当擦
BS JAPANで放送された映画「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」を視聴。
冒頭、エリザベス女王に対する、とらやでの会話は、忠実な描写だと感じた。
BS JAPANで放送された映画「男はつらいよ 寅次郎相合い傘」を視聴。
冒頭、エリザベス女王に対する、とらやでの会話は、忠実な描写だと感じた。
印象に残った「2010年に読んだ本」のリストを発見したので、ここに掲げる。
タモリのTOKYO坂道美学入門
腰痛はアタマで治す
超一流じゃなくても「成功」できる
正直エビス
チャンスに勝つピンチで負けない自分管理術
本を読む本
打たれ強くなるための読書術
コンサルタントの習慣術 頭を鍛える「仕組み」をつくれ
議論のルールブック
メンタルタフネス
時間はどこで生まれるのか
「足尾から来た女」を視聴。
尾野真千子と國村隼の対峙は、「萌の朱雀」を意識したもの、だったかもしれない。
藤村志保は、やはりあの話し方だったのかもしれない。
それら以外に、得られた知見はなかった。
競艇のCMが昨年より劣化するとは、想定外のことだった。
希望的観測を反省する。
多様性を許容する、というのが、僕の基本的態度であり、努力目標である。
一方で、例外の許容を、熱烈な支持だととらえる人々が若干存在していて、それはとても困る。
僕がされているのと同様、僕も無視しているのに過ぎないので、そのことに気づいてほしい。
さて、僕は、「-くん」、「-クラブ」、「-委員会」などとつけるネーミングセンスが苦手である。
このような名がつけられたものと対面すると、「センスがない」「安直である」「手抜きだ」と考えるようにしている。
これは、僕の偏見である。
もちろん、例外はある。
例えば、ガス警報機の「くんくん」、「タモリ倶楽部」そして「平成教育委員会」などは、積極的に受け入れている。
これら以外の例外もあるので、あなたがつけた名前はその例外に含まれているかもしれない。
ひとまず、ご安心を。
もしかして、旬を過ぎたタレントを起用するのは、NHKの戦略的キャスティングではないだろうか。
広く受け入れられているお笑いの概念であると思うが、「私にはユーモアがある」と自分から主張する人は、たいていつまらないものである。
自省を重ねない人の能力などたかが知れていることは、どの分野でも共通に言えることだ。
僕は、「ユーモアがある」と公言している人を2人知っている。
1人は選挙立候補予定者、もう1人は宗教団体代表である。
制限があることから、名は明かさない。
スカイマークの制服に対する戦略を見るにつけても、スターフライヤーが提供している制服の選択肢には好感が持てる。
以前、渡辺満里奈がTVで、「台所に包丁を放置していると、夫が注意する」という話を披露していた。
もし、何者かが自宅に侵入した場合、そのようなものがあると危険であるから、という理由だった。
その当時の番組内では、夫に対して「しっかりした人だ」という評価に落ち着いていたのだが、今となれば、少々納得のいく話である。
東京のある観光地が苦手である。
しかし、その理由がわからずにいた。
内田樹 著「修行論」を読み、その後この観光地に行って気づいた。
街全体が掃除を怠っているから、僕はこの街が苦手なのだ、と。
店に入ると、ほとんどで独特のにおいがする。
僕はそれを「味」なのだと考え、東京育ちではない僕には理解できないもの、として片づけていた。
改めて店内をよく見ると、壁が汚れていたり、床の色がくすんでいたりする。
街の看板は、埃だらけだ。
少し目をやれば、隅の方に砂がたまっている。
エスカレータの手すりを握ると、手に汚れが付く。
おそらく、毎日掃き清められている個所が少ないのだろう。
だから、においが気になったり、空気が埃っぽく感じたり、汚れが目立ったりしていたのだ。
それで神経質な僕は落ち着かず、居心地の悪い思いをしていたのだ。
どことは言わない。
要は、そこに僕が足を運ばなければいいだけの話だ。
それに、僕が気付いていないだけで、この街にも毎日掃除を続けている人が必ずいるはずだから。
変わらないな。
バスの車体にいつまでもラッピングしている、東進の鈴木杏くらいに変わらないな。
でも、最近は少々危うい。
「なおざり」と「おざなり」の区別を「なおざり」にしているので、普段は、使い方を会得していない「おざなり」を用いずに、「なおざり」だけを「おざなり」に用いている。
言われてみれば、確かにそうだ。
該当者はきっといるはずなのに、マタニティマークを掲示した、高校の制服を着用している人を見たことがない。
視聴するまでは不安だったけど、思ったほどひどくはなかった。
ごり押しには見えず、自然だった。
僕が見る限り、たぶん演出だったと思う。
演出でなければ、司会進行をしていただろう。
他の出演者とは違って、番組の流れを遮るようなことはしない。
忘れないように記録しておくが、僕が「テレフォンショッキング」のお友達紹介システムに限界を感じたのは、岩下尚史が小出恵介を紹介した時だ。
さすがに、スタッフの限界を感じた。
それから1か月もたたずに、このシステムがなくなった。
尾関雅則氏が亡くなった。
「プロジェクトX」(NHK)の「100万座席への苦闘 -みどりの窓口・世界初 鉄道システム-」に出演していた。
「彼らにコンピュータのことを教えてください」と頼み込むシーンは、今も心に残るものだ。
このシステムがあったから、3日の列車遅延による払い戻しを受け、思わぬお年玉を手にできたのだ。
「がんばれ!受験生」を読んでいる。
堀江貴文氏の「いまの若い子、うらやましい」には、まさに同意する。
ほんの20年前に比べたら、今は機会に満ちている。
いろいろな情報にアクセスできるし、自由に行動することができる。
すべてが得られるわけでないことは自覚する必要があるが、過去よりも明らかに自由になっている。
僕はその自由を得られなかった。
それでも、制約のある状況の中では、うまく自由を得られたのではないか、と考える。
過去をすべて肯定していかないと、やっていられない。
残る自由、知らない自由も尊重する。
要するに、僕も言わないので、とやかく言われたくない。
少し前までは、土曜の午前を自由に過ごすことだけが「生きる楽しみ」だった。
今はそれすらも奪われた。
現在の楽しみは、金曜の夜、帰宅途中の列車の中で、音楽を聴き身を任せること、ただそれのみである。
2013年のことだ。
ある駅で、乗っていたエスカレータが突然止まった。
かなりの衝撃であった。
停止後、何とか立っていられた。
周りを見渡しても、特に危険なことが起こっているわけでもなかった。
それどころか、騒いだり、わめき散らしたりしている人もいない。
都会の慣例に倣い、僕も黙って、止まっているエスカレータを何事もなかったように進んだ。
目的地に向かう、という目的を果たすために。
大事故にならなかった理由として、停止したのが上りのエスカレータであったからだ、と僕は考えていた。
しかし、それはどうやら違っていたようだ。
エスカレータに乗る際、僕は当然手すりにつかまる。
昨年、急停止したエスカレータに乗っていた時も、そうだった。
そして、周囲の人たちも倒れなかったところ見ると、みんな手すりをつかんでいたのだろう。
あるいは、オリンピックに出場できるほどの運動神経の持ち主がそろっていたのかもしれない。
いずれにしても、確認していないのでよくわからない。
エスカレータに乗る際、手すりをつかまないのは、過失である。
乗っているエスカレータが停止することはない、と考えるのは、根拠のない過信である。
過失によってもたらされた負傷が、法律でどのように扱われるかは、ぜひとも知っておきたい。
何より、他人に迷惑をかけるわけにはいかない。
そして、他人の過失に巻き込まれるわけにもいかない。
エスカレータがごくまれに急停止することも、不注意な行為をする人間がごくまれにいることも、織り込んでいよう。
でも、手すりをつかんでいて、もしかして指を挟むかも、と想定するのも疲れる。
ルールから逸脱していても立派なふるまいをする人は、ごくまれにいる。
僕が知る限り、そういう人たちは、「自分は立派だから、ルールを逸脱してもいい」とは思っていないように見受けられる。
つまり、あなたではないので、安心してルールを守ろう。
「1円玉廃止論」を知る(「10円未満の通貨の廃止を提案する」WEBRONZA)。
そう、僕は1円が必要ないのではなく、1円玉が必要ないのだ。
現金で決済する場合は、1円単位ではなく、5円や10円に切り上げてほしい。
一方で、電子マネーで決済する場合は、1円単位にしてほしい。
何なら、電子マネーなら1銭単位でもいい。
そうすれば、神社で賽銭を電子マネー決済する際に、1銭単位で小銭を処理できる。
もちろん、神社に導入されるのが楽天Edyだと、僕には関係のない話となる。
本日、「そういえば、モーニング娘。'14になったんだよな」と2014年になって初めて気づいた。
そういえば、正月に「仮装大賞」を放送しないな、という恐怖は、回避された模様。
今回の列車遅延で感じたのは、「列車位置情報提供サービス」の必要性だ。
ある特定の列車の現在位置を知りたい。
時刻表に基づくものではなく、遅延も反映した、実際の現在位置だ。
そうすれば、ドトールでのんきにコーヒーをすすっていることもなかっただろう。
鉄道会社以外にこの情報を提供するのは難しい。
もしかしたら既に存在するのかもしれない。
現に、ウェブを検索したら、いくつか見つかった。
朝、有楽町駅近くの線路わきで、火事が発生していることを知る。
10時過ぎの新幹線に乗る予定だったが、案の定、新幹線は動いていなかった。
新大阪までの列車は通常通りだが、そこから先に向かう列車は、前の列車が動いていないために、とどまったままだ。
これは当分動かない。
そう判断し、モノレール改札口前のコインロッカーに荷物をしまい、ドトールでコーヒーを飲む。
12時近くになる。
どうせ、まだ動いていないだろう。
いったん様子を見に行き、ラーメン屋にでも行くか。
北口、いや新幹線口の方に向かうと、ベルが鳴っていた。
僕が乗るはずの新幹線がアナウンスされている。
どうやら、すでに入線しているらしい。
あわててコインロッカーまで走り、荷物を持ち、また走り、改札を抜け、階段を駆け上がり、新幹線に飛び乗る。
1分も経たないうちに列車の扉は締まり、プラットフォームを離れ、九州を離れる。
新山口まで息切れが止まらなかった。
そういうわけで、今回、かしわめしの駅弁を買いそびれてしまった。
列車も遅延し、結局4時間遅れで目的地に着いた。
大変だった…、と言いたいのだが、内心は喜びにあふれている。
到着が2時間以上遅れれば、特急料金が全額戻ってくることを知っていたのだ。
多少時間がかかってもただ座っていて、その日のうちに帰宅でき、しかも特急料金が無料なのだから、つらくはない。