2024-03-31 Sun.
服膺
2024-03-31
春は別れの季節である。
先ほど、田中麗奈さんともお別れした。
TOKYO FM「キュレーターズ マイスタイル×ユアスタイル」が最終回を迎えたのだ。
正直言うと、ほとんどの回を聴いてこなかった。
キュレーターズのトークが番組の主であり、田中麗奈さんの出演はほとんどなかったからだろうか。
それでも耐え忍びながら時々聴いていたのだが、ナビゲーターによるキュレーターズの紹介があまりになじみのない肩書きで、いたたまれなくなったとともに、トーク内容は僕のステージではとても理解が及ばない高尚なものだった。
番組のナビゲーターを6年務めたらしく、その間産休もあったはずだ。
「番組の内容が自身のプラスなっていたらいい」というのは、お互い様だと思う。
その昔、ハートをもらったことで、僕はここまで潜り抜けてきた。
「ブキウギ」も終わった。
「それはこっちのセリフだよ」みたいなことを言っていた気がする。
僕は朝ドラにはついていけない体になっており、そうですか、と思った。
4月からは、NHKドラマが始まる。
これがまた、キャラクタービジュアルが考えられないくらいにかわいく、バーチャル世界から抜け出せなくなる恐怖がある。
そして、「ZIP!」の4月金曜パーソナリティに就任。
「ZIP!」を見たことがないので、どのような形で出るのか僕にはわからないのだが、見ているこちらが朝からやられて、外の現実に出たくなくなる恐怖がある。
ここで、読んだ本の紹介を。
広末涼子「ヒロスエの思考地図 しあわせのかたち」。
2022年4月発行。
COVID-19はこのようなものまで産むほどに憎いものか、と言葉を失う。
哲学者の言葉をヒロスエなりに取り上げた内容。
帯には「しないほうがいい経験なんて、ひとつもない。」とある、これは笑いをねらっているわけではない。
中身を一つ一つ取り出すと、今となってはそれぞれでオチを付けられるわけで、きりがないし、みっともない行為なので控える。
長男が幼稚園の時に急性腎盂腎炎を発症したらしいが、その時激痛が走るきっかけとなった「旦那のハグ」の旦那が誰なのかを知りたくなるのも、実に下世話である。
僕は「自分を大事にする人間」であり、自分が優先順位第1位であり、ほぼ自分のことしか考えていない。
「そんなことない!」と途中まで思いこむように自分を仕向けてきたが、それはただ世間体を気にしていただけだった。
何もかも捨てて認めてしまえば楽だし、実は周囲に迷惑をかけることも減ったように思う。
孤立している人間は、自分が叶えてあげられない他人の幸せを願っている、別の他人を押しのけて利益を得ようとする人間以外の。
一方で、この手の本を読んで苦手に思うのは、「自分と仲間が大事」というポリシーである。
「仲間を守る」ということで正当性を表し、仲間以外の人たちのことは気にしない、ということが暗に示されている。
そして、この主張は美しく、なかなか覆らない。
どんなに世間の不評を買っても、自分の行為を肯定してくれる仲間が必ずいて、それを力に営みを続けている。
もしかしたら、広末涼子の行為の方が、ナチュラルであり、人間らしい姿なのではないだろうか。
誰もが認める通り、2023年の最高文学賞は、広末涼子がつづった愛の短編集である。
あの手紙をもらったら、僕ならすんなりと現実を捨てる。
すべてを捨てた後の自分が手紙の送り主からすぐに捨てられる、というたやすい未来予測からも目を背けるだろう。
もはやあの手紙は当人たちから公表したのではないか、とすら思う、芸術作品として。
鳥羽周作の家族のことなど、彼女は一切気にしないだろう、とこの本を読むと確信する。
相手の家族は、自分の仲間ではなく、外側の人間である。
どんなに非難されても、仲間はきっと彼女を支え、肯定してくれる、そしてその自信に満ち溢れている。
今の仲間から見放されることになっても、支持者をいとも簡単に見つけることができるだろう。
そのうち、パートナーも外側に追いやられる。
広末涼子は、哲学者の言葉を糧にし、インスタグラムで発信し、そして誰かが公式ウェブサイトを作ってくれるのだ。
そう、要するに、うらやましい、手紙ほしい。
「魔法のキモチ」を見て以来、僕にとっての「ラストアイドル」はいつまでも魅力的で、ゆるぎない。
どこかで言った気がするが、タモリさんにとっての吉永小百合の位置のようなものが、実にうらやましい。
最初の選択を誤ると、一生引きずる。
これで「魔法のキモチ」のソフト化は、永遠になくなったのかもしれない。
さて、松本みつるさんも、今月でニュース読み終了。
おつかれさまでした。
青木裕司先生も、「アサデス」レギュラー出演を終了したらしい。
僕にとって初めての「有名プロ講師」で、センター試験の世界史レベルであってもそのレベルに合わせて丁寧にご指導いただいたし、実際プロフェッショナルとしての姿を直接お見掛けしたこともあった。
こちらも、おつかれさまでした。
さて、「世界ふしぎ発見」も終わり、「サンデーモーニング」も番組から関ロ宏が卒業した。
いろいろと言う人もいるものの、事実として、僕は「ザ・ワイド」を見てきたし、関ロ宏にも視聴者として「あっぱれ」では言い表せないほどにお世話になった。
控えめに言って、「世界ふしぎ発見」を黒柳徹子のキャリアが超えていくことは驚愕であり、とても当然のこととは思えない。
そして、「将来はミステリーハンターになりたい」などという、現存する職業に就く夢を目指してはならない。
「笑点」の木久扇師匠の出演も今日で終わり。
春風亭一之輔が出演するようになってから初めて見たが、一之輔が番組に迎合している感じがせず、面白いことを言っていた。
木久扇もまだまだ面白く、好楽が何を言っているのかよくわからなかったが、そもそも好楽さんももう十分な歳であり、出ているだけでもすごいものだと思う。
小遊三も文句なしで面白いし、「ちびっこ大喜利」を出してくる山田隆夫はずるいというか、厚みに泣けてくる。
「笑点」のターゲットこそ話し言葉にテロップが必要と考えるべきなのに、テロップを出さないのであれば、他のどの番組もテロップはいらないのではないか。
少し前には「世界一受けたい授業」も終わって、これまでほとんど見たことがないにも関わらず、最終回を見ていると、マチャアキの姿に涙してしまった。
気付けば「ブラタモリ」のレギュラー放送も終わっている。
一時期、最も過酷なロケ芸人の1人ではないか、と思わせてくれたタモリさんには、こちらも当然ながら感謝しかない。
いつかは「ミュージックステーション」の司会も終えられることになる。
後任は、関ロ宏でいいんじゃないか。
つい最近偶然にも幸運にも「植木等デラックス」の何回かを見る機会があった。
放送当時、僕はこの番組の意味がよくわかっていなかった。
記録を残すということを考えた人たちの偉大さに、30数年かけて触れることとなった。
あの時でも、植木等は60代だったのだから、先日の「まる見え」のことを思うと、本当に恐れ入る。
「いつまでも居座っている」みたいなことを言う視聴者も散見されるが、逆に視聴者である僕がいつまでもすがり続けるのが間違っているのではないだろうか。
「欠かさずに見ているTV番組」が、結局「アタック25Next」と「サザエさん」だけになった。
そして、長野智子には、「植木等デラックス」での自身のふるまいを振り返ってほしい。
「植木等デラックス」に、「乾杯!トークそんぐ」の雰囲気を感じる。
以前、「乾杯!トークそんぐ」のパロディを中川家がコントにしていたのをTVで見たが、出演していた椿鬼奴が「関西に住んでいたら絶対に見ていた」と興奮していたのに、僕は強く共感した。
福岡では日曜深夜に放送していたと記憶しているが、僕も何の力に導かれているかわからないまま積極的に見ていた気がする。
椿鬼奴は「劇団椿」で大衆演劇を始め、「しばらく楽しめるものを見つけた」とのコメントをしており、ものすごくうらやましく思う。
毎日放送には頭が下がるし、「いい朝8時」視聴者世代として、野村啓司アナウンサーへの弔意もここに表したい。
2024-03-23 Sat.
賭労
2024-03-23
興味深いニュースがもたらされた。
真実よりも動向が気にかかる、というテーマにうってつけの話題だ。
世論がスーパースターを守っていく算段を見出すのか、風向きが変わるのか。
国外の情報に疎い自分もあり、どこに落ち着くのか想像がつかず、今後の展開を見ていきたい。
あるいは、国外に行くから通訳などが介在するのであって、風向きが悪くなるのであれば、戻ることを考えてもいいのだろう。
ちょうど「PAO~N」で、「大谷選手はいったい何をすれば失敗となるのか」との話題が出ていて、「そうか、金があった」という思いつきやすいありきたりなスキャンダルが出てきてしまった。
規模は圧倒的に小さくなるが、自分の金の件を話す。
事情があって、この2週間で大きな出費が続いた。
金を使うと、身を斬られるような気がしてならない。
これでも、「資産と費用は似通った概念である」という考え方を身につけているつもりだ。
資産は費用に変化するが、表の左側の中で呼ばれ方が転じるだけに過ぎない。
費用は資産として留まっている、という考え方もできるわけである。
それが費用であっても資産であってもいいので、表の右下部を厚くすることに寄与させればよろしい。
「資を産む」からこそ、「資産」なのだ。
このように自分に言い聞かせても、購入により選択の自由が減じ、物象化されることは苦しい。
どうであれ購入後は、悔いを抱えながら過ごすことに、必ずなる。
しかしながらそれは、なかったに違いない「可能性」を手放したように錯覚しているだけなのだ。
とにかく、収益までたどりつくまで、気を抜くことは許されない。
そういうわけで、キャッシュの具現化はできるだけ回避することになる。
つまり金をモノに換えずに済ませようとし、ましてやコトに換えることなどするわけもない。
「コトに換える」とは結局、持っていた金がよく知らない人の「遊ぶ金」に化けるだけで、気に食わない。
一般的に記憶は資産となるのだろうが、そんなことが僕に適用されるわけもなく、記憶は苦しみを産むに過ぎない。
それゆえ僕は、有価証券を信仰することになる。
年初までに本年の投資計画を立て終わり、後はそのプログラムを実行するのみである。
改めて計画を見直すと、計算ミスが発覚し、投資可能額を過大に評価していた。
誤りを正し、クレジットカードからの積立金額を調整したら、本年の投資活動は終わってしまった。
同じことを何度も書くが、投資は実につまらない。
新NISAが始まるということで、2023年の年末から、投資に関する記事を多く目にした。
投資の具体的な商品を薦めるものもあり、S&P 500だ、オルカンだ、インデックス投資だと、どれも一律同じような話ばかり。
これを書いて、どこからかフィーを取っているわけだろうけど、そんなに実入りのいい商売ではないと推察する。
それにしても、同じ商品を一様に薦める動きは、見ていて無責任さを感じる。
なぜ薦めようとするのか、そもそもその気持ちをよく理解できないのだが、こんなにも国外投資を促して、「国賊」のそしりを受けないものだろうか。
円の価値は下がるし、割安になった株式は国外の投資家に購入されるし、それで一部はなぜか盛り上がるに至る始末。
国内にはもう売るものが乏しいようにも見え、暗い気持ちになる。
おかげで僕は、勤労生活のつましさと、投資評価額の不確定性との板挟みにあい、身がちぎれそうになる。
せっかくNISAも改まったことだし、投資家の皆さんはご自身の目利きを信じて、個別株を吟味し、国内企業の応援を身をもって表現すればよろしいのではないか。
よく知らないのだが、それこそが投資の醍醐味であるとともに、お国のため、みんな大好き愛国心、大和心、かぜとゆき、流転のCROSS FMというものではないか。
正義感からなのか、怖いもの知らずなのか、よくも声高に、国外投資を薦められるものだ。
僕ですら、個人向け国債を買って、給付金を受領している、あるいは給付金で国債を買って、国庫に還流している。
「じゃあ、お前はどうなのか」と問われると、僕は僕で国内市場でリスクを抱えつつ、国外の市場に一縷の望みをつないでいる。
5年ほど前からその傾向を強めてきており、すでにプログラムを選択し終えているといってよい。
「自分の生活が第一」と考えてきたし、そのことを恥じることはない。
だけど僕に出来る事は、有価証券を握りしめ、跪く。
NISAもiDeCoも歓迎する気までにはなれないけれど、ルールを理解し合理的に動きたい。
節制が産んだ余剰はすでに市場に委ねられたのだ、また逢う日まで、逢える時まで。
自分の方法を他人に薦めるつもりもないし、選択のそのわけは、話しーたーくーなーいー。
願いだけは明確にあって、市場がより公平で、僕のような弱者でも参加できるようであれば望ましい。
最初の話に戻るけど、ギャンブルが怖い。
やる必要のないことに手を出し、すべてを台無しにしてしまい、教科書に載る機会もふいになる。
みんな必ずfreakであり、なにかしらのfreakである。
「そこまで言ってしまわなくても」とbonnie pinkに尋ねたくなったが、一方で聴いてきた僕が25年以上そう思ってきたのも確かだ。
あの時は、「Blue Jam」ばかり聴いていた。
ギャンブルには手を出さない一方で、投資の考え方を身に着けておく必要がある。
よく考えれば、人生の選択は大小あれどもギャンブルである。
有り金や機会を賭場にさらし、自分のドライブも多少はあるにせよ、選択後は偶然に身を任せるところも大きい。
そして、実入りを確保し、延命し、次の機会に備える。
この営みと、怖いと思うギャンブルの違いは何なのだろう。
ギャンブルが怖いのは、際限がないからだろうか。
「1回いくら」というのがない。
どこまで掛け金を積んでも満足することはないし、負けて得られるのは経験と評判と借用書から伸びる首輪くらいだ。
ギャンブルの勝ちは次のギャンブルにつぎ込まれ、ギャンブルの負けをギャンブルで取り戻そうとするのも、終わりがなくて怖い。
「賭け事をやらないから、賭け事の神髄がわからない」と言われれば、その評を受け入れよう。
それゆえ、ギャンブルとは何かを語る資格が僕にはない。
僕は、ギャンブルも競争も勝負も苦手で、縁遠く、それに巻き込まれなくてもいいような生活を希求し、行動している。
投資においても、何度も考えたけど、やはり資金を借りてまでして投じることは控える。
これもよく考えれば、すでに別のところで金を借りて生活を続けていると言え、そのリスクを重ねるのは避けたい。
自分が手掛ける事業なら、他者からの資本の確保も選択肢に加えるだろうし、失敗してもセーフティネットが用意されている。
ローンを組まなければ、学費の工面は非現実的だったし、学校に行っていなければ、今ある生活は考え難い。
しかし、他人に投資するにあたり、その金を貸してくれる、という話があれば、少々怪しいと考えるのが自然だろう。
その投資が適切なら、金を貸さずに直接投資すればいいところを、わざわざ金を貸してくれるのだから、凡庸な僕には見えてないリスクがあると言えよう。
「あなたはレバレッジの神髄を理解していない」と言われれば、こちらもその通りである。
つまらない人間である。
投資で得た利益を次の投資に率先して回すことはしており、これはギャンブルの考え方に近い。
出資を募る者自身が「複利が大事」と説くのは実に怪しいが、いったん手放したと考えれば、複利は自動的についてくるものだ。
首輪をつけられるのではなく、首輪のひもを握る側でありたい。
でも、最近は残り時間もわずかであることを自覚し、金を使うことも考えている。
先延ばしできればいいけれど、いずれは全資産を国内に引き上げる時が来る。
みんな必ずFIRE、と、スティービー・ワンダーも歌ってた気がする。
そして今は身を斬る思いをして、クレジットカードを端末に差し込んでいるのだ。
いつかカードが抜けなくなり、我が身が端末に封じられるんじゃないか、とすら思う。
実質的には、それに近い状態にある。
2024-03-16 Sat.
焦灼
2024-03-16
まずは、体調から。
2月の雪の日、滑って転んだ。
履いている革靴の底はつるつるだし、体の重心は高いし、で、雪が積もれば必ず足元を滑らせ、時折転ぶ。
それもここ最近は、人に心配されるような転び方をしてしまう。
今回は、尻もちをつくことはなかったものの、その理由は、左手をつき体を支えたからである。
そのつき方も、肘を伸ばしたまま手を地面につけたため、左肘に激痛が走った。
この手の転び方はもはや高齢者がするもののようで、骨が折れていてもおかしくはなかった。
次に、目やにが出てきた。
朝起きると、目に春霞がかかっており、一句ひねり出したくなる。
顔を洗っても目やには取れず、昼までには視界が晴れてくるが、夕方になるとまた目やにで目が開かなくなる。
目がしみるように痛く、何も見たくない。
そのうちに、鼻水が出る。
子どものころの僕は終始鼻炎気味だったが、都会から放り出された後は、その兆候が落ち着いている。
ところが、いったん鼻の調子が悪くなると、昔取った鼻柄か、鼻水がひっきりなしに出てくる。
普段隠れていた鼻の実力が本領発揮するようで、ゴミ箱がすぐにいっぱいになる。
都心で僕と同じように5箱1パックのティッシュを手に提げてオフィスまでの道を歩いている人を、見たことがない。
鼻水の取りすぎなのか、頭が痛くなる。
こうなると、もう寝るしかない。
きっと関係があるのだろうが、のども痛くなる。
こちらは、常にのど飴をかみつぶすとともに、就寝時に口を閉じるように紙テープを貼り、鼻呼吸を強制することで、痛みは緩和する。
身体がぼんやりして、左脚につるような痛みがあるな、と思って週末寝ていたら、やはり38度近くまで発熱した。
風邪の症状が始まって、熱が出るまで、大体1か月くらいかかる。
発熱すれば、まあ調子は良くなる。
そうすると、周囲にインフルエンザにり患した人がいることが判明した。
素知らぬ顔をして過ごす。
そして、今もまだ左肘が痛い。
1月は、左肘が蜂窩織炎にかかり整形外科に行ったわけだが、今回は特に腫れもなく、整形外科には行っていない。
そんな感じで、家に閉じ込められている状態。
いい機会なので、映画「お引越し」を見る。
ビデオオンデマンドで、330円。
前回見たのは、2011年8月2日。
日本映画専門チャンネルで放送されていたのを、録画して、見た。
その時の感想は残っていなくて、感想の記憶もあまりない。
あの時見たときは、田畑智子はずいぶん大人だな、と思った気がするが、今見れば、やはりそのまま最後まで子供であり、それは救いである。
自分の状況と気持ちをストレートに表現できていて、それでなんで望んだとおりにいかないのか。
それが間違っているのか、そういうものなのか、今回はよくわからなかった。
映画なのだから当たり前なのかもしれないが、1つのシーンに複数の視点が描かれていて、見ている方としては全く答えを出せない。
だったら、登場人物は、やはり思うがままに行動していればいいのだろう。
たとえ、大事な人の期待に応えられないとわかっていても。
レンコが風呂場に立てこもろうとしているところで、強制的インタミッションが入り用事を済ます。
4時間ほど間を開けて視聴を再開したが、レンコが立てこもるに至った筋が何だったか思い出せない。
少し巻き戻し…、戻して見て、何とか思い出す。
でも、中断したから前のシーンを覚えていないことに気付いただけで、流れてみていてもやはり見ている先から前のシーンを忘れているのかもしれない。
後半からは琵琶湖の祭りへと移るのだが、僕が「祭り」の概念を苦手としているせいもあり、祇園祭の描写も含め、十分な理解を得たとは言い難い。
希望というものを、親がかなえてくれるものから、自分で獲得していくものだと自覚することで、親の存在から離れていくことになる。
一方で、この年になると、時代の流れと親とのトランスミッションを自分が担っていく必要を感じる。
必要はこっちが一方的に感じるだけで、必要とはされていないのも分かっている。
この辺りは、「あ、春」にあったかな、と思う。
以前見たときは「祭りを描く撮影は大変だろうな」と思った記憶があるが、今回は「映画なんだから、これくらい燃やしても大騒ぎすることではないか」というくらいに思った。
揺るがないと信じられていた「役割」が変容していく時期だった。
それを千年の都・京都で描いているのだから、人の営みは小さいものだと思う。
相米作品を見ると、現実に戻ることがかなりつらくなるものだが、今回はそうでもなかった。
で、もう1本は「渇水」。
映画館で見たかったが、タイミングが合わず、今に至る。
不幸で暗い映画が苦手で、できるだけ避けているのだが、今回もつらかった。
結末は小さな話だったが、それくらいのことしかできないところにも、なんだかリアリティを感じた。
閉じこもるのは魅力的で理にかなっている気もする一方で、身をさらすことの心細さも大切にしていきたい。
「最後は全部うまくいく」などという甘美なささやきから耳をふさぎ、無力な身を抱えながら小さな問題を1つずつ解決していく。
最近、西野亮廣の借金への対処法を知り、「焼け石に水」とはまさにわが意を得たりと思った。
すがらず、祈り、逃げ切る。
河林満、髙橋正弥監督作品をウィッシュリストに足す。
合理的な考え方を進めていけば、当然自分の居場所もなくなってしまった。
自分はそれでいいとしても、社会に対しては考えを改めた方がいいのだろう。
2024-03-09 Sat.
蕪荒
2024-03-09
島山あらら先生のモデルと言われている漫画家の訃報が届いた。
島山あらら先生が登場する話が好きで、僕の街のジャンプ事情と似通っている「1日早く売る本屋」、プロの生活の様子が読者に対してふんだんに披露され、最後は教訓までくっついてくる。
連載を抱える漫画家と、連載を楽しみに待っている読者の関係が、すぐそばにあるように描かれている。
先週、「めぐみのラジオ」で「ワイワイワールド」が流れているの聴き、ドンチャカしている曲が心地よく、ぜひとも葬送の1曲に加えてほしい、と思った。
「感謝」などという言葉では到底表せきれないものをいただいた。
さて、最近映画を2本見た。
本当は、外出して映画館に行こうと考えていた。
ただ、なぜだかわからないが、鼻水が止まらず、目やにで目がかすみ、のどに痰が絡み、鼻の通りが悪くて頭が痛く、熱もないのに体がだるく、皮膚がぴりぴりとする、という奇病に見舞われており、原因不明の病気で外出するのも気が引けるので、家で映画を見ることにした。
1つは、「リボルバー」。
僕のことだから、当然洋画の方ではなく、佐藤正午原作、藤田敏八監督、出演は、沢田研二、手塚理美である。
初見である。
この作品を見れば、「柄本明と尾美としのりって、以前映画でがっつり共演していましたよね」というエピソードを得られる。
きれいな人だな、と思ったら、クレジットまでわからず、久しぶりに南條玲子を見た。
山田辰夫が出てきて、安心できるところがあった。
新刊の小説「冬に子供が生まれる」の書評が載っていたが、あらすじが説明されているようで、思わず読み飛ばしてしまう。
佐藤正午の小説を人に薦めるために筋を説明しようとすることほど、無為なこともなかろう。
彼の小説をストーリーテリングができる最適の人は、佐藤正午本人でしかないのだから。
そんなことを思いながら、書評の末尾に目をやると、評者本人も自分の行為の意味の否定を提示している。
本当に、何も言いたくないし、何も聞きたくない。
話の筋を楽しむには、佐藤正午が手掛けてくれる小説そのものを読むに限る。
もう1つは、「KAMIKAZE TAXI」。
アマゾンプライムビデオで、レンタルでHD400円で借りた。
記録によると、前回見たのは1998年7月30日である。
自宅で、VHSで見た。
律儀にもその時の感想が書き残っていて、この律義さは宮澤喜一の再来か、という評判も実際に耳にした。
それはどうでもいいとして、感想の内容は「そんなにおもしろくなかった」とあった。
「ありきたりな復讐に、社会派ネタを加えていた」とある。
「ただ、終わり方がよくて、タイトルとこの終わり方でこの映画は十分成立していた」と続く。
この頃は試験期間中で、この後は夏休み。
働きもしないし旅行にも出ないし、初めて過ごす東京の夏の膨大な時間を孤独にもてあまして、もちろん勉強もしないのに、迫ってくる9月の試験を憂鬱に恐れていた。
試験をクリアしないと次の展開が訪れないシステムを、痛烈に突き付けられていた。
そんな中のこんな感想なのだから、大目に見てもらいたい。
ちなみに、この日、小渕恵三が首班指名を受け、雨が降っていた。
日経平均が40K円を超えたのはきっと、あの時彼が蕪を持ち上げてくれた効果であろう。
よくもここまで来られたものだ。
実際見てみたら、話の筋を何も覚えていなかった。
何なら、途中まで「月はどっちに出ている」と、内容をごちゃごちゃにして覚えていた。
ただ、終わり方は26年たっても覚えていた通りで、1度不自然な形で出会わせておいた意味が効いていて、2度目に出会って意味も理解せぬまま行為を受けるというのが、そして最後の上からの引きの映像が、好きだ。
感想は、まず強盗に付き合わされる連れがかわいそうでならなかった。
無関係で無辜の人間が私怨に巻き込まれ、拙い計画のもと襲撃を加え、そりゃそうなるだろうという結末を迎えるのは、涙なしには見ていられなかった。
首謀者が生き延び、しかもほぼ自分のせいなのに復讐しようとするところも、自分勝手で許せない。
現代にも十分通じる話で、「闇バイト」とか、強盗実行犯の求人に応募しようとしている人たちに見ていただきたい映画だ。
高橋和也はよかったし、芸能界における矢島健一くらいの俳優の位置が、最も理想的であるように思える。
公開が1995年で、あの時はまだ前の戦争のことをかすかに感じることができていたのだろう。
30年近くたつと、その感覚がちょっとわからなくなってきていて、少し反省。
田口トモロヲがどこに出ていたかわからず、内藤武敏が小倉出身であることを今更知った。
ミッキー・カーチス演じる亜仁丸が実に筋の通ったキャラクターで、最期はもったいないように思えた。
亜仁丸の事務所の場所は、もしかしたら僕の自宅があった近くかもしれない。
飛行機が飛ばない理由は荒天であるはずだが、その晩の天気はそれほど悪くないものの、都合よく強い風が吹き、そこはもやもやした。
金をどうやって持っていこうとしたのかも気になるし、これからどうなるのかも気になる(ファンタジーとはいえ、出国できるのだろうか)。
一番上だけが腐っていて、他の登場人物のそれぞれの行動は実に合理的だった。
自宅のTVにBluetoothヘッドホンをつないで映画を見ると、台詞が聞き取れて、よい。
いい時代になった。
2024-03-02 Sat.
黒標
2024-03-02
NHKのインタビュー番組に、光石研が出ていた。
撮影場所は、再建された小倉昭和館。
自分の記憶は20世紀末のものなのであいまいだが、通りに面した建物だけを見ると、元に戻ったようにすら感じた。
建ったからには、続くことを願うし、いずれにせよ、自然な形であってほしい。
「漁師の格好をして本物の漁師の人の中に紛れていたら、スタッフに気付かれなかった、これが高倉健さんだったらオーラで気づくだろ」というエピソードがよかった。
懐かしの「みんなのうた」で「恋するニワトリ」がかかる。
子どものころに聞いていた時は、「なんでひとりで卵を産めるんだよ」と独り言ちていたが、今となっては「無精卵か」と合点がいく、かのようにつかの間思った。
改めて聞くと、やはり谷山浩子的怖さは感じつつも、歌の終わりのアニメーションで卵が産まれ、その卵が孵化するところまで描かれている。
谷山浩子の怖さをアニメーションが超え、子供のころに感じた怖さを塗り替える必要がないことに思いが至る。
まっくら暗い、暗い。
そういえば、すっかり「ブギウギ」を見なくなった。
朝ドラの出演すら、映画のプロモーションの位置づけだったのでは、と猫娘につままれた気になる。
記事から察するに、世間の代表作は今も、「がんばっていきまっしょい」であり「なっちゃん」であるのだろう。
それはそれですごいことなのだが、じゃあ、僕は代表作をどう考えるのか、と振り返ると、本気で「ドラッグストア・ガール」かもしれないな、と落胆する。
…考え始めたら、30分くらい経過してしまった。
もう出かけないと。
「TRAiNG」の後、市ヶ谷駅で南北線に乗り換え。
いつものように、史跡とその案内の展示に立ち止まり、日吉行き。
麻布十番駅に到着。
駅構内にはポスターが貼っている。
有志の方々が推しの女性アイドルの誕生日を慶祝するポスターのようだ。
公共の場では口に表せないような思いが体内をうずまく。
僕も同じようなことをしているかもしれない、ていうか、すぐ上でしている。
ラーメン屋の前には3人の行列。
休日でも雨だからこれくらいの列で済んでいるのかもしれない。
このラーメン屋は都内の別の場所にも店を出しており、そこの方が行きやすいのだが、いつも混んでいるので、今日はここまで来た。
それでも、本場にある本店は大行列店であるそうで、こちらはまだまだ穏やかな方だ。
もし行列が長かったら、近くの久留米ラーメン店に行き、田中麗奈さんのサインがないか探すところだった。
ここはラーメンもチャーハンもおいしくて、両方とも並を頼むと、約1.5K円の出費。
こういう時代だし、控えめに言って外食産業は負のスパイラルに入っているのかもしれず、時間も金もない僕は途方に暮れる。
厨房では、店員が店員に指導を受けていて、苦しい気持ちになる。
今シーズン、「清水の舞台は何千人載っても大丈夫」を考える気持ちで、思い切ってアウターを買ってしまった。
このアウターが汚れないように気を遣ってしまうため、今冬、気軽にラーメン屋に入ることができなくなった。
この日も寒くて着ていったのだが、アウターを裏返すようにたたみ、窮屈な気をしながら食べたので、落ち着かない。
腹ごなしに、雨の中を歩く。
自分の生活では見慣れないランクの車が、飯倉に向かって坂を上っていく。
どうやったらこんなに金の回ってくる環境にたどり着けるのか、そもそもこんな、まいばすけっとで心を整えることしかできない街で暮らすことで僕の気持ちは充たされるのだろうか。
首都高速を街宣車が通過し、今日が天皇誕生日であることを思い出す。
雨の中の一般参賀は、ご苦労様である。
麻布台ヒルズのレジデンスB棟を見上げる。
まだ建設中で、これを作るだけで、利益はおろか大谷翔平の5年分の年棒が損失として計上されるのだから、こちらの方がよほどご苦労様である。
そういえば、「弥生時代からプレーしても達成しない数字」とか言い放った人は、今どう扱われているのだろう。
大谷翔平はきっと、「お前の5年は俺の1年」などと品のないことは言わないだろう。
メーカーを渡り歩いてビールのCMに出ていることこそ人間性を信頼できない証、と僕は思うのだが、これは広告代理店のせいだし、そもそもアルコールを摂取しないとも聞く。
いつか言おうと思っていたが、今言えてせいせいした。
外には人がほとんど歩いていなかったのに、森JPタワーに入ると、人が密集している。
14時過ぎでもレストランは満席だし、店の前に長い行列ができている店もある。
みんなトレンドに敏感なのだろうし、東京の2、3点の行き来しかしていない自分に嫌気がさしてくる。
そして、見渡しても、金のない中年男性の単独行など一切ない。
どういうスキームを組めば、真の美女を連れて麻布台ヒルズ内を闊歩する暮らしを手に入れるのだろう、と5秒間悩む。
高級本屋があり、「美しくありたい」という本の横に、美しい有村架純の写真集が陳列されている。
なんというか、競争ではないものの、エントリーも慎重にしなければなるまい。
桜田通りに出て、北上する。
歩いていてよく思うのだが、ある方向に向かうためには、歩く道を1本しか選べない。
細い脇道も面白そうで、気がそそるにもかかわらず、一度に複数の道を歩くことはできないので、いつも脇道を断念している。
脇道を選ばなかったことで、大事なもののそばを通っているのに、出会わなかったものどももあるのかもしれない。
一瞬一瞬が選択であり、出会いは偶然なのだ。
などと、考えつつ、結局のところ地図を見ながら歩けばいいのだ、と気付き、スマートフォンを見、小さな段差につんのめり、虎ノ門ヒルズに到着。
知らないうちにステーションタワーもできていた。
地下に潜り、虎ノ門ヒルズ駅。
駅もほぼ完成したのだろうか、両サイドのビルの地下がガラス越しに見えるようになっていて、まるで建物の中に駅が内包されているように感じる。
思うに日比谷線も、20世紀末に抱いていた僕の印象とは異なり、「近代化」されたように思う。
車両も変わったし、駅もきれいになったし、沿線も開発された。
日比谷線VS銀座線も、当然令和バージョンに書き換えられなければならない。
「終点が浅草で、今の人にわかるのだろうか」と、オチの効果について事前に逡巡したそうだ。
僕には、具体的な記憶がほとんど残っていない。
具体性を好まず、抽象的なルールに昇華させ、現実をやり過ごしている。
残っている記憶とは、自分のみっともなさと、それが引き起こし身に焼き付いている災厄だけだ。
「ラッキー、ハッピー、ウィッキー、リッキー、リッチョーワイド…」と誰かが唱えているように聞いたが、僕には幸福と思えることが皆無であった一方で、間違いなく幸運に恵まれていたと思う。
自分単独では到底処理できなかった出来事がやり過ごされ、思いがけない偶然に数知れず助けられてきた。
そして、認識しがたいが、僕にとっては、幸運こそが幸福なのであろう。
現在地をないがしろにしてはいけない。
日比谷線を降りて、古い階段を上って地上に出、さっき提言した「近代化」を撤回して、店に入る。
実はこのところ、IDカードを首から吊るすためのネックストラップを探している。
今使っているのは、何年も前に買ったもので、よく見ると薄汚れている。
もう何軒も店を回っているのだが、気に入ったものがなく、ここまで来てしまった。
この店も、ストラップ部分はいいのだが、金具がホルダーを挟むタイプで、これでは脱落の可能性がある。
今日も買えなかった。
混雑するコーヒーショップに席を見つけ、読書。
ビートたけし「頂上対談」。
強烈な光で今を焼き付けることの必要性が、その時にはわかりづらい。
休日夕方の日比谷線を、THライナーが通り過ぎる。
乗客は、全車両合わせて20名くらいだったようにも思える。
きっと、上野でたくさん乗るのだろう、そう信じたい。
ランダムで選ばれたのは、土岐麻子のアルバム。
素晴らしいものがあふれているのに、そこから距離を置こうとしているのは、ふいに包まれる輝かしい瞬間に、必死で持ちこたえてきたつまらない現実がさらされ、もろく崩れていくのが耐えられないからであろう。
ストーリーのつまらなさは、主人公がどうしようもないキャラクターであるからだ、ということは嫌というほどわかっている。
当然ながら、この話から抜け出すことはできない。