2025-03-30 Sun.
裂火
2025-03-30
「Broken Rage」を視聴。
おもしろかった。
慣れているせいかもしれないが、「これが観たい、いつまでも観たい」と思わせる。
まずお手本を見せておいて、そのあとセルフパロディ、という手順を踏むところまで来てしまった。
それは確実に減算要素になるわけだが、この時代、選択肢の1つとなりえるのだろう。
むしろ、監督の優しさを感じてしまう。
ショックだったシーンがある。
前半パートで、たけしさん演じるねずみが自宅アパートの階段を上る際、手すりにつかまっていた。
あれは、演技なのだろうか。
2025-03-22 Sat.
爽桃
2025-03-22
久しぶりに、穏やかな休日である。
今週、吹雪の荒天で、悪態をつきまくったことがうそであるかのように、穏やか心持だ。
朝、カフェにて雑誌「リンネル」を読む。
田中麗奈さんは、本当はたくさん食べたいけれど、40代になると体重はすぐ増えるのに減らすのは難しく、ダイエットも大変なので、普段から「腸活」を心がけ、発酵食品を摂取している。
小麦を食べると体が重くなるように思え、米粉でパンやスウィーツを作り、食べたらおいしくて体も軽くなった。
すき間時間に、お腹をねじるエクササイズ。
素敵な人はケアしている、インナービューティー。
転ばぬ先の臓器ケア、「臓活」が大事、なのだと。
田中麗奈さんが美しいのは最初からであり、腸活、臓活は当然ながら十分条件ではない。
「何もしてないよー」は虚偽かもしれないが、身についている習慣を含めての美人なのだ。
腹をねじる写真を撮るのに、110K円のパンツを履かされるのは、よくわからない。
同様に、高嶋ちさ子が元気なのはサプリのおかげではなく、元々のように思う。
最近、「若い世代が出てきたなー」と思っていた人たちが、40代になっていることに驚く、例えば、吉岡聖恵とか。
先日は「non-no」を読み、「大学生は、入学した時から気を張るものなのだな」と落ち込む。
「non-no」がアイヌ語で「花」の意味であると2025年になって知ったことにも、落ち込む。
「バラライカ」はロシアの弦楽器で、だから「きかせて」なのだ。
さて、ナンシー関・大月隆寛「地獄で仏」を読む。
「評伝 ナンシー関 「心に一人のナンシーを」を入手して読み直し、「そういえば対談集は全く読んでこなかった」と気づかされ、図書館で借りてきた。
2025年から見れば、「これは批評である」という観点をもってしても、まあ悪口ばかりが並んでいる、ように感じる。
デーブ・スペクターの発言の一部はもしかして当を得ていたんじゃないかと、人生初めてスペクター・コミュニケーションズの側に立つ。
こういうテイストなのは対談だからかな、とは思う。
思ったことを直で発言している、とまでは思わないけれど、やはり書いたものなら読み直すし、その前に書くまでにも時間を要するし。
対談は、相手との会話を形成することが必要条件になるので、まあこんな感じなるかなと思う。
いずれにせよ、その後の我々が気を抜いていたから、鈴木奈々の右往左往を見させられる羽目になったのかもしれない。
でも、こういうTV業界だからこそ、華原朋美の奮闘、みたいなのも見られたから、よかったとも感じる。
それでも、森口博子、森脇健児を心から面白がっている…、応援している自分もいて、「でも、それは芸能人である上での評価だからね」と言い訳している自分もいるのは、整理しきれない。
年を取ると、継続のすごみを知ってしまうからだろうか。
そして2025年は、なんと行儀のいい時代なのだろう。
1993年から1995年までくらいの対談が載っている。
忘れていることばかりなのだが、藤田朋子のことはまあそうかなと思いつつ、1990年中ごろの島崎和歌子もその位置だったけな、というのは自信がない。
1994年にはたけしさんのバイク事故があって、気を落としつつ「世間こぞっての心配」に違和感を持つナンシー関の様子が、「その立ち位置だな」と思う。
時期もあいまって、1995年の様子をうかがえるのは、感慨深い。
1995年の1月があって、3月があって、それ以降ずっと価値観を振り回される日々が続いた。
いわゆる多感な時期に1995年を経験したことで、その後の多少のざわつきは受け止められるようになった、というか熱をもって見ることがなくなった、ように思う。
僕の場合、1月と3月の間に自然気胸を発症し、1週間の入院を余儀なくされたのもあり、なおさら刹那を感じやすかったのかもしれない。
病床で見たTVの映像は、想像したことのない灰色だったし、3月に映像で見た防護服などが鮮やかで、その後のものの見方の水準を形成している。
「ザ・ワイド」の読売テレビ枠が自然消滅していったことが、「2時のワイドショー」世代の僕にはこたえて、平穏が失われたように感じた。
この本でもっともよかったのは、カズ山本選手が震災の後すぐに多額の寄付したことが取り上げられていることである。
1994年末の契約更改で年棒2億円に乗せ、翌年には1,000万円を寄付している。
1990年代のひねくれた文脈で育った僕としては、「寄進慣れしていたか」とでも言ってしまう。
そんなものをうち捨てる山本和範選手の実直さに、感涙する。
その年末には自由契約になる。
これも、1995年である。
2025-03-16 Sun.
代替
2025-03-16
新宿ミロードが閉館する。
新宿では東南口を活動の起点としていた僕にとって、ミロードとは、便利な食事処、便利なスターバックスコーヒー、というイメージである。
「ミロードだったら、席は確保できるだろう、何を食べるかはともかくとして」という安易な考えに応えてくれる場所だった。
ずいぶんと昔の記憶をたどると「ドロミ」を思い出す。
本名は、ミロ・ド・ロミ。
ミロードのキャラクターを務めていたが、いつの間にか姿を消し、ミロートンにとって代わられた。
年始に、久しぶりに「ルミ姉」がルミネの広告に現れたのも、ドロミへの惜別の意を表した結果に違いない。
ドロミがいたことが夢だったのか虚偽の記憶なのか、不安になるのだが、確かに「ドロミ像」はあった。
その「ドロミ像」があったのが、モザイク通りだ。
新宿に来るようになり、モザイク通りを「発見」してからというもの、何百回と上り下りを重ねた。
西口から南口へショートカットできるモザイク通りは、京王線ルミネ口とともに、僕の新宿移動を快適にしてくれた。
京王百貨店の脇から、クセのある店舗が並ぶ坂道を階段で上るかスロープを進むかで悩み、時に雨に濡れたタイルで足元が滑りそうになりながらも歩を進めると、いつの間にか建物の中につながっていて、階上に進むと甲州街道をまたぐデッキに出て、そのままサザンテラスに抜けていく。
その感覚が心地よかった。
坂を上る際に、勾配に不満を言う人と、通りのたたずまいと道並みの軽妙さを楽しむ人がいて、それがその後何かの判断基準になったようにも思う。
2023年にモザイク通りが閉鎖されたのは大きなショックで、「これで青春も終わったな」とすら感じた。
閉館を前にして、ミロードで何度か食事をとった。
何ともミロードらしいスタイルの店ぞろい、つまり自分は場違いだった。
館内には開館からの軌跡を振り返るパネルが掲示されていた。
よく探したものの、「ドロミ」に触れられた箇所を見つけられなかった。
HOKUOでパンを買ったのも懐かしいし、失意のうちに山頭火でラーメンを食べたこともあった。
そんなにゆかりもないのに、ミロードの閉館が自分の人生に1つのピリオドをもたらすような気がしてならない。
これで、新宿フラッグスがなくなるようなら、いよいよ自分の時代は終わる。
そういえば、少し前に新宿アルタも閉館になった。
多くの人が思うように、「前までは行ったことがあるが、中には入ったことのない場所」の代名詞が、新宿アルタであった。
そうは言っても僕は何度も入ってはいるが、新宿アルタに入る目的は「新宿アルタに入る」以外、なかった。
あるいは、そのロゴを池袋や原宿でも見かけて驚く、というのがアルタであった。
こちらも閉館直前に何度か行った。
雑貨があり、オカダヤがあり、レコード店があり、とやはり全く縁のない場所であった。
地下にセブンイレブンがあることに気付かず、もっと早く知っておけば便利だったのに、と悔いた。
五右衛門で何度かスパゲティを食べた。
メニューに加わった「きのことベーコンの和風バター醤油」が、飽きない。
このメニューにもっと早く出会っていれば、もうちょっとここに通ったかもしれない。
エスカレータ脇には、アルタにゆかりのある有名人の直筆入り写真パネルが飾られてあった。
タモリさん、関根さん、小堺さん、爆笑問題、ココリコ、劇団ひとり、タカアンドドシ、又吉直樹、ベッキー、柳原可奈子など、アルタで撮影した写真に、メッセージが寄せられていた。
11年経過したものの、僕は今も、「いいとも」の夢を見る。
先日の夢では、「テレフォンショッキング」に米倉涼子が出ていた。
画面の中でボソボソと話しつつ、うつむいて黙り込み、少し間が空いた後、ようやく気付き、「これもう本番なの?」と叫びだす。
その様子に、タモリさんが上体を前に屈ませながら笑っていた。
「いいとも」がもし続いていたら、いろいろなことがなかったり、あったりしたのだろうな、と思う。
笑福亭鶴瓶のパネルもあった。
見たくもないが、何か違和感がある。
よく見ると、直筆のメッセージで「ところ」とあるべき箇所が「ことろ」となっている。
ウェブ検索してみると、アルタのSNSにその顛末が書かれていた。
スタッフが鶴瓶に間違っていることを指摘すると、鶴瓶は「まあ、ええやろ」と言って、直すことをしなかった。
まともに文字を並べることもできないし、間違いを認めて書き直すことぐらいが未熟な者ができるせめてもの礼儀であるにもかかわらず、書き間違いをそのままにし、あたかも「味」を醸し出したかのようにふるまい、自分が芸の達人であるかのように気取る様が垣間見え、とにかく腹が立って立って仕方なく思えた。
鶴瓶は、粗雑に扱われ、周囲から徹底的にボロカスに言われることにより、あいつの狂気の本性があらわれ、そこにこそ存在価値がある。
どつかれ、くさされ、苦し紛れに「尼崎のドブから生まれたヤツら」と言い放ち、仁鶴兄さんにチクろうとするあわれさ。
加齢、過労、清潔な正義感の2025年。
大好きな場面も、これからはほとんど発生しないのだろうな、と思うと、それこそ自分が楽しかった時代の終焉である。
東京出身で、子供のころから街に親しんできた人を前にすると、ついこないだ東京に出てきた僕はどうも気後れしてしまう。
先日、東京出身者に、今はない新宿にあったものについて、相手も当然知っていると思って話していたのだが、「全然知らないです、東京のこと詳しいですね」と返された。
よく考えたら、その人は十分に若く、僕が東京に出てきた後に生まれていた。
そういう年齢である。
ドロミの話などを披露したら、大惨事。
2025-03-08 Sat.
拝像
2025-03-08
年初と比べ、ドル円が8円ほどドル安。
円に対してドルの価値が5%超、下がった。
普段、勤務時間内は成果物作成に邁進し、勤務時間外は勤務日に備えて体のメンテナンスに気を遣っている。
形式ばることが極端に苦手とはいえ、金をもらう以上、勤務では体裁を整えたものを納めるように努めている。
その結果、2024年は120ドルの利益が残った。
それを打ち消すほどに、資産評価額が大きく下がった。
誰かが金を持っていったわけでもない。
円に対してドルの需要が少なくなり、自分が持っているドル建て資産の評価が下がっただけだ。
ドル高の時には全く実感がない一方で、ドル安は身にこたえ、気になる。
それでも、ドル安自体は、ドル高同様に歓迎する、というか受け止める。
ITエンジニアである僕は、資金の国外流出に大きく荷担させられており、ドル安にはホッとする。
とっとと、円建て価格のクラウド使用料を下げてほしい。
また、エネルギー資源の価格が為替相場に連動して下がることを期待する。
現実は、渋谷のラーメンが1杯900円、大盛が1K円。
市場の変動に揺さぶられ、心の隙間ができる瞬間に、「何のために働いているのだろう」という疑問が挿し込まれてくる。
日銭を稼ぐことと、市場が動くこととの間に、大きな隔たりというか、スケールの違いや振幅の差があり、頭がついていかない。
問いに対する答えは一応出していて、決して金のためではなく、「社会をよりよくするため」に働いている。
賃金の獲得は、社会形成の営みを維持するための制約条件にすぎない。
こういうことを自分にずっと言い聞かせて、心の安定を維持しようとし続けるのみ。
これが、市場の淵に身を置くことが許されている、非力なインデックス投資家の…、市場参加者のできることだ。
それすらできなくなれば、自分の金は、市場ではなく像や壺に吸い込まれていく、しまいには、この身すらも。
ところで、ドル建てで見ると、資産評価額の変動は約1%下落程度。
2025年は投資資金の切り崩しから始まっており、その影響で、状況を正確にとらえるには込み入った計算が必要となり、それは面倒でやっていない。
1%減は正確な計測ではないとはいえ、ベンチマークとしている指標は3%ほどの上昇であり、まあ妥当と言えよう。
NISA参入者の阿鼻叫喚は、僕の耳にはまだ聞こえてこない。