星霜
今日の今日まで、ウエストランド井口の前例を忘れていた。
今日の今日まで、ウエストランド井口の前例を忘れていた。
頭丸めて許しを乞うたアイドル的芸能人もいたから、いいのではないか。
同じように禊にならないだろうし。
上白石萌歌?
ああ、あれは鹿児島出身、九州の後輩やね。
…こういう厚顔無恥な言動がまかり通りかねないのが、九州出身者である。
深く反省し、ここで「郷土の先輩」について考察を加えることにする。
僕は福岡県出身である。
福岡県出身の有名人は多い、とされているが、実は県全体を一体として意識することはあまりない。
僕は、福岡県出身というよりも、地元は北九州市です、というほうがしっくりくる。
それゆえ、福岡県出身でも福岡地方、筑後地方の出身者については、少し距離を感じる一方で、県東部出身の有名人のほうにまだ近しさを感じる。
ここまでで、地元の大先輩をただ1人挙げよ、と言われれば、今の僕は迷いなく、高倉健を挙げる。
高倉健は中間市出身であり、北九州市出身ではないが、折尾の高校を卒業している、ということで見逃してください。
北九州市外の出身者であっても、両親の地元である田川市郡の有名人であれば、親しみを覚える。
井上陽水、IKKO、升野英知、小峠英二を輩出したことは、僕にとって誇りである…、いやIKKOはここに入れても入れなくてもいい。
山本作兵衛翁は、別枠で。
ところで、僕は、北九州市出身というよりも、地元は小倉です、というほうが、よりしっくりくる。
実は、八幡の方には、少し距離を感じる。
小倉の大先輩としては、小倉一のハンサム、草刈正雄を挙げたい。
松本清張、松本零士の両巨匠はどうするのか、という逡巡はあるが、ここはポップさを取ることにする。
ここで、いささか面倒な制約を加え、本来の意味に近い「先輩」となると、火野葦平、森田順平、白川方明など、名を挙げるにもいろいろと気を遣う。
それでも、この枠では、何と言っても朝本浩文の名を挙げたい。
「先輩に、朝本浩文さんがいます」という事実は、今後もずっと大切にしていきたい。
以上の考察から、僕の心の中の大先輩は、高倉健、草刈正雄、朝本浩文、カズ山本、そして久保田篤、ということにしておこう。
ところで、冒頭の人名は、別に誰でもいい。
例えば、千代丸でもいい。
それにしても、日本銀行はいったいどこから金を持ち出してETFを買っているのだろう。
自分で紙幣を刷っているのか。
これが、僕の「公民」科目の習得レベルである。
惨めな知能を嘆いていても仕方がないので、日本銀行のウェブサイトにアクセスする。
サイトには、日本銀行の財務諸表が公開されている。
2020年3月の貸借対照表によると、右の「負債の部」に、「発行銀行券」が109兆円、当座預金を含む「預金」が395兆円、「政府預金」が12兆円ある。
日本銀行にとって、紙幣を発行するとは負債を抱えることなのだ、と今さら理解する。
それはそれとして、左の「資産の部」には、金地金が0.4兆円、現金が0.2兆円、ETFが30兆円ある。
左右が対応しているわけではないが、まあ、市中の銀行の当座預金があって、それで得た現金的なものでETFを購入している、あるいは市中の銀行からETFを受け入れ、それに対応する当座預金の残高を足している、ということなのだと思う。
ところで、「資産の部」には大きな残高があって、それは「国債」である。
その残高は、485兆円。
なぜ日本銀行は国債をこんなに保有しているのだろう、政府に買わされているのか。
これが、僕の「公民」科目の習得レベルである。
惨めな知能を嘆いていても仕方がないので、「日本銀行 国債」で検索してみる。
忘れていたけど(あるいは知らなかっただけだけど)、日本銀行が国債を政府から直接買い入れることは法律で禁止されている。
それでは、どうやって国債を日本銀行が得ているかというと、市中の銀行からの買い上げによる。
なぜ、市中の銀行は日本銀行に国債を売るのか、自分で持っていればいいのに、と思うのだが、それにも理由がある。
現在、国債は額面よりも高い価格、要は負の利率で市場に放出されているのだが、それでも市中の銀行が購入するのは、日本銀行が政府が発売する価格よりも高く買ってくれるからである。
日本銀行は、市中の銀行から国債を受け入れ、それに対応して当座預金の残高を足しているのだという。
つまり、国債が日本銀行に持ち込まれた際(実際はペーパーレス化されているはずなので不正確な表現だが)、日本銀行が市中の銀行に代わりに現金を渡すわけではなく市中銀行の当座預金の残高を増やしてあげることにより、日本銀行のバランスシートが保たれる。
その結果、485兆円もの国債を日本銀行は所有することになった…。
ここまでくると、何だかこれまで習ってきたことと違う、と思い、ウィキペディア日本語版で「信用創造」のページにアクセスしてみる。
すると、そこには自分が以前習った「信用創造」の説明とは全く異なることが書いてあった。
以前教わった(そして、改めて確認したベネッセのサイトでの)説明だと、「信用創造」は、銀行が預金を元手に貸し出すことにより発生する。
まず銀行が1,000万円の預金を受け付け、そのうち100万円は手元に残しておき、900万円を別の人に貸す。
その900万円で別の人は負債を支払い、900万円を受け取った人はその金を銀行に預ける。
すると、銀行は900万円のうち90万円を手元に残して、810万円を別の人に貸す…。
そうやって、1,000万円の預金はそのままで、900万円、810万円…の預金が生まれる。
これが「信用創造」だ、という感じだったかと思う。
まず預金ありき、で始まる。
しかし、ウィキペディアにおける「信用創造」はスタートが違う。
まず、借り手ありきである。
借り手の返済能力を査定したのち、返済可能と判断したうえで銀行は金を貸す。
その時銀行は、バランスシートの左側に貸付金を、右側に借り手の当座預金を書き加える。
それで終わり。
リアルな金を動かすことはない。
逆に返済とは、貸付金と当座預金を相殺する帳簿上の操作となる。
貸付の時、銀行がいくら預金を集めているか、いくら資産があるかは関係ない(もちろん現実は異なる)。
これがMMT、現代貨幣理論の導入部分の説明である、ようだ。
国債は、法律の制限から、まず市場で消化されなければならない。
しかし、国債を日本銀行が受け入れている実態は、回転の方向は異なるが、日本銀行がバランスシートに国債と、市中の銀行の当座預金残高を書き加えているのと同じだ。
この原理をもとにすれば、政府は国債発行の制限が大幅に緩和される、という話もある。
でも、そんな風に無秩序に増やされた当座預金の残高をありがたがるのだろうか、と僕は疑問に思う。
その疑問にも答えがある。
制限のない国債発行を可能にするのは、政府が通貨発行権を有しているからだ。
通貨は納税で使うことのできる証書であり、市民は証書である通貨を政府に収めることにより、納税の義務を免れる。
そのために、通貨に価値があると認めるのだ、というのが、僕が理解できた話である。
まあ、そう思うのならそれでもいい。
一方で、僕の身にとっては、費用が年々上がっているのは租税公課くらいで、他の費用額は維持、もしくは下がっているのではないか、とすら思う。
佐世保在住の小説家、佐藤正午著「ありのすさび」によると、1998年頃の話だが、長編小説「Y」の執筆の際には、舞台である東京に関する情報収集のために数人の手を煩わせた。
後に、それらの情報はインターネットを使えば自分でも得られるとわかり、東京在住の知人に余計な手間をかけさせた、とあった。
今は2020年だが、自分の情報機器や通信にかかわるコストを積算してみると、10年でおよそ100万円ほど費やしていると思う。
なので、一概に調べ物のコストが下がったとも言えないが、それでも年間10万程度で過去とは比べ物にならないほどの情報にアクセスでき、それにより出力を増やすことができている。
コストが下がっているのは、技術のコモディティ化とは別に、通貨とは別のあるものを「支払う」ようになったからだと思う。
それは、自身のプロファイル、および行動履歴である。
僕は、情報技術の恩恵を受け取る代わりに、自分の行動内容を無自覚に渡している(実際は、データ化され吸い取られている)。
それがこの国の通貨に変わればいいのかもしれないが、そういうわけでもない。
政府には徴税権がある、と言っても、金銭ではないすべてのやり取りに税をかけることは困難だ。
金を支払わなくていいのなら、金を得る必要もなく、金を得ないのなら、税を支払う必要も減る。
そもそも、自国通貨を得る必要が税を支払うためだけになり、それ以外のやりとりを別の「通貨」で済ませることができるようになれば…、まあ、そんなことにはならないか。
番組が始まって24年建つ…、いや経つらしい、知らないけど。
僕は今週初めて「王様のブランチ」を見ることになるかもしれない。
「後任を考えろ」というお題が出されたので、とりあえず誰でも思いつく東幹久を挙げて時間を稼ぎ、土曜の午前といえば「OH!エルくらぶ」から中居正広、利根川裕の後に石川次郎、でも結局は岩本恭生か鶴久政治で決まりだろ、で許しを乞うた。
もはや、視聴者にTV出演を拒否された人たちを集めれば、TV以外で普通の番組が作れるようになってきた。
もちろん、木下氏は除く(あなたが思い浮かべた「木下氏」ではないから、ご安心を)。
それにしても、「お笑いとしてこんなにも面白いネタは、そうそうない」と僕は思ってしまう。
夜景鑑定士を取得したと聞いたときに芽生えた「違和感笑い」がここで一気に花開いたのに、時代と本人の立ち位置が変わってしまった。
オールドスタイルの視聴者としては、もったいなさがやるせない。
ところで、リンク先の記事にコメントした人はどこへいったのだろう、ヒロシさんの説だと、みんな死んだんでしょうか。
やはり、心からのお笑い芸人はお笑い以外に主軸を置いてはならないのだろう。
無理をさせてしまった。
こんな日でも「ヒルナンデス」に変わらず出ている春日俊彰の揺るがなさがすごい、と改めて思う。
少し前に「アンジャッシュは、賞レースで結果を残してきたわけでもないのに、ちゃんとコントで売れてきたのはすごいな」と思ったり、この自宅待機中に「ウッチャンナンチャン トークライブ2011」のビデオを見て再度感心したりしていた。
僕はお笑いファンなのでお笑い側からの目線で考えてしまうが、視聴者の多くは彼をTVタレント、レポーター、コメンテーター、司会者、飲食店紹介人、トレンド追従人としてとらえているだろうから、そういう反応になるのは仕方ないと思う。
究極のところ、必要不可欠な人と、代わりがいる人がいて、大半が後者なのだと思う。
芸能界の話に限らず。
6月は矢部みほの…、矢部美穂の誕生月である。
ねんきん定期便を見ると、前年に比べ「実績に応じた年金額(年額)」が約8%増えていた。
このことから、僕の年収を推測することができるのかもしれないが、いやいや本当のことを言っているとは限りません。
年金のシステムについて十分理解してはいない。
そうはいっても、現状の年収を続けていければ、このくらいの額ずつ年金額が増えていくものなのか、という気にはなる。
それでも、リタイヤするころの年金額は、結局2019年に推定した額とほぼ同じだと推測され、やはり月5万円ほど足りないようだ。
あれは国民への有用なアドバイスであったのに、もったいないものだ。
もっとも、今後も同等の年収が得られるとも思えないし、支給額の計算式もきっと変わるのだろう。
年金保険料を支払うのは市民のたしなみと理解しているし、保険をかけている一方で、年収が得られなくなったら生活も終わり、となるのが望ましいとすら思う。
ところで、ねんきん定期便のレイアウトが変わった。
受給を70歳まで繰り下げれば最大42%増額されてお得ですよ、ということを言いたいのだろう。
調べてみれば、年金額が増えると雑所得が増え、所得税や住民税も増え、所得によって徴収額が決まる国民健康保険料や介護保険料も増える。
70歳近くになったときに、このような計算ができるほどの体力があるのかが、気がかり。
マスクにまつわる小話を3品。
電車に乗っていると、車内にかぐわしいコーヒーの香り。
横を見ると3つ隣の席に座っている男性が水筒を開け、ホットコーヒーを飲んでいた。
何と優雅な朝だろうか、と思う一方で、よく考えればこちらはマスクをしている。
飛んできたコーヒーの分子がどの程度の大きさか知らないが、ウイルスよりは大きいと思うし、いわゆる飛沫よりは小さいと思う。
においを防げないマスクのCOVID-19への効果はあるのだろうが、気温が高くなるとマスクの中がかゆくて仕方ない。
道を歩くと、不動産業と思われる男と地主と思われる男、どちらもマスクを着用。
不動産業が、「暑いですね、こんな暑い日にマスクをするのも大変でしょう」と地主に話す。
地主は「そうだな」という感じでうなずいていたが、僕が見るにその地主の頭部には、いわゆる「僕が見てもばれるタイプのかつら」が着用されていた。
「夏のマスクが煩わしい」などと言っているうちは、かつら愛用者の苦労など理解できるわけもない。
これまた電車内。
車両の乗客のほぼすべてがマスクを着用しているような、不自由な世の中になった。
乗客は、人ぞれぞれにいろいろなマスクをつけている。
材質が布のマスクもあるし、不織布のマスクもある。
色も、白だけではなく、黒、青、グレー、ベージュなど様々だ。
形も長方形のものもあれば、プリーツ付きのもの、立体型のものなど、それぞれ違っている。
その中で、最近見たのは、マスクの表面に黒い丸と「人」の字の両端が上がったような形、その下に舌の絵が描かれたもの、いわば犬の鼻口、muzzleが施されたものを着用している人がいた。
それが子供だったらかわいらしく受け入れられるが、着用していたのは中年男性で、これから仕事に向かうような恰好をしていた。
およそ自らの選択で着けているとは思えず、このようなマスクの着用を強要する社会が、憎い。
「マスクをしないで外出する」というのは、どうやら「裸で歩く」くらい破廉恥な行為になってしまったようだ。
2020年で、よかったことは2つだけ。
1つは、作業場でデスクトップPCが2台支給されたことにともない、モニタも2台設置されることになり、ものすごく邪魔だと憂鬱に感じて1か月過ごし、ようやく、「1台のPCを2つのモニタにつなげば、デュアルディスプレイになる!」と気づいたこと。
気づくのが遅いし、わくわくしたわりに仕事がはかどるようになったわけでもない。
もう1つは、昨今の事情で北九州市がメディアに取り上げられるようになり、市長の記者会見の後ろのボードにじーもが見切れるようになったこと。
半年間でこの2つだけだ。
あとは、いいことは何もない。
もっとも、年間2つもいいことがあるなんて、僕にとっては恵まれている方だ。