店に行っていないこともないが、その場合は何か目的があるわけで、たとえば、欲しい本を探すか、ライフワークである雑誌のゴシップ記事拾いをするか、生活が行き詰まり人生をまるごと委ねていい先導者がいないか、という場合である。
今回は、特に目的を定めず、端から書棚を見ていった。
以前はよくやっていたのだが、ここ4、5年は、頭に余裕がなくて、時間を作らなかった。
モールの一角にある、それなりの広さの書店を見回るまで、結局2時間ほどかかった。
それでいて、1冊も買わない。
金はないし、自宅に読んでいない本が何冊かある。
気になった本のタイトルをメモに取る。
これでウィッシュリストがまた30冊ほど伸びてしまった。
小池里奈の写真集が欲しい。
この辺りを目的もなく歩くことも、何年もしていなかった。
セカンドストリートができていて、初めてこの店に入ったけど、今更ながら店構えに驚いてしまった。
今後この店に生活を委ねていいのではないかと思う。
道路がまっすぐになっていて、台地の上にパン屋ができていた。
店に入って一回りし、「なんと素晴らしい店だ」と感心し、何も買わずに出ると、後ろから店員がついてきたように思う。
当然だが、手に商品を持ってないし、口にもくわえていないし、パンをかぶってもいない。
駅前のモスバーガーに入り、コーヒー。
キッチンから、にんじんを千切りにしている音が聞こえてくる。
とんでもなく手間をかけている店だ、という感想を持たせる2024年である。
川村エミコ「わたしもかわいく生まれたかったな」を読む。
先日ラジオに出演しているのを聴き、声がきれいだし、ちゃんと話せるし、タレント力が高いことを知る。
暗い性格の人は苦手だが、「暗かった」性格の人の話は信頼できる。
ラジオに出演するあぁ~しらきの話を聞いていても、とても常識的な人のように感じる。
一般的に言って、僕は何かがぶっ壊れているのだと思うけど、気にしない。
むしろ、売れる人にはスキルがある、ということかと。
2024-06-15 Sat.
八雲
2024-06-15
列車内のディスプレイで、「固定利回り投資」の広告映像を見かける。
何でも、ほったらかしでも値動きなく、購入時点で金利が決まっているから、見通しが立つそうである。
注意事項:正確な情報は、そっちで見てください。
「そうですか」という感想。
自分の好みやスタイルのせいだと思うが、どうやって「約束を守る」ことを見通すことができるのかが、よくわからなかった。
金利は誰がどうやって決めるのだろう、その金利は合理的なのだろうか。
こういうCMが列車内で放映され、すぐに検索する人もいるだろう、僕みたいに。
市場がないと、せめて「健全な市場がある風」に見えないと信用できない性分である。
金利が市場を決めてくれるのなら、まだ話を聞いてみようかと思う。
また、債券を途中で売却できないのも、自由を奪われているようで気が引ける。
そこまでのリスクを受け入れられるほどの懐の深さもない。
知人に「倍にして返すから」と言われているようだけど、それとは違うのだろう。
もちろん、人の考え方の違いは望まれることであり、このような商品の多様性や身近になることには好意的である。
そんなことを思っていると、東京メトロのCMが流れ、藤﨑ゆみあがカラフルな街の中で弾んでいる。
この感じこそ、思い描いていた東京なのだ、と、月曜の朝から光あふれた晴れやかな気もちを抱く。
この東京が僕の周りには存在しない、いや存在を感じられるほどの感性が最初からないのだから、ふがいない自分が嫌になる。
鎌田美礼・女流棋士しかり、誕生年の2008年など、手に届きそうな時間感覚である。
一体、いつまで、どの年代に対してまで、こんなことを言い続けるのだろう。
2024-06-08 Sat.
飾錦
2024-06-08
「華丸・大吉のなんしようと?」を視聴。
TVerで見られるようになり、いい時代になった。
視聴目的は、番組内容というよりも、懐かしい風景に触れたいため。
「原と言えば?」「原四ツ角」
この日見た回は、偶然にも田中麗奈さんが出演する回であった。
特に理由はないが、番組を4回見てしまった。
番組で久留米に凱旋した、久留米ふるさと名誉大使の田中麗奈さん。
4月の久留米つつじマーチに参加して以来だろうか、その時は僕も参加しているつもりになって、近所の土手を40kmほど歩いた。
久留米は「私の心のふるさと」と言っても過言ではない、40年くらい行っていないけれど。
ラーメンの中では、久留米ラーメンが一番好きだし。
小学生の頃の写真や卒業アルバムが映り、おもわず写真を撮る。
以前、田中麗奈さんの写真パネルと写真を撮ったことがあるが、田中麗奈さんの写真が映る画面を写真で撮る、という世界が終わりそうな行為に、そこはかとない自信を持つ。
兄がいて、お父さんはジュンちゃん。
さりげない中国語がよかった。
番組終わりの告知で口にしていた「あれは言えないし…」というのが、「VRおじさんの初恋」のことか、それとも未来の仕事のことか。
それを確かめるまでは、生きていよう。
2024-06-03 Mon.
幽体
2024-06-03
7時起床、8時食事。
出発前に読んだ、小田美里「今日も明日も負け犬。」を置き土産とする。
何というか、自分からはとても遠い価値観で、自分が情けなくなる。
「鳥取」というのが描写なのか、描写だとして成立しているのか、一周回って判断がつかない。
あとがきに希望を感じる。
9時出発。
鳥町商店街の現場は、撤去し終えたようだ。
スマートEXで自由席を購入し、小倉駅から山陽新幹線。
図らずとも、500系がやってくる。
これが最後の500系乗車になるかもしれない。
博多駅に到着。
長い下り階段のたたずまいは、また夢で見たことがあるような既視感。
たぶん、ニュース映像で1回見たのを、悪夢としてリピートしているだけなのだろう。
初めての七隈線。
学生などで、混んでいる。
のんびりと進むようにも感じるけど、地上の渋滞を思い返すと、「これなら、実家から六本松への通学もかなうか」と悔やむ。
でも、いろんな意味で、もう手遅れ。
途中駅で降りる。
外環状道路の上には福岡高速が伸びる。
天気が良くて、光がまぶしい。
11時開店のラーメン屋の前には、櫛田入りを待っているのか、と言わんばかりの血気盛んな人だかり。
時間が限られているし、昨日ラーメンを食べたところだし、入店を断念する。
次に来る機会は、いつになるのだろう。
トマトジュースを購入。
気分がいいので、歩くことにする。
日差しは強いのだが、風があり、暑いのはそこまで気にならない。
室見川を渡り、商業施設に到着。
目的もなく、館内をプラプラと歩く。
軽く食べるものでも、と案内を見ると、たこ焼きのわなかがあることに気付いた。
4月に大阪に行ったとき、時間がなくてたこ焼きを食べなかったのだが、まさか福岡にきて、わなかを発見するとは。
運がいい、というか、チャンスをものにする、というか、とにかく店に行き、たこ焼きを1舟頼み、その場でいただく。
木下写真館のテナントが福岡にあることも、実は東京にもあることを、この施設で初めて知った。
国内最西端の地下鉄駅から七隈線に乗る。
国内最南端の地下鉄駅を通過し、櫛田神宮前駅で下車。
率直に言って、「キャナルシティ前」にしなかったところがいい。
渕上が、マックスバリューになっている。
櫛田神社に参詣し、山笠の準備の様子を見学。
これから飾り山を制作していくようで、屋根の下に作業員が座っている。
来てみてわかるけれど、清道や櫛田入りを待つ場所など、TVで見るよりこじんまりしていて、リアルである。
昼食はラーメンを、と考えてきたが、ここでふと魔が差す。
できるだけ避けてきたのだが、あの有名店の近くまで来たこともあり、思い切って久しぶりのうなぎ。
月曜なのと、時間帯を外したためか、スムースに入店。
それでも席はほぼ埋まっていて、どうやら外国からの観光客が多いようだ。
場所柄か、緊張感の漂う、個室を求める男と入店時に出くわした。
次にうなぎを食べるのは、浜松に行ったときとしたい。
歩く。
立ち寄ったことは何回かあったものの、福岡を訪れたのは11年ぶりくらいか。
新しい春吉橋で、控えめな達筆に触れる。
昭和通り沿いの有名なラーメン屋が閉店している。
エルガーラホールで、「PAO~N」のイベントをやった。
天神を歩くと、本当にイムズがなくなっている。
あの曲がったエスカレータも、もうない。
長浜まで届かない地下街をフタタの前で上がり、少し歩くと、KBC本社。
KBCには、中学生のころに行ったのが初めてで、20世紀の終わりにシネマ北天神に行った以来。
公開空地を見て、先日の「PAO~N」の41周年生放送を思い出し、セブンイレブンで「秘密の箱」のお題を探す。
心残りがないよう、焼鳥屋に行き、鳥皮と豚バラを頼む。
後でわかったことだが、奇しくも、今日の「秘密の箱」の答えは「焼き鳥」だった。
ヒントが、皮、うつ、戦国武将で、僕は「太鼓」だと思ったのだが、確かに、戦国武将の名がついた店であり、福岡らしい問題。
天神から地下鉄に乗る。
福岡市地下鉄の運賃は、クレジットカードのコンタクトレス決済だと、乗車回数にかかわらず最大640円。
今日はこれを存分に利用した。
10分ほどで、福岡空港。
大原松露饅頭を含めた土産を購入。
ボーイング767-300に搭乗したものの、羽田空港が荒天とのことで、離陸許可が出ないのだという。
機内で40分くらい待って、離陸。
A滑走路に到着し、北ピアから10分くらい歩く。
土砂降り。
2024-06-02 Sun.
翠光
2024-06-02
田川を含めた筑豊を訪れるにあたり、事前に帚木逢生「三たびの海峡」を読んだ。
記録がないが、前回読んだのはどうやら20世紀のようで、内容は全く覚えていなかった。
史実を潜り抜け、ここにいるのが、人間である。
4時半ごろ、目覚める。
特にやることもなく、TVを見たり、TVerを見たりして過ごす。
昨日の「めぐみのラジオ」を聴きながら、身支度。
1階のパン屋が無料で提供してくれたパンを食べ、気持ちが落ち着く。
ホテルをチェックアウト。
天候は、晴れ。
改めてみても、変わっているようで変わっていない街並みである。
駅前の路地を抜け、風治八幡宮への参道を上る。
神幸祭を終えたばかりだが、落ち着いている。
「ここに来たことがある」という記憶はない。
宗教上の理由から、賽銭を投げ込むことなく手を合わせるだけで済ます。
椅子に腰かけ、いとこにメッセージを投げつける。
田川に来ています
何日もひたっていたい そんな気が一切しません
中でもお気に入りは 黒ダイヤの羊羹
黒いんですよ
一緒に墓の写真も送りつける。
「風治」の音が「封じ」につながるそうで、というかつなげたようで、それにちなんだお札がある。
父に「ボケ封じ」の札を買おうかと思ったが、こういうのを買って父が考え込むのも厄介で見ていられないので、「厄封じ」の札を選ぶことにする。
巫女と小粋な会話を交わし、1K円を奉じ、由緒書きとともに受け取る。
お守りも並んでいたが、売る場所を選ばないもののようで、大変だと思う。
昨夜のコンビニエンスストアを再訪し、水を購入する。
今朝も若い店員で、良い感じ。
ネット上の評価は何だったのか…、と店内を見ると、イートインスペースは荷物が積みあがっていて使えないし、利用者が使う流しにはラーメンの食べ残しがぶちまけられ、すでに乾ききっている。
これでは、松本まりかも浮かばれない。
線路下をくぐり、階段を上り、石炭記念公園へと向かう。
駅からだと上るのが厄介だが、上ってしまえば景色がいい。
田川市石炭・歴史記念館を訪れる。
受付で入場券を求めると、アンケートに答えるよう頼まれる。
「どちらから」「東京です」「わかりました」というやり取りの後、係員の手元の紙に「富山」と記入された。
もしかしたらアンケート結果をユネスコに提出するのかもしれず、虚偽があってはならないので、訂正してもらう。
スマートフォンで展示物の紹介音声を聞きながら、館内を回る。
声が奥田智子アナのように思えたが、後で調べるとこのシステムを手掛けているのがKBCの子会社であるようで、本当にそうかもしれない。
階上に進み、バルコニーで景色を眺め、香春岳を望む。
実家に香春岳を描いた油絵があるのだが、それと比べると、ずいぶんとへしゃげてしまっている。
僕が記憶している限りでも相貌は変わっており、子供のころの父をもってして「あんな環境破壊、していいんかね」と思っていたらしい。
手前にあるのは、ボタ山である。
近くにいた人たちの会話が耳に入り、「ボタちなんね」「石炭掘った掘りカスよ」「じゃあなんで木が生えとん、石炭やと栄養があるんかね」「そりゃわからんね」「ボタ山から出てくる水は石炭でろ過されとるけおいしかろうね」と異次元な会話が繰り広げられていた。
楽しみにしていた山本作兵衛翁の絵は、レプリカのみの展示であった。
「世界の記憶」に登録されている以上、厳重な保管体制を求められており、実物の展示は年2回に限られているらしい。
それに合わせて再訪するのもありだが、こないだ八王子で十分に見たので、その機会は訪れそうにない。
炭都としての栄華は、先ほどバルコニーから見渡した現在の街並みからはみじんも感じられない。
僕が子供のころですら、その雰囲気はなく、ときどき語られる昔話に残すだけだった。
なぜ山本作兵衛翁の絵が「世界の記憶」として認定されたのか、を解説するビデオ上映によると、「公ではない視点」による記録であることが高く評価されているようだ。
「虚飾」もないし、「なかったこと」にもしていない。
政策や資本家からの視点ではなく、それゆえ公式資料には残りにくい実際の記録となっている。
失われた生活そのままを記録しようとした志は偉大であり、実は「誰にでもできること」であることを改めて認識し、我々は実直に実行する必要がある。
竪坑櫓を見た後、喫茶店を地図で見つけ、坂を下り、団地が立ち並ぶ敷地内の店に入る。
チェッカーズを思わせる店主が、コーヒーを選ぶよう促す。
浅煎りで酸味のある味のコーヒーを好むことをお伝えし、ルアンダという豆を薦められ、マフィンと一緒にオーダーする。
コーヒーの味は普段口にするのとはずいぶんと変わっていて、最初の飲み口は紅茶のようで、最後の方は味わいが変わってくる。
マフィンがおいしくて、もう1つ頼んでしまった。
どこから来たのかと問われ、さっきの回答を繰り返し、「でも、30年前に祖父母が住んでいて、田川はそれ以来」のようなことを返した。
気にしすぎなのかもしれないが、なんとなく、相手の表情が曇ったような気がした。
「すっかり変わってしまったでしょう」みたいな話になり、まあ同調する。
バスもなくなり、ターミナル会館は閉鎖され、商店街はシャッターだらけ。
「あそこのコンビニ、元は寿屋がありましたよね」と尋ね、ちょっと場所が違うことを教えてもらった。
「それでも、若い人もいるんでしょ」などと水を向ける。
とても雰囲気のいいカフェだし、さっきから訪れる客も若い親子連ればかりだったからだ。
店主はうつむき、高齢者が人口の3分の2を占め、市の財政は厳しく、健康保険料などが高い、などの話をする。
「駅舎ホテルに泊まった」という話をしても、JR九州は駅舎を市に売ってしまったし、入っている店はなぜか日曜休みだし、などと言う。
要するに、何もいい話がない。
この店はとてもいい店だし、珍しいコーヒーを飲ませてくれるのに、というより、なぜここで店をやっているのか、という昨夜と同様の疑問がよみがえる。
時間となり退散する際に、屈強な男4人組が客として店に入ってきた。
さらに坂を下り、線路の下をくぐる。
前に中学生のような男4人組がいて、僕の存在に気付くと、何かを捨て、その上に唾を垂らした。
近づいてみると、火を付け口にくわえていたものを捨てたようだ。
21世紀ももう4分の1を過ぎようとしている時に、このような風景に出くわしたことに驚き、そんな自分に驚く。
現金できっぷを買い、無人の改札を通る。
これから、平成筑豊鉄道伊田線に乗る。
料亭あおぎりと思われる建物を窓外に見て、車両は彦山川の左岸を進む。
立派な複線であるゆえ、新設駅のプラットフォームは両側に作らなければならない。
田川市立病院駅に昔の香春岳を描いた壁画があって、それが背後にある現在の香春岳との対比になっており、なかなか面白い。
左から糸田線が近づいてくる。
単線の糸田線は合流することなく、伊田線とともに三線を保って金田駅に至る。
この車両は金田駅止まりで、直方行きの車両の発車時刻まで少しある。
これはラッキーと、金田駅にある平成筑豊鉄道本社の建物へ向かう。
ちくまるのグッズが本社で売られている、とのことだったが、この日は日曜で、本社は閉まっていた。
乗り場に戻り、運転士にも尋ねてみたが、やはり今日は休みで、ちくまるグッズは売られていない。
「グッズは通信販売でも手に入るんですよね」と一応言い、納得した振りをする。
仕方ないので、ちくまるのLINEスタンプを購入した。
これが初めてのLINEスタンプ購入である。
金田を出て、中元寺川を渡ると、意識していなかったが、山がちになる。
といっても、切通しになっていて、祖父はよく、時刻表に合わせて跨線橋まで僕を連れていき、切通しを走る列車を見せてくれたものだ。
この線路を、最盛期は石炭を積んだ50両ほどの貨車を引っ張る機関車が走った、というのは父親の談。
多くの客を乗せた「ことこと列車」が、またすれ違う。
いろいろあって、列車は遠賀川を渡り、左側から筑豊本線が近づいてくる。
筑豊本線も複線であり、見事な複々線が続き、そのまま列車は直方駅に到着。
昔は、小倉から折尾の短絡線を通り、直方で伊田線に入り、田川伊田から彦山経由で日田へ、などという列車があったのだが、今はそんな想像を許さないほどの大きな車止めがある。
直方駅を建て替えてから初めての訪問であり、昔の駅舎の記憶もないし、今の駅の風景に愛着も感じない。
駅前はアーケードになっている。
小学生のころ、祖母に連れられて直方に行った際、ここで小学校の同級生に出くわしたことがある。
今、アーケードの入り口にはもち吉の店ができている。
その昔、直方には「見番」などもあったようだが、現在その雰囲気を感じられるのは銀行などのレトロな建物である。
長崎街道を歩くと、「甘酒まんじゅう」ののぼりを見つける。
たまらず店に入り、一口サイズの饅頭を数種類購入。
紙に包んでくれる懐かしいスタイルだった。
店主がシートで包装された饅頭を手づかみで取っていたけど、当時ならきっと気にならなかったと思う。
以前は確かダイエーがあり、今は閉まっているのだが、跡地を見たくてそちらの方へ足を向ける。
ポスターが多く貼ってある一角があって、眺めていると、声を出して驚く。
そこにあったラーメン屋の名は、僕が中学生のころからよく行っていて、帰省の度にも訪れ、最近になって長い歴史を閉じてしまった、小倉の名店である。
先代の店で働いていた人が、直方の地で二代目として店を出しているようだった。
にわかに信じられなかったが、ものすごい偶然である。
時間も限られているので、小走りで進み、店へとたどり着く。
まぎれもなくあの店風ののれんをくぐり、迷いなく入店、ワンタン麺を頼む。
少し待ち、ワンタン麺が届けられる。
食べる。
うまい。
たけのこの細切りも添えられているし、ワンタンもあの味である。
以前の店が閉まった後、別の場所で後を継いだ店があるとは聞いていたが、そして小倉にも後継店があると「地球の歩き方」にも載っていたが、偶然歩いた直方で店を見つけたのは、本当に運がいい。
当初の予定とは反対方向に歩いたので、少し急ぐ。
福岡までの延伸を望み高架になっているらしい、筑豊直方駅に到着。
階段を上り、乗り場へ着き、電車に乗る。
少し経って出発。
気を抜いていたのか、渡ったはずの遠賀川を見逃す。
車にディスプレイにある「昼割全線フリー定期券」が、乗車か降車いずれかが対象時間帯にかかっていればいいらしく、判定の仕組みが気になる。
実はこれが初めての筑豊電気鉄道で、黒崎駅前までの全線を乗ったことにより、これでようやく北九州市内の鉄道完乗を果たす。
ずいぶんと長い時間がかかったし、たぶん北方線には乗ったことがないと思う。
黒崎駅に来るのも、20年ぶりくらいだろうか。
でも、「なんしよっと」や光石さんの映画やドキュメンタリーを見ているせいか、駅前の既視感が強い。
小倉でもなじみのパン屋で土産を買って帰ろうと思ったが、店先で誰かがもめているので、やめておいた。
nimocaグッズは見つからない。
電車の時刻に合わせて急いだが、鹿児島本線は10分ほどの遅れ。
車窓から見える黒崎バイパスはよくできているものだと思う。
枝光駅から山へと延びる一直線の坂は、今では名前がついているらしい。
河原をよく見たけれど、もう落ちてはいないようだ。
実家に到着。
父親がホークス戦のTV中継を見ていた。
今日はロバート秋山が始球式に臨んだらしく、和田が5回まで投げ勝利投手の権利を得たが、9回でヘルナンデスが打たれて同点、延長に入るが、放送時間内に試合が終わらなかった。
これで父が不機嫌にならなければいいが、と思い、ラジオ中継でも聞かせようかとしたが、やめておいた。
中継後は「笑点」。
山田雅人が「長嶋茂雄物語」を演じる。
大喜利の答えに母親が声をあげて笑うのに、ショックを受ける。
そのくせ、一之輔の答えでは全然笑わない。
自分の将来が不安になってきた。
ニュースによると、東京は突然の降雨で、羽田空港の離着陸に影響が出ているようだ。
酒宴。
カニ、ローストビーフ、海苔巻きなどをいただく。
もちろん、刺身もある。
父親に薦められている治験の話がされ、一応反対意見を述べる。
もっとも、僕の意見が採用されるのは、パソコン周りの話だけである。
田川での体験を披露し、「家にいても何も起きないから、旅行に行って不都合を経験するといいですよ」と言ってみるが、この意見も当然ながら一蹴される。
おいに修学旅行でどこに行ったかを尋ねたが、「覚えていない」と答える。
「何たる情けないことか」と場は盛り上がったが、よく聞いてみると、おいにとって修学旅行とは、どこに行ったかではなく、誰と行ったかが重要のようである。
情けないのは、今も昔も変わらない僕の方である。
2024-06-01 Sat.
任地
2024-06-01
4時30分、起床。
あまりにもばかばかしいのだが、それくらいしないといけないほどに遠い。
シャッフルは、土岐麻子「Talkin'」。
「眠れる森のただの女」が何言っているかわからなくてとても好きなのだが、ウェブサイトで評をさらうと、中年男性の不気味なコメントばかり拾えて、自分のそれにカウントされていることに吐き気がする。
藤井聡太は、ひとまずしのいだ。
電車の乗客は多い。
目の前にいるのは慶応の陸上部らしく、服に「no luke no life」と書いてある。
土曜の朝だからか、プラットフォームに座り込むスーツの面々も見るようになってきた。
浜松町駅で降り、東京モノレール。
まともな理由で空港に行くために東京モノレールに乗るのは、かなり久しぶりだと思う。
乗車時間は短いのだが、結局空港快速に乗ることになるから、待ち時間がある。
第3の後の第1、第2は、誤降車を招きそう。
聞いているラジオ番組では有吉弘行が、元宝塚女優の詐欺騒動についてコメントしている。
「少ないパイを取り合っている」と言い、「自分も同じようなことをしてしのいでいた」と展開する。
大井競馬場では、すでに馬の調教が始まっている。
羽田空港第1ターミナルに到着。
コンビニエンスストアでたまごサンドを購入。
空港の出発ロビー階にコンビニエンスストアは出店してはならない、などという法律があるのかもしれない。
今回はアプリでチェックインし、画面のQRコードで保安検査場を通過。
飛行機の乗り方はいつ進化をやめるのだろうか、僕は将来出国できるのだろうか。
搭乗ロビーで350ml缶を購入し、人気のない場所へ移動し、クリニックの広告が流れている画面の下で缶を開ける。
スターフライヤー。
機体番号を確認しようとするが、眼鏡の度があっていないらしく、右目がよく見えない。
恐れてはいたけれど、新型機ではなく、パーソナル画面があって安心。
機内はほぼ満席で、隣席は何かのファンでライブに赴くらしく、スマートフォンを機内モードにしてくれない。
動き出してやけに長いなと思っていたら、どうやらD滑走路。
非機内モードにもかかわらず、計器は順調に稼働。
映像コンテンツには満足しがたいところがあり、「きんに君のパワー旅」で国東しいたけの情報を得る。
他に、現北九州市市長が男2人を引き連れて、飲食店で食レポ、という、ふるさと納税よりも選挙権を行使したくなる番組があった。
音楽もなく、機内誌もないのが、不安。
北九州空港に到着、天候は晴れ。
1階のコンビニエンスストアで、「18-36」となっている、北九州空港の滑走路マスキングテープを購入。
小倉駅行きの高速バスは満席で、次の便を待つように告げている。
わけあって、僕は初めて、朽網駅行きの路線バスを選んだ。
このバスでも行列ができている。
新しく作られた高架を通らず、交差点に向かう刹那、急に空腹に襲われた。
と同時に、看板が目に飛び込んでくる。
さっき確認したところ、朽網駅に向かう路線バスは約30分間隔で運行している。
たちまち降車ボダンを押し、交差点を右折し、少し行ったところにある停留所で降りる。
道を引き返し、うどん店へと入る。
店内は、この時間なのでほぼ空いているが、さすがの「朝うどん文化」である。
タブレットでの注文になっていて、かけうどん、かしわおにぎり、しそおにぎりに、トッピングでハーフゴボ天、丸天を頼む。
入力を終えたタブレットは、アナゴを紹介する営業担当か仕入れ担当の中年男性の顔が映るようになり、僕だけだと思うけれど、不快である。
タブレットで、どうやっておでんを頼むのだろう。
ほどなくして、注文したものが届く。
自分のとっさの英断に、というよりうどんの味に感激する。
肉うどんにすると味が混ざるのが苦手で避けており、最近は丸天の揚げた感じを味わいたくて、別皿にする技を覚えた。
これだけ頼んで770円なのだから、感涙である。
計算通り、というか時刻表通りにバスが来て、朽網駅へと向かう。
多分初めてだと思うし、住んでいた当時から「何もない」という触れ込みだったが、今も十分な「果て感」である。
ここからとか、足立山の裏とかから、朝課外のために通勤していたのかと思うと、申し訳なくなる。
そして、こんなところで知り合いにでも会うことになったら、と恐れる。
下り列車に乗って、10分程度で行橋駅に到着。
行橋には子どものころ、祖父母に海水浴に連れて行ってもらった。
あの頃は、駅はまだ高架ではなく、駅前には商店街があって、人がたくさんいた。
田川から確か35番のバスが出ていて、それで行橋まで来て、長井浜の海水浴場まで行ったのだと記憶する。
こう書いていて、記憶が間違っているのではないのか、と思うくらいの感覚がするほで、記憶の雰囲気と異なる。
小学2年の時の担任が行橋に住んでいて、使用済みの通勤定期券を不憫な僕にくれた。
確か1か月定期で、僕のような変わった子どものために、1か月ごとに定期券を購入していたのかもしれない。
小学生の頃の、教師との心温まるエピソードと言えば、この時の担任の先生とのことしかない。
念のために添えるが、1年の時の担任には、心温まるエピソードがなかったが、お世話になった。
当時からそうだったが、今でも行橋は小倉の通勤圏内であるようで、駅前に高層マンションが建っている。
人がにぎわっていたはずの駅前通りを進む。
通りを歩く人はほとんどいないが、車は多い。
交差点を曲がり、細い道を進む。
たたずまいの良い飲食店があり、当初の予定であればここで昼食となっていたはずだが、さっきうどんを食べたので、見送る。
アーケードのある商店街は、店がほとんど開いていない。
味わいのある建物がいくつか並ぶ。
今歩いている道は、地図によると中津口から伸びる中津街道のようである。
行橋は、大橋と行事の合成地名だが、大橋宿がここに設けられており、川の前には大きな飴屋があったそうだ。
道を進み、行橋市増田美術館を訪れる。
地元の実業家のコレクションが展示されており、横山大観などの作品があった。
興味を引いたのは、山下清による陶器に絵付けされたトンボである。
暑い。
国道201号線を進み、モスバーガーで休憩。
行橋でモスシェイクを飲める時代に、乾杯。
行橋駅に戻る。
高架下はJR九州の商業施設のようで、開いていたり開いていなかったりしている。
ディスプレイには西九州新幹線開業の様子が映されており、ここまでやられると、無辜の市民を動員し同じようなことを押し付けてくるような気がしてくる。
現金できっぷを買い、改札を抜け、高架ホームへの階段を上り、稼働しているのか不明な中間改札を抜ける。
平成筑豊鉄道の乗り場には、ちくまる君がラッピングされた車両が止まっていた。
車内の座席も、ちくまる君柄の布地である。
平成筑豊鉄道田川線には、少なくとも30年は乗っていない、と思う。
僕は、大都市近郊区間の大回り乗車を自力で「発見」し、小学4年で実行した。
その時の経路の1つがまだJRであった田川線で、確か行橋駅でかしわめしの駅弁とJNR編集の時刻表を買った。
1時間に1本の気動車が出発し、日豊本線に別れを告げ、今川沿いを進む。
思っている以上に平地が続き、直線的な線形である。
新設駅は対面式ホームが貼り付いているだけの構造である一方で、昔からあった駅の作りは仰々しい。
油須原駅でコトコト列車とすれ違う。
どうやら盛況のようである。
今はトロッコが走る油須原線を確認し、今は閉業している柿下温泉を過ぎ、田川へと山を下りる。
途中から化粧をした女子中学生が乗ってきて、車内で音楽を鳴らし、運転士にたしなめられていた。
彦山川を渡り、田川伊田駅に到着。
広い駅構内は、「男はつらいよ」の志穂美悦子出演作でも確認できる。
乗り場の様子は僕の子供のころと、つまり映画に映っている様子と変わらない。
駅前に出るが、道路だけは変わっていないが、他のものはほとんど変わっている。
子どものころ、駅前の甘栗屋で甘栗を買ってもらったのだが、もちろんなくなっている。
父親についていった病院はまだある。
コインロッカーを探したが、案内図にはあるものの、そこにはない。
荷物を抱え、タクシー乗り場に行く。
運転手が別の運転手と話していて、しばらく気づかれなかった。
事前に母親に十分確認していたので、運転手に寺の場所を伝えるのに難儀はしなかった。
最後に田川を訪れたのは約15年前。
その時は今向かっている寺に行っただけで、わずかな滞在だった。
事実上、田川に来たのは祖父母が住んでいた頃以来であり、およそ30年ぶりである。
向かっている寺へも、当時は路線バス1本で行けたはずだが、廃止された。
30年前と道は変わっておらず、ところどころ思い出す一方で、子どものころとは距離感が違っていて、思っていたよりもとても近く感じる。
寺に到着。
ここでも寺のサイズ感が小さく思える。
母親から言われたとおり、母屋に行き、呼び鈴を押す。
出てきた人に、「納骨堂をお参りさせてください」と言い、祖父の名とともに自分が孫であることを伝える。
名前を言ってどうなるものか、と思っていたのだが、話が通ったらしく、納骨堂に案内される。
祖父が死んだ直後以来、納骨堂に来たのは初めてである。
祖母の葬式にも行けなかった。
これでどうにかなるとも思えないが、ひとまずやることはやった。
母屋に戻り、ごあいさつ。
「よくお孫さんの話をしていた」と祖母についての話をうかがう。
さっきは祖父の名を口にしたが、よく考えれば、寺の活動を熱心にしていたのは祖母の方だった。
祖母は、人の世話を焼く人であった。
僕は、祖母には結局10年以上会っていなかったわけで、最後に会った時には僕のことを認識しているようには見えなかった。
祖母の記憶が他者の中に残っていることは、純粋にうれしい。
待たせたタクシーに乗り、通ったことのない道を進み、もう1つの目的地へ。
料金はPayPay支払いが可能、とのことで、チャレンジしてみる。
QRコード読み込みで支払うと、決済番号の末尾4桁を言うよう頼まれる。
どうやら、その番号で決済と紐付けているようで、もう大変である。
墓に参る。
これまで気にしてこなかったが、改めて墓名標を見ると、祖父、祖母の名とともに、祖父の母親の名前がある。
その他の名前はなんとなくはわかるものもあるが、よく考えたらここに刻まれてもいい名前のいくつかがない。
しばらく考えてみたが、なぜこの墓を僕が継承していかなければならないのか、その道理がわからなくなってきた。
わからなくなってきたが、僕が現状追従主義なので、流れに乗っていくことにする。
それでも、難題が多い。
遠くに見える中学校、ニュースで見た気がする。
とにかく、これで心残りの1つが解消された。
日田彦山線に乗れば、1時間で小倉に帰ることができる。
ものすごく帰りたい。
でも、まだやることがある。
春日神社に寄る。
大晦日の夜、父に連れられて初詣に行った記憶がある。
田川の真夜中を30分ほど歩いて行ったのだから、怖かった。
裏に続く敷地が後藤寺小学校で、山下洋輔が一時期通っていた学校である。
坂を上り、交差点。
歩道橋があった気がするのだが、撤去されたようだ。
ここを曲がるとマクドナルドがある、との看板があり、隔世の感がある。
ターミナル会館のたたずまいは変わらない。
ここでドラえもんの大長編を何度か見たのが、信じられない。
バスがたくさん出ていて、ここから篠栗なり、英彦山なり、行橋なり、寺なり、父の実家なり行き、小倉へと戻った。
井上陽水はここからバスに乗って、田川を出たのだという。
他に、IKKO、バカリズム升野、バイきんぐ小峠を輩出したターミナル会館である、たぶん。
アーケードはやはりシャッター通りとなっていて、人通りがあったころが夢のように思う。
人気がないのが「怖い」という気持ちよりも、懐かしさの方が強いものだ。
おもちゃ屋や書店がまだあるのが驚きで、パスタ屋は閉まっていたが、調べると移転したようだ。
バス停で確認したら、福岡から来る高速バスがあり、それに乗ればいいようだ。
でも、時間もあるので、祖父母の家があったところまで歩くことにする。
さっきも言ったが、道は変わっていないし、建物もほとんど変わっていないように感じる。
人が歩いていないだけだ。
祖父母の家もまだあった。
上り坂を進むと、寺がある。
ここでやっていた夏祭りに、祖父母が連れて行ってくれた。
ヨーヨーや、発光する眼鏡を買ってもらった。
地図によると、この道は秋月街道のようである。
街道の役割を今は国道322号線が担っているのだが、国道は台地の高いところを通っており、よく見ると田川も高低差のある土地だと知る。
伊田に向かって下っていくと、神幸祭にかかわりがあるのか、民家の軒先に飾りが吊るされている。
道の先が開け、香春岳が見えてくる。
伊田線の踏切を渡ると、アーケードの入り口で、アーケードが二股に分かれている。
よく見る夢に出てきた、二股アーケードの風景に似ていた。
ここを何度も通っていたのは間違いなく、この場所が夢の元だったとは思ってもみなかった。
田川伊田駅まで戻ってきた。
今夜は、ここに止まる。
駅舎がホテルになっていて、まるで東京ステーションホテルのようである。
ここがなかったら、僕は「田川に泊まろう」などという気を絶対に起こさなかったであろう。
フロントで説明を受け、クレジットカードで決済をする。
質問を乞われたので、「建物内のレストランで食事をとるつもりですが、可能ですかね」と尋ねた。
レストランは別の運営のようで、明確な答えは得られなかった。
入った部屋はダブルで、トイレとシャワールームは共用である。
少し休み、KBCで小鹿アナが何かしているのを見て、レストランに行く。
店に入ると、客が驚いている様子。
どうやら貸し切りにしているらしく、店員にも確認し、同じ答えを得られた。
これは困った。
地図アプリで飲食店を探す。
いくつか店は見つかるものの、地元ではない人間が入れる店なのか要領を得ない。
後から振り返ると、知られているようなチェーン店も一切なかった。
駅前にスナックがあることは子供のころから知っていて、その前を通ったが、とても入れる雰囲気ではない。
途方に暮れ、さっき前を通った焼鳥屋に入るか、でも客と店員が大きな声で話していたな、でも仕方ない…、と覚悟を決めようとしたとき、アーケードに雰囲気のある店を見つけた。
店の名前が読めないのだが、ここは意を決して、扉を開ける。
客席はカウンターだけで、先客はなく、一人であることを店主に告げ、右端の席に座る。
どう見ても昔からある店ではなく、何かの店舗の跡を改装したようだった。
結果的に、この店はかなり当たりだった。
ささみ刺しとイカの丸焼きを頼み、ビールを飲む。
焼きシイタケにクジラのおばいけを頼み、芋焼酎をいただく。
最後にもつ鍋を頼み、別の芋焼酎をいただく。
締めのちゃんぽんまでいただいた。
入店してほどなくして、若い男性2人組の客が隣に座った。
場所だけに多少身構えたが、明るく気さくな人たちだった。
店主との会話を聞くと、今日は土曜なのに客が全くいないのだという。
鍋と焼酎ロックがとてもあっていて、すいすいと進む。
なぜ田川でこの店をやっているのか、各地の珍味を取り揃えているのか。
それはわからないが、とても興味深い店で、ありがたかった。
気分よく歩くが、緊張感を切らしてはならない。
田川に来る前に調べたのだが、駅近くのコンビニエンスストアの評判があまりよくない、というより、これでいいのかというほどに評価が低い。
そうは言っても大手コンビニなのだから変なことにはならないだろうと、意を決して向かう。
広い駐車場はほぼ満車で、また憂鬱になったのだが、店内はなぜかほとんど客がいない。
それはそれで恐ろしいことなのだが、店員は事前に調べた評判とは異なり、若い女性2名である。
福岡県立大学の学生がアルバイトをしているのではないか、と察する。
酒を何本かかごに入れ、会計も滞りなく処理され、もちろんコンタクトレス決済もできた。
駅舎ホテルへと戻り、まだ誰も使っていないシャワールームを使う。
TVではテレビ朝日で「ほぼブラタモリ」がやっていて、チャンネルを変えて、音を出さないで「花咲舞が黙っていない」を映す。
今田美桜の目が大きくて、ほとんど瞬きをしないことに気付く。