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八代亜紀の露出度が上がったのは、何か作為的なにおいがする。
八代亜紀の露出度が上がったのは、何か作為的なにおいがする。
カワイイ区とは、名簿集めだったのだろうか。
地味に恐ろしいことが、木曜21時に起こっている。
もはや、ネット上でタレント同士のつながりがあからさまになる時代である。
楽で仕方がない。
一応実家に連絡してみたのだけれど、父親曰く、「なし行くかね。オレやったら、今日は絶対稼ぎ時やと思うけどね。そんなとこに行くかね」とのことだった。
どの立場の人が「稼ぎ時」と思うのか、ここでは言わない。
母親の話だと、今は各県警のパトカーが走っているそうで、「警視庁」の文字も見たことがあるとのこと。
「昔と変わらず、日の出ているうちは平和だよ」らしい。
「こんな時期に」という表現が適切かどうかはよく考える必要があると思うが、とにかく明日から「B-1グランプリ in 北九州」が始まる。
開催の話を最初に聞いたときとは全く違う、憂鬱な気持ちが自分を襲っている。
些細なことだが、公式サイトに記載されている「実行委員会」の英訳が「executive commitee」となっていて、気持ちが悪い。
以前、これから小倉に行く用事があるという人に「夕食でおすすめの店はあるか」と尋ねられたことが数回ある。
しかし、「大学進学で地元を離れてしまった人あるある」になってしまうが、小倉の店を僕はほとんど知らない。
酒が飲める年になったときには、もう小倉にはいなかったからだ。
だから、有用な情報提供ができなかった。
今だったら適切なアドバイスができる。
「ホテルの中にあるレストランがいいだろうね」と。
つまり、夜は外を出歩かなくてもいいよ、ということだ。
もっとも、今尋ねられるようなことは皆無であるが。
朝から複雑な人間関係図を見せつけられ、ほとんど理解できず、電車の中でもずっと考えてしまった。
身も蓋もないことを言うけど、報道されているような性格の人はいるものだ。
もちろん程度の差はあるけれど、周囲を見回しても何人もいる。
一度目を付けられたら、どんなに防衛しても、術中にはまることになる、ように感じる。
「どうやって関わらずに暮らしていくか」「どういう社会システムがあれば有効か」を考えているうちに、降りる駅を通り過ぎてしまう。
ところで、「洗濯機を贈る」というのはユーモアのつもりなのだろうか。
きっと、そうなのだろう。
もし僕がもらうような機会があったら、まずは商品のパンフレットを送って欲しい。
そして、機種を指定したい。
それよりも、生活必需品くらい、自分で買いたい。
マンションを2棟保有していることを知っていても、僕はどうしても山田隆夫には憧れない。
「太陽の帝国」を見れば、考えが変わるだろうか。
テレビ東京の「点線国道踏破」にTJASをぶつけてきたのは、きっとNHKの嫌がらせだと思う。
確か内田康夫だったと思うが、「カレーとラーメンは、旅先でも安心して食べられるものだ」というふうな文章を書いていた。
まずい料理を出す店は多いが、カレーライスとラーメンに限ってはまずいものが出てこないので安心して注文できる、という趣旨だったと思う。
僕の見解では、まずラーメンは、この説に全く当てはまらない。
まずいラーメン(厳密には、僕の口に合わないラーメン)に多く出くわしてきて、まさに「噴飯もの」になったこともある。
ラーメンに比べて、カレーに関しては、この説は比較的当てはまるのではないかと思う。
流れ上怪しい店に入る運命にあったとしても、カレーがあれば、本当に助かる。
そのカレーが「玉ねぎの辛みを生かしたカレー」だと僕は食べられないが、基本的に煮込んであれば大丈夫である確率が高い。
インドを訪れた際も、カレーがあったので乗り切ることができた。
ただし、ネパールではさすがな魅力があるもので、カレーがあっても乗り越えることができなかった。
むしろ、しばらくカレーが不得手になったほどだった。
「いらっしゃいませ」
「あれ、何だっけ、欲しいものは」
「店内でお召し上がりですか」
「そうなんだけど、名前なんだっけな。お魚のパンじゃなくて、チキンのやつなんだけど…」
「ジューシーチキンフィレオですね、セットにいたしますか」
「いやいや、それじゃなくて、パンはいらないんだよ。何ていったけな」
「チキンナゲットですね、ハッピーセットならおもちゃがついてきますが、いかがなさいますか」
「いやいや、ハッピーセットのおもちゃを置くスペースすらない家に住んでいるから。ナゲットじゃなくて、新しいやつ出たでしょ。安いやつ」
「…シャカシャカチキンですね、お味はいかがなさいますか」
「いや、粉で味を付けるやつじゃなくて、もう少しちゃんとしているやつ。昔は1本から売っていたのに、2本売りに変わったやつあるでしょ。あれなんだっけな…」
などという嫌がらせはしたくないが、それにしてもマクドナルドのカウンターにメニューを置かなくなったのは、つらい。
一応、列に並ぶ前に、店内に掲げてあるメニュー表を見るのだが、もはや新しいことを何一つ記憶できないので、たとえ数十秒であっても「ジューシーチキンセレクト」という名前を正確に記憶できなくなっているからだ。
昨年もあったが、今年も蛯原英里の誕生日会の情報が入ってきた。
今年は、蛯原友里の誕生日会も同時に行われた。
この情報はもちろん、実業家としてもおなじみの小嶺麗奈のブログから入ってきた。
自分の店の商品をプレゼントにしたかどうかは、知らない。
風邪を引いてしまう。
おそらく、寒くなったのに気づかずに、前日までと同じような格好をしたことが原因なのだと思う。
決め手となった原因はそれだろうだが、おそらく普段から不注意なことばかり繰り返しているのだろう。
先週辺り、「生きていて今最も頭が冴えている」という感じがしていたのだが、たぶん風邪をひきはじめていただけなのだろう。
ある特集を読みたくて、久しぶりに「週刊プレイボーイ」を手に取る。
390円もする。
とても買う気にならない。
週刊東洋経済とか週刊ダイヤモンドとかは700円近くするが、そんな金を出して買う人がいるのだろうか。
おそらくいるのだろうが、僕は買わない。
だから、このようにうだつが上がらないのだ。
なお、読みたかった特集については、とりあえず立ち読みで済ませた。
地元を長く離れると恐ろしい話のように見えてしまうのだが、特に普通の話だった。
見てくれはともかく、内面については、僕と堂本光一にはいくつかの共通点がある。
まず、F1好きである。
もちろん、僕はにわかファンであるが、彼の知識はよくあるタレントの趣味の域を超えている。
早く解説席に座って欲しいものだ。
次に、究極の直線について考えたことがある。
これについては、彼に負けずとも劣らないくらい考えた自信がある。
「究極の直線」とは、簡単に言えば幅のない線のことである。
紙の上でどんなに細いペンを使ってひいても、その直線には幅がある。
幅のない直線、つまり「究極の直線」とはどのようなものであるか、彼は子供の頃から考えていたそうだ。
この疑問を数学者にぶつけ、数学者は「究極の直線はあなたの頭の中にあります」と返したそうだが、その答えにはしびれる。
そして、きれい好きである。
彼は、シャワーを浴びた後、ぬれた床を踏めないのだという。
これについては、僕は既にこの状態を脱した。
「究極のきれいさ」とは何かを考え、「それは頭の中にあるものだ」と結論づけたからである。
2002年、ネパールの山の上で、僕はてんやが存在していることのすばらしさを思い知った。
ところで、この頃の週末は「東京観光」をしている。
「僕は東京で生活をしているのではなく、ものすごく長い期間、小倉から東京に遊びに来ているのだ」という概念に気づき、それを楽しもうと考えるようになったのだ。
東京滞在がいつ打ち切られることになってもいいように。
先日は、某庭園に行った。
そこには財閥のトップが所有した邸宅が残されている。
戦後、敷地は連合軍に接収され、その後国の機関の建物を造るため、邸宅の一部が取り壊されたのだという。
壊された部分についてはそれほど価値のないものと考えられたそうなのだが、解体している最中に文化財としての価値の高さに気づいた人もいたのだそうだ。
ガイドの人がそのエピソードを話し、「文化財に興味を持ってください」と締めくくった。
そうなのかもしれない。
しかし、情緒に欠ける僕にはその辺りの感覚が全くない。
何より、この邸宅も、元はといえば大名屋敷をぶっつぶして建てられたのものだ。
ガイドの弁を借りるとすれば、全くなんてことをし、そしてなんてものを残しているのだろう。
その帰りにてんやに寄り、昼過ぎから「生ビールセット」をいただく。
グラスビールに、海老やなすなどの天ぷらの盛り合わせが付き、これで550円(税込み)。
てんやのありがたさの再発見をした。
文化財のことはよく知らないが、てんやについては税金を投入してでも残して欲しい文化財である。
この歳になったらもっともな意見だと思うが、僕は子供の頃から、おかずを1つのプレートにまとめて出てくるような食事のスタイルが苦手だった。
例えば、お子様ランチのようなものだ。
プレートだと、一応仕切りはあるが、おかずの味が混ざってしまうのが嫌だ。
また、食器を持ち上げて食べることができないので、和食を食べている気がしてこない。
何より、プレートに1つにまとめて出してすませようとする、提供者の心が見えるのが許せない。
おもてなしの気持ちがなく、きっと後片付けが楽なのだ。
子供の頃、知人の家で食事をごちそうになるときも、ごちそうになっておきながら、プレートで出てくるだけで嫌な気分がしたものだ。
祖母がプレートで食事を出してくるようなものなら、おかずにかかわらずかたくなに拒否した。
手抜きをする高齢者、という概念が何より気に食わない。
ランチタイムにプレートランチなどが店で出る場合があるが、今もあまり気分がいいものではない。
でも、このスタイルを好む人がいることも知っている。
おそらく、僕はプレートランチの利点を知らない分、損をしているのだろう。
かの香織のアルバム「裸であいましょう」を買った。
このアルバムを1996年に近所のレンタルショップから借り、カセットテープにダビングし、しばらく頻繁に聞いていた。
そのうち聞かなくなったが、メロディは頭に残っていた。
特に「僕だけの休暇」のメロディを夏に聞くと気持ちよくて、この夏も頭の中で何度もなぞっていた。
ふと思い立って、中古のCDを買ってみた。
やはりメロディが自分の好みに当てはまる。
そして、歌がうまい。
一方で、これもやはりだが、(僕にとっては)詞が邪魔をしてくる。
例えば、「午前2時のエンジェル」は、メロディは好きなのだが、詞については聞くたびに意地の悪い悪態をつく羽目になる(控えめに言って「深夜に訪ねて来られるのは迷惑で、失点だな」と)。
詞のことを考えずにメロディと歌声を聴いていたいのだが、それはかなわない。
仕方ない。
NHKで「花は咲く」のビデオを見ていたら、かの香織の名前が出てきた。
彼女は今ももちろん現役で、そしてウェブサイトによると仙台出身であるらしい。
これはかなり個人的なことだが、当時、ジャケットを見て「ウ・ララ」の聞く気をなくしたことを、今になって猛烈に後悔している。
NHKで放送された矢沢永吉のスペシャルを(泥酔状態で)見て、あることを悟った。
それは、僕は音楽を、ミュージシャンの人物像ではなく、音楽そのもので愛している、ということだ。
ある音楽が好きだから、その音楽を聴いている。
しかしながら、そのミュージシャンの考え方やスタイルなどにはそれほど興味を持っていない。
だから、ミュージシャンの熱狂的なファンと比べて、温度差が非常に大きい。
確かに、特定のミュージシャンを好きになることはある。
それも、そのミュージシャンが作る音楽が好きだからであって、そのミュージシャンが好きなわけではなかった。
あるミュージシャンが作る音楽は、傾向が似てくるから、そのミュージシャンの音楽を多く聴くようになる。
これは、俳優の好みとは、考え方がまるで異なる。
例えば、田中麗奈に対しては、いつ何時いかなる状況でも田中麗奈の味方をする覚悟を決めているほどのファンである。
だから、ドラマに限らず、バラエティに出演していても、メディアで取り上げられていても、できるだけチェックしようとしている。
一方で、雑誌でBONNIE PINKの特集が組まれていようが、「キャサリン三世」にPerfumeが出ていようが、特に興味を持たない(そもそも、僕はPerfumeのファンだっただろうか。そして、「キャサリン三世」とはどういう番組なのだろうか)。
つまり、「ミュージシャンのカリスマ性」という概念が、僕の頭からは欠落している。
誤解がないようにディスクレームしておくが、矢沢永吉がショービジネスで成功していたり、多額の借金を返していたりすることに対して、僕は純粋にすごいと思っている。
音楽も聴かないわけではない。
しかし、両者を結びつけて考えてはいない。
奥歯の歯間が広がり、食べ物のかすが挟まるようになってから、久しい。
汚い話で恐縮だが、歯を磨いた後、フロスを掛けると、奥歯の隙間からほぼ100%何かが出てくる。
歯を磨いたにもかかわらず、だ。
焼き肉を食べたり、するめを食べたりすると、挟まった物が歯間を広げて、食事の途中から痛くなる。
最近、噛んだガムのかすが歯間に挟まるようになった。
ガムを吐きだしても、挟まったかすはそのままだ。
口を水でゆすいでも取れない。
ガムをかんだ後、食事をとると、口の中にミント味が広がる。
もしかしたら、入れ歯利用者向けに商品化されている「歯に付きにくいガム」を噛む必要があるのかもしれない。
「普段は多弁で、時々こちらの話を少し聞いてくれるような人」との相性がいい、と自分で自分のことをそう考えている。
昔は「自分が楽したいから、僕はそういう人との付き合いを望むのだろう」と恥じていたのだが、今は、それはただの「相性」の問題に過ぎないのだと理解している。
そういうありがたい人とのおつきあいを大切にするために、自分はより聞き上手になるように努めている。
そして、こちらが時々話す話題のネタを仕込んだり、人とは少しずれた視点を持つようにしたりし、相手を飽きさせないようにすることを心がけている。
自分から付き合いを大切にしようとしなければ、もはや誰も相手にしてくれない(かといって、付き合いを大切にしても、誰かが相手にしてくれる、というわけでもない)。
しかし、これは加齢が原因だと思うが、上に書いたような方向とは真逆の方向へ自分が向かっているような気がする。
つまり、人の話は聞かないし(下手したら、人の話を頭ごなしに否定してしまう)、気を抜けば話のネタを仕入れることを怠っているし、ネタがあるとしても自己満足な話に終わるし、人と同じような安全な視点に留まろうとしがちだ。
加齢は仕方ないとして、加齢が自分にもたらす弊害のメカニズムを明らかにし、弊害を防ぎたいものだ、とこの頃切に思う。
そういう気持ちはあるのだけれど、気持ちが行動につながらないから、なおさらつらい。