離話
どんなときも、頼りになるのは、おしゃべりのうまいお笑い芸人である。
「ボクらの時代」を見ていたらよくわかる。
どんなときも、頼りになるのは、おしゃべりのうまいお笑い芸人である。
「ボクらの時代」を見ていたらよくわかる。
「黒川杯」を支持している人々の行く末が翻意であったら、悲しい。
忘れそうだから記しておくが、「ねるまえのまえ」が3か月で終わったのも、COVID-19のせいだろうか。
当人はおろか、意固地になっていた人も、暇を持て余して目についた騒ぎに乗った人も、外から攻撃して存在意義を作ろうとした人も、外から守って忠誠を示そうとした人も、低レベルな話で瓦解していくのは、きっと低レベルな社会のせいだと思う。
なんか、恥ずかしくなってきた。
せめて、もっと深い意味があればいいのに、とありもしないものを望む。
賭博かどうかは現行犯でもないし知らないけど、報道機関の人間と麻雀をしているだけで、もうダメだと思う、もちろんどっちも。
まあ、本当のことはどうせ僕にはわからないのだから、メディアで起こっているショーとして見る、といういつものポジションに立とう。
コメントを求めるなら蛭子能収か、取材の効率を求めれば東尾修か。
蛭子能収の過去のコメントをあげておく。
「麻雀はもうやってません。賭けないと面白くないから」
これをTVで言うのだから、すごい。
きっかけは、下世話な話である。
1997年、某大型生放送番組の裏話を聞きたくて聴収し始めたのが、「ナインティナインのオールナイトニッポン」である。
以来23年、ほぼ毎週聴いていた。
過去形であるのは、ここ半年は毎週聴いているとは言えない状況だったからだ。
録音はしているのだが、放送された週のうちに聴くことは少なくなっていた。
「岡村隆史のオールナイトニッポン」が始まった時から感じていたことだが、同じ話が多く、時々ついていけなくなっていた。
それでも聞いていたが、近頃は、他のラジオ番組を優先して聞くようになり、疎遠になっていた。
明確に「飽きた」というわけではないが、それを「飽きた」と呼ぶのなら、そうかもしれない。
発言のあった放送回はまだ聞いていない。
たぶんもう、その回は聞かないと思う。
その後の3週の放送回は、聞いた。
一部のスポンサーが自粛しているのかは知らないが、ACジャパンのCMで埋められている様子を聞くと、ACジャパンの理念こそこの番組が生み出した発言とはそぐわないものなのにな、と思う。
一番しっくりきたコメントは、「やはり」という感じだが、ダウンタウンの松本さん…松ちゃんの発言である。
つまり、「2時間1人で生放送でしゃべり続けるのは、リスキーである」ということだ。
やり取りや牽制がないと、考えは偏った形で先鋭化していく、という意味合いで、深く共感した。
改めて気づいたのだが、1時間を超えるラジオの生放送で、1人で話し続けるような番組は少ない。
特に、中年を迎えた人がやっている例を思いつかない。
またお笑いビッグ3の話になってしまうが、タモリさんも、たけしさんも、さんまさんも、ラジオ番組では話し相手がいた。
鶴瓶さんもそうだし、その他いろいろな人を思い出すのだが、見当たらない。
そうやって、自発的にリスク回避できているのかもしれない。
1人で長時間生放送をやっているのは、クリス・ペプラーと別所哲也、そして小林克也くらいではないだろうか、聴いたことないから知らんけど。
「岡村隆史のオールナイトニッポン」は終わっていい、というより、終わらなければならない。
すでに世に放たれた発言は公の場に出せるようなものではなく、それを生み出した「特殊な形態」で放送を続けてはならない。
自分の発言で、自らとどめを刺した、と理解している。
今回は、明確に「打ち切り」である。
「ナインティナインのオールナイトニッポン」の復活を手放しで喜ぶ気にならない僕は、ヘビーリスナーではないのかもしれない。
それでヘビーリスナーと認められないなら、それでいい、と僕は思う。
そもそも、こちらはただのリスナーにすぎない。
その上で、コンビでラジオをやる、というのも大変だろうな、とは思う。
ここは、あるべき姿として、録音放送ではあるが、「世界の快適音楽セレクション」のゴンチチのような感じを目指せばいいかと思う。
ただ、これでは元に戻っただけにもなりかねない。
もっと外の刺激を受け入れてほしい、と本心から思う。
ファンとしては、反省を重ね、時間をかけてゆがみを修正してほしい、と願う。
また同じことをすれば、反省してないとみなす。
その一方で、これは、芸能界の出来事である。
支持を得られなければ、代わりはいくらでもいる。
聞き手としての覚悟は、いつでもある。
改めて思うが、受け入れることのできない発言であった。
そして、多くの人も同じ思いを抱いたことが、今回わかった。
この発言が示唆するような事態にならないことを、僕は心から願う。
僕も含めて多くの人たちが、その思いに基づき今後の言動を続けていくのだ、と信じる。
それは当然だろう。
山田孝之と新田真剣佑は、石田純一と違って、人気があるからな…。
「いつかは今」というのが、モットーの1つである。
外での仕事をリタイヤし、家で仕事をするようになったら、加えようと思っていた生活習慣がある。
まずは、ラジオ体操。
何度も挑戦したが、持続しなかった。
何もない中でやるのは気が引けるし、音源を入手するのも仰々しい、と感じたからだ。
でも、最近はYouTubeでNHKが公開している映像がある。
それを見ながらであれば、やる気が起こるのではないか。
次に、英語。
今は長文を読む時間を取ることが休日以外難しいが、自宅にいる時間が長ければ、辞書を引きながら英語を読むことができる。
いくつか挫折したコンテンツがあるので、腰を据えて挑戦したい。
そして、散歩。
過去を振り返り、あらためて気づくのだが、僕は歩くの好きだ。
子供のころは、近所を歩きつくし、地図を描いていた。
小倉は(小倉だけではないだろうが)知らない土地を歩くのが物騒であり、それゆえ何度も面倒な目にあった。
自転車を手に入れてから、意味もなく遠くまで自転車で行っていたが、自転車は行った道を戻らなければならない、というのが面倒に感じた。
小倉から大蔵経由で八幡に行き、戸畑経由で小倉に戻る、という、まるで昔の西鉄北九州線のような経路を選んでまでして、往路と復路でなるべく別の道を通るようにしていた。
小遣いが自由になるようになってからは、遠くまで歩いても帰りは交通機関を使って戻ってくればいいと気づき、往路は2時間くらい歩き、復路は電車で20分で帰る、ということを今でも続けている。
歩くのは都心部が多いのだが、最近自宅周辺でもこの遊びができることに思い当たった。
たとえば、家の前のバス停から路線バスの終点まで歩けば、見知らぬ土地を楽しみつつ、バスで帰ってくることができる。
さらには、radiko。
有料のエリアフリーに登録すれば、全国のラジオを聴くことができる。
福岡のラジオ局の番組表を見ると、懐かしい名前が見られる、というより、何も変わっていない気がする。
中学の定期テストが午前中で終わったとき、昼は自宅でラジオを聞いていたが、その時のパーソナリティだった沢田幸二が、30年後の今も昼の番組をやっている。
また、中島浩二は、朝も夕方も番組に出演している。
福岡のラジオで変わったのは、「ふれあい天国」にばってん荒川が出なくなったくらいではないか、とすら思う。
これらのことができるようになるのは、いったいいつのことになるだろうか…。
そんなことを思っていたら、急に実現できるようになった。
「いつかは今」である。
まず、ラジオ体操をして、dマガジンで雑誌を新着順に流し読みし、英語の文章と1時間格闘し、自宅で業務を開始する。
仕事が一段落したら、radikoのタイムフリーで「PAO~N」を聞きながらPythonの学習をし、これまで見向きもしなかった近所をじっくり歩く。
業務の性質上、自宅では仕事は全くはかどらない。
だからせめて、スキルを高めることはしておきたい。
父親から緊急連絡。
僕:「こういう場合でも、ばあさんに給付金出るちね」
父親:「そかね」
僕:「申請するとよいよ」
父親:「そやね」
僕:「俺は教えたけね、近頃いろいろと物入り…」
父親:「ありがとね」
前にもこんな軽口をたたいた気がする、と思いあたり、同様のことを11年前にも言った記憶がよみがえる。
何かしらの連関があるようにも思える。
いやはや、こんなことにもCOVID-19の影響が出るとは、ちょっと考えていなかった。
祝・田中麗奈、「キュレーターズ」ナビゲーター復帰!
今回は自宅からのリモート出演となったようで、現代技術に感謝。
残念・田島貴男…、ORIGINAL LOVEライブツアー中止。
4日にYouTubeでライブ配信を見た。
これまた、現代技術に感謝。
「となりのシムラ」#1、4、6の再放送を視聴。
以前に見ていたかもしれないが、案の定内容を忘れていた。
驚いたことに、見ていて全く声をあげて笑うことがなかった。
おじさんとは、孤独で、同僚やおろか家族にも相手にされず、金を支払うことだけが人がかまってくれる要素となる存在。
それでおそらく仕事ができて、友人とのつながりは更新の必要なく心の中で生き続け、上司との関係はみっともなくて見せないし、あるいは捨ててしまっているのだ。
これから何を思って生きていけばいいのだろう、ただただ考えさせられるばかりだった。
特に、#4の最後の染谷将太とのコントは、笑うところすらなく、「わかりやすく、優れたドラマ」というだけだった。
おそろしい、いくらでも見てられる。
「仕事で結果を出すしかないのだな」と、「となりのシムラ」、「有吉の壁」、「リンカーン芸人大運動会」を見て、決意を新たにする。
そういえば、大竹さんが言っていた通り、いわゆる「5回目の東京進出」も、それが成功かどうかは死ぬまで見ないとわからないものであったし、今回は後を引く大きな失敗と言えるだろう。
テレビ東京が、もう一度見たい深夜ドラマ作品を募っている。
僕からは、「クリスマスキス〜イブに逢いましょう」は外してもらい、やはり「映画みたいな恋したい」、「恋、した」、篠原直美が出ていた「七瀬ふたたび」、石橋けいの「ATHENA」、そしてどさくさに紛れて「魔法のキモチ」を挙げておきたい…。
冗談抜きに、コンテンツ化されていないものの放送を心より希望する。
何なら、放送しなくていいから、コンテンツ化してほしい。
理解されない、ということには、いつまでも慣れることはない。
過去の話は孤立を招くだけなのであまり言いたくないが、例を示すために話す。
小学生のころ、授業で自習になり、周囲が騒いでいる中、僕は算数の教科書を読んでいた。
後に教師がやってきて、自習中に何をやっていたか一人一人尋問した。
僕はありていに「算数の教科書を読んでいました」と答えたが、それは教師によって「自習」とはみなされなかった。
「手を動かし、問題を解く」という具体的行動がなければ、「自習」ではない、とのこと。
僕は反省を求められ、そして何を反省すればいいかわからず、現在に至る。
確かに、算数の教科書を読むことは、当時の僕にとって娯楽であり、自習とは呼べないのだろう。
理解されず、変わった人とみなされるのは、まだいい。
「ほかの人とやっていることが違うからダメ」というので否定されるのは、つらい。
それでたとえパフォーマンスが落ちても、それは自分の責任になる。
今、自宅にいる間何をしているのか、と問われたら、というより業務上聴取されたら、本当のことをすべて言うことはできない。
「それは仕事とは認定しない」と言われるに違いないので、お互いのために口にしない。
非難するのなら、普段僕が遂行した仕事の上で生活を送らないでほしいと思う。
僕は、冗談抜きに、業務の手戻りを減らすために「ディジタル論理回路の学習」をしているし、人と仕事を円滑に進めるヒントを得るために、ウェブフレームワークの動きを実際には動かさずにコードを読んで理解しようとしている。
ただ、そんな僕でも、「心穏やかに過ごし、次の展開を迎えるために、過去の無名邦画を見ている」と言い張るほどの傲慢さは持ち合わせていない。
実際は本心からそう思っているけれど、やはりそれは仕事とは認められないだろう。
言うならば、社会の構成員すべての務めである、精神修養である。
ところで、僕の心穏やかにする3つの「ア」から始まる映画、というのを長年提唱してきた。
そのうち2つは、「あさってDANCE」と「曖・昧・Me」であり、今も好きかどうかはともかくとして、話の筋は何となく覚えている。
だが、あと1つである「あいつ」の内容は何1つ覚えておらず、いつ見たのかの記録もない。
探してみるとDVDをネットレンタルできるようだし、見るなら今のような状況しかないだろうし、と思い立ち、思い切って借りてみた。
このままだと、近いうちに「バタアシ金魚」とか「すもももももも」とかを借りてきそうな気がして、自分が怖い。
そんな事態を避けるためにも、自宅待機を励行していきたい。
で、25年以上ぶりに「あいつ」を視聴。
まずは、プロデューサーである伊地智啓氏に長年の感謝を込め合掌。
どんなソースからとったのか、と思うほどに画質が悪く、TVで見るのをあきらめ、PCで再生。
「はあ」としか言いようのない内容、独善的なセリフと展開。
ただただ大変だっただろうなと思う撮影、でもその現場の苦労は感じるが、実際は画像の切り貼りに終わっている。
意味不明なことばかり言わされて、石田ひかりはどう思っていたのだろうか、不安になる。
いくらなんでも、自分はこの映画のどこをいいと思っていたのか、とため息の嵐。
でも、見てしまう。
なぜ好きだったのか、という理由は、フランキー堺が明かすある秘密の表現方法にあった、と記憶を取り戻す。
これがひょっこりと現れるところが救いというか、これだけで見直した甲斐があると言える。
それにしても、小作品にフランキー堺をキャスティングするところなど、映画製作者の矜持を感じるとともに、「フランキー堺に頼りすぎだろう」と思うところもある。
このあたりの感想が、今後の自分の仕事に表出してくると思い、それゆえこのような活動も仕事の一環ととらえる。
まあ誰も理解しないだろうし、それを言うと誰もがそうなのだと思う。
本編の後、予告編も流れた。
結局は予告編が本編をすべて表しており、この予告編を劇場で強制的に見させられたら、ちょっと窓口に掛け合うかもしれない。
とにかく、これでしばらくは「あいつ」を見なくていい。
たぶん、今回で最後ではないだろうか。
もう2か月くらい、休日の外出を制限していることになった。
改めて、自由に出かけていたことのありがたさ、大切さを思う。
僕は今後ますます、したいことを正確に把握し、自分の時間を大切にするようになるのだろう。
「協調性がない」とそしられ、望んでいない孤立を選び、単調な生活を送ることになるのだろう。
「毎年最低1か所は鉄道の未乗区間をつぶしていこう」と決め、それを実行してきた。
振り返ると、2011年からその取り組みができていたようだ。
その前の年、2010年は余裕がなくて、ほとんど動けていなかった。
年末に、上原ひろみのライブで初台へ行った際に乗った、都営大江戸線の新宿西口-西新宿五丁目がそれまでの未乗区間だったかもしれないが、たぶんそれ以前にもこの区間に乗ったことがあったように思う。
2011年はあまりにも時間を持て余しており、重い腰を上げて東京近郊区間の大回り乗車をやってみた。
それ以降は旅行の際に自然に未乗区間がつぶれたし、2016年には23区内完乗を始めて、未乗区間が解消され続けた。
このままの状態が続けば、今年は未乗区間を消化しないまま、年が終わるかもしれない。
年初、春の大型連休中に出かける旅行の計画を立てていた。
伊豆半島の下田への日帰り旅行。
乗ったことのない伊東線、伊豆急行線に乗り下田、バスで修善寺に移動し、駿豆線に乗って、三島から帰るという計画。
現実的な時間内で帰るためには、ほとんど列車に乗っているだけのスケジュールになるのだが、それでもコンパクトな計画を立てることができ、あとは実行するのみだった。
今後時間が経てば移動の自由は得られるのだろうが、その時に自分がその自由を謳歌できる立場にあるのか、それが不安だ。
旅に出られないストレスは強く、暇があれば、地図と時刻表を見ている。
国内だと、これまでに本土46都道府県に足を踏み入れた。
一方で、県庁所在地を訪れていないのは、あと12県ある。
秋田、山形、新潟、山梨、長野、三重、岐阜、岡山、島根、山口、宮崎、そして沖縄である。
このうち、岐阜、岡山は県内を素通りしただけであり、沖縄は県内に入ったこともない。
いつかこれらの土地を訪れる日のために、旅行の計画を粗く立ててみよう。
秋田を訪れるのなら、弘前にも行きたい。
男鹿半島経由で行くか、秋田縦貫鉄道経由で行くかで悩む。
弘前から津軽鉄道まで足を伸ばし、帰りは奥津軽いまべつから北海道新幹線でどちらかの方向に行く。
あるいは、帰路に八戸から三陸リアス線を完走する余裕があればよい。
山形に行く際には、以前断念した常磐線縦走を果たしたい。
仙台で一泊し、山寺を訪れて、山形へ。
米沢から米坂線で羽越本線に出て、新潟を回って戻ってくる。
あるいは、戻らずに小千谷から飯山線で長野に回り、そこから上田、小諸を通って、小海線。
甲府に寄って、身延線経由で戻ってくる、というのも魅力的だ。
山形に行った人間が、富士山の向こうから戻ってきた、というのは、何ともばかばかしく、誰も相手にしてくれそうにない。
岐阜に向かうには、まずは中央本線に乗ろう。
木曽路を経て、高蔵寺から愛知環状鉄道に乗り、岡崎。
そこから名鉄特急で中部国際空港に出て、船で津を目指す。
そして、養老鉄道か名鉄線で岐阜に入る。
帰りは、高山本線で北上し、富山から北陸新幹線。
いや、立山・黒部アルペンルート経由でもよい。
松江には、サンライズ出雲だ。
松江城を見た後、宍道に回り木次線、芸備線。
時間に余裕があれば、姫新線で津山まで出て、交通の要衝をしのびたい。
姫路まで出た後、赤穂線で、岡山、そして倉敷。
瀬戸大橋を渡り、多度津から土讃線。
箸蔵から佃への雄大な景色を眺め、高知に出て帰路に着く。
サンライズ瀬戸で帰ってくるのもありだ。
山口を訪れるのは難しい。
東京からは遠い。
地元からは近いわりに、海峡を挟んだだけなのに遠く感じて、下関くらいしか行っていない。
そして、山陰路を行くのは、想像以上に苦行である。
それならば、萩・石見空港から、益田に出て、山口線を行く。
まだ訪れていない津和野を散策し、山口市を抜ける。
ついでに、宇部線、小野田線を消化して、実家に帰る。
萩も魅力的だが、その場合は、長門市から仙崎、美祢線経由で実家に帰る。
こうすると、山口市内に寄らないことになり、目的を達しない。
最も難しいのは、宮崎だ。
宮崎は、延岡、高千穂、都城、霧島、小林には行っていて、宮崎市内が残された格好となった。
思いつくのは、日南に寄った後、西米良から湯前へバスで抜け、人吉経由で熊本へ至る、という行程。
那覇は、沖縄に行けば済む。
とりあえず、沖縄都市モノレールを完乗しておこう。
それでも飽き足りなければ、石垣を経て、台湾に渡る、というのもいい。
以上の通り、あと7回ほど旅に出れば、47都道府県の県庁所在地に足を踏み入れることができる。
これらを1つ1つ「実装」、つまり行程に落としていくだけでも、しばらくは暇をつぶせることだろう。
今回の騒動で、ヨーロッパに行く気力が失せてしまったので、まだしばらくは国内を楽しむことになりそうだ。
それにしても、旅費は何とかなるとしても、時間と体力と、旅を楽しむための知識、そして身軽さが圧倒的に足りない。
知識が追いつくことはないので、体力のあるうちに、時間を捻出して旅を強行し、後で無知を悔いることになるのかと思う。