念出
理解されない、ということには、いつまでも慣れることはない。
過去の話は孤立を招くだけなのであまり言いたくないが、例を示すために話す。
小学生のころ、授業で自習になり、周囲が騒いでいる中、僕は算数の教科書を読んでいた。
後に教師がやってきて、自習中に何をやっていたか一人一人尋問した。
僕はありていに「算数の教科書を読んでいました」と答えたが、それは教師によって「自習」とはみなされなかった。
「手を動かし、問題を解く」という具体的行動がなければ、「自習」ではない、とのこと。
僕は反省を求められ、そして何を反省すればいいかわからず、現在に至る。
確かに、算数の教科書を読むことは、当時の僕にとって娯楽であり、自習とは呼べないのだろう。
理解されず、変わった人とみなされるのは、まだいい。
「ほかの人とやっていることが違うからダメ」というので否定されるのは、つらい。
それでたとえパフォーマンスが落ちても、それは自分の責任になる。
今、自宅にいる間何をしているのか、と問われたら、というより業務上聴取されたら、本当のことをすべて言うことはできない。
「それは仕事とは認定しない」と言われるに違いないので、お互いのために口にしない。
非難するのなら、普段僕が遂行した仕事の上で生活を送らないでほしいと思う。
僕は、冗談抜きに、業務の手戻りを減らすために「ディジタル論理回路の学習」をしているし、人と仕事を円滑に進めるヒントを得るために、ウェブフレームワークの動きを実際には動かさずにコードを読んで理解しようとしている。
ただ、そんな僕でも、「心穏やかに過ごし、次の展開を迎えるために、過去の無名邦画を見ている」と言い張るほどの傲慢さは持ち合わせていない。
実際は本心からそう思っているけれど、やはりそれは仕事とは認められないだろう。
言うならば、社会の構成員すべての務めである、精神修養である。
ところで、僕の心穏やかにする3つの「ア」から始まる映画、というのを長年提唱してきた。
そのうち2つは、「あさってDANCE」と「曖・昧・Me」であり、今も好きかどうかはともかくとして、話の筋は何となく覚えている。
だが、あと1つである「あいつ」の内容は何1つ覚えておらず、いつ見たのかの記録もない。
探してみるとDVDをネットレンタルできるようだし、見るなら今のような状況しかないだろうし、と思い立ち、思い切って借りてみた。
このままだと、近いうちに「バタアシ金魚」とか「すもももももも」とかを借りてきそうな気がして、自分が怖い。
そんな事態を避けるためにも、自宅待機を励行していきたい。
で、25年以上ぶりに「あいつ」を視聴。
まずは、プロデューサーである伊地智啓氏に長年の感謝を込め合掌。
どんなソースからとったのか、と思うほどに画質が悪く、TVで見るのをあきらめ、PCで再生。
「はあ」としか言いようのない内容、独善的なセリフと展開。
ただただ大変だっただろうなと思う撮影、でもその現場の苦労は感じるが、実際は画像の切り貼りに終わっている。
意味不明なことばかり言わされて、石田ひかりはどう思っていたのだろうか、不安になる。
いくらなんでも、自分はこの映画のどこをいいと思っていたのか、とため息の嵐。
でも、見てしまう。
なぜ好きだったのか、という理由は、フランキー堺が明かすある秘密の表現方法にあった、と記憶を取り戻す。
これがひょっこりと現れるところが救いというか、これだけで見直した甲斐があると言える。
それにしても、小作品にフランキー堺をキャスティングするところなど、映画製作者の矜持を感じるとともに、「フランキー堺に頼りすぎだろう」と思うところもある。
このあたりの感想が、今後の自分の仕事に表出してくると思い、それゆえこのような活動も仕事の一環ととらえる。
まあ誰も理解しないだろうし、それを言うと誰もがそうなのだと思う。
本編の後、予告編も流れた。
結局は予告編が本編をすべて表しており、この予告編を劇場で強制的に見させられたら、ちょっと窓口に掛け合うかもしれない。
とにかく、これでしばらくは「あいつ」を見なくていい。
たぶん、今回で最後ではないだろうか。