心変
学生時代、吉野家ではない某牛丼チェーンでよく食事を取っていた。
最近はもっぱら吉野家で牛丼を食べている。
先日、その某牛丼チェーンで久しぶりに牛丼を食べた。
しかし、吉野家の味に慣れているせいだろうか、全く口に合わなかった。
おそらく、もう2度とその某牛丼チェーンで牛丼を食べることはないだろう。
今後、牛丼は吉野家一本にする。
つまり、キン肉マンの逆をいったわけだ。
学生時代、吉野家ではない某牛丼チェーンでよく食事を取っていた。
最近はもっぱら吉野家で牛丼を食べている。
先日、その某牛丼チェーンで久しぶりに牛丼を食べた。
しかし、吉野家の味に慣れているせいだろうか、全く口に合わなかった。
おそらく、もう2度とその某牛丼チェーンで牛丼を食べることはないだろう。
今後、牛丼は吉野家一本にする。
つまり、キン肉マンの逆をいったわけだ。
映画「キャスト・アウェイ」を見た。
「無人島に一つだけ持っていけるとしたら、何を持っていく?」
「ドラえもん」
「…」
前に住んでいた自宅の近所には吉野家が2軒あった。
しかし、僕は何故かどちらの吉野家に行くこともなかった。
現在住んでいる自宅の近くにもたまたま吉野家がある。
だけど、前と同様、しばらく行くことはなかった。
ところが、1年ほど前、石田衣良のコラムで牛丼屋について書いているのを読んで、急に牛丼が食べたくなり、それまで行かなかった吉野家に行った。
それ以来、毎週のように吉野家に行っている。
こんなに近くにあるのに、今まで何故行かなかったのだろう、と深く深く深く深く反省してしまった。
それにしても、文章で人を牛丼屋に向かわせる石田衣良の力はすごい。
「ペンは剣より強し」とはいうが、それを実感した経験だった。
とはいえ、「タモリ倶楽部」の枝豆特集を見てたまらずビールを冷蔵庫から取り出した僕に至っては、単に感化されやすいだけなのかもしれない。
なぜ、よゐこの濱口さんが着物を着て永谷園のCMに出ているのか。
10秒後、小さんが出てきて、自分の間違いに気付く。
この夏はビールをたくさん飲む、という誰にいってもうち捨てられるようなどうでもいい誓いを立てた。
誓いは守るべきものなので、実際ビールばかりをたくさん飲んだ。
その結果、小さな失敗を数え切れないくらい犯した。
おかげで、眠れぬ夜が増えた。
なので、このところ酒量に気をつけている。
短い時間で飲み、自分が酩酊していることを深く自覚し、飲酒をすっぱりやめる。
「比較的礼儀正しい酔っ払い」になることを心がけている。
反面、最近密かに試していることがある。
休日の昼からビールを飲む、というくだらない試みだ。
何もすることがない休日に、昼から自宅で独りビールを飲んでいると、休日感がとても増すのだ。
また、どこにも出かけることもなく独りで飲んでいるので、健全に動いている社会に向かって小さな失敗を犯す危険性も少ない。
ビールを飲みながら、「モヤモヤさまぁ〜ず2」を見て、独りごちている。
昼間からウィスキーを飲むのがナイーブだとしたら、昼間からビールを飲むのはセンチメンタルといったところか。
もっとも、この冬にはウィスキーに手が届くかもしれない。
以前、熊本に行ったことがある。
熊本と言えば美味しいものがたくさんあるが、その美味しいものの中でも、僕は熊本ラーメンをとても楽しみにしていた。
その熊本でタクシーに乗る機会があったので、運転手に「美味しいラーメン屋を知っていたら教えていただけませんか」と尋ねた。
すると、運転手は親切にもあるラーメン屋を推薦してくれた。
喜び勇んでそのラーメン屋に向かい、ラーメンを食した。
結果、あまり美味しいとは感じなかった。
先日、鹿児島に行く機会があった。
鹿児島と言えば美味しいものがたくさんあるが、その美味しいものの中でも、僕は鹿児島ラーメンを少し楽しみにしていた。
土砂降りの中、喜び勇んでガイド本に載っていた有名店に向かい、ビールと大盛りチャーシューメンを注文した。
結果、あまり美味しいとは感じなかった。
そういえば、熊本で食べたあのラーメンの味に似ている。
自宅に戻ってこの出来事をふと振り返ってみた。
僕の出身は小倉である。
なので、小倉で食べていたラーメンが一番親しみがある。
熊本や鹿児島で食べたラーメンの味があまり美味しくないと感じたのは、そのラーメンがまずかったわけではなく、ラーメンの種類が僕の舌にあわなかっただけではないか。
思えば、これまで数多くの料理を「まずい」と言って切り捨ててきた。
しかし、それは本当にまずかった訳ではなく、単に僕の口にあわなかっただけかもしれない。
だとしたら、僕は今までかなり不遜な態度をとってきてしまった。
ラーメンを数多く食している有名な某氏も「人は「親しんできた味だから美味しい」などどいう自分目線の評価をしがちである」と批判していた。
確かにその通りだ。
これから「まずい」という言葉は遣わないようにしようと思う。
その代わりに、「口にあわない」という表現を遣おうと思う。
「森喜朗が認める石川五大偉人」の1人である森喜朗の座右の銘は、確か「滅私奉公」であった。
えひめ丸の事件があった際にこのことを思い出し、深く印象に残った経験がある。
今朝の朝日新聞。
麻生太郎に幹事長就任を要請された森喜朗の発言が載っていた。
「晩節を汚したくない」
もう一度言うが、森喜朗の座右の銘は、確か「滅私奉公」であった。
「世にも奇妙な物語」を見ていたら、家族が「この番組のおもしろさがわからない」と言った。
詳しく聞くと、「何を言いたいのか、メッセージがわからない。だから気持ち悪い」という感想が返ってきた。
この話を聞いて以来、「世にも奇妙な物語」にのめり込めなくて、困っている。
かべちょろを最近見ない。
昔はよくかべちょろを見た。
側溝とか、しめっぽい崖とか、そういう場所にいて、よくしっぽをつかんで遊んだ。
最近見ないもので、「かべちょろ」という言葉自体を忘れていた。
だから、たぶん今見てたとしても、「あっ、ヤモリだ」と言ってしまうだろう。
親戚でらっぱを吹く人がいる。
比喩的な意味ではなく、本当にらっぱを吹いているのだ。
別の親戚に、「あいつはいつもらっぱを吹いている」と言われている。
そう知人に話しているうちに、ふと疑問に思う。
「らっぱ」って何なんだ。
親戚が吹いているのは「トランペット」か「サックス」の類だ。
周囲が何の楽器を吹いているか把握していないから、単に「らっぱ」と呼んでいるだけなのだ。
親戚は「らっぱ」と呼ぶのを気に入ってないらしい。
実際、その親戚に向かって「らっぱ」と言うと、ひどく怒る。
大体「らっぱ」という楽器が実在するのだろうか。
調べてみると、「らっぱ」と呼ばれる金管楽器が昔はあったらしい。
しかし、今では、先の開いた金管楽器を総称して「らっぱ」と呼ぶ。
確かに「らっぱ」と聞いて「クラリネット」を想像することはない。
そうは言っても、親戚が何の楽器を吹いているのかは未だわからない。
とりあえず、「金管楽器を吹いている」という風に言い換えておけば、悪い印象はないだろう。
僕の手のひらには、ほくろがある。
ところで手のひらにほくろがあると、病気を疑った方がいいそうだ。
その一方で、手のひらのほくろは「幸運を手にするよいほくろ」という意見もあるらしい。
僕としては病気を疑うのだが、もう数十年もほくろとともに生きているので、「今更何を」という気にもなる。
知人で、「ミュージックステーションが面白い」という意見を持つ人がいる。
僕はこの意見をかなり興味深く受け止めた。
「ミュージックステーション」を面白いものだと考えたことがなかったからだ。
脱線が見られないトークと、飾らない演出の歌唱。
僕は物足りないと思っていたのだが、知人は、それらが逆にシンプルでいい、という意見の持ち主だ。
この観点はなかった。
改めて長寿番組の実力を思い知った。
小学生の時、通学していた小学校に謎の機械があった。
高さ2m、幅1m、奥行き0.5mくらいの直方体で、色はモスグリーン、上部に吹き出し口がついていた。
小学1年の時、磁石にくっつくものを探す、という理科の課題があった。
その機械に磁石をあててみると、見事にひっついた。
僕らは、磁石にくっつくものとして、その機械をリストに加えた。
機械には名前があったのだが、その名前が意味するところがよくわからなかった。
小学3年くらいになって、知識が少し増え、ようやくその機械の名前が意味するところを理解した。
この機械の名前には、空気をきれいにするという意味があるのだ、と。
その機械の名は「空気清浄機」。
大気汚染が進んでいた北九州の子供達を守るためには必要不可欠なものだった。
もっとも、僕が通う頃には空気清浄機も稼働をやめていた。
その理由は、大気汚染対策が進んだからとも、工業が衰退したからとも言われる。
「かまびすしい」という言葉がある。
辞書で確認すると、「「やかましい」の雅語的表現」とある。
先日、新書を読んでいると、この「かまびすしい」という言葉が出てきた。
僕は、この単語が出る度に、意味がわからず辞書を引いて確認する、という行動を繰り返している。
どうも覚えられない。
「雅語」とは、「古代・中世の詩歌や物語・日記の中に用いられた和語。現代でも和歌・俳句などの世界では用いられる」と辞書にある。
だとすれば、新書に登場するような言葉ではないはずだ。
「かまびすしい」という言葉を遣って文章の格調を高めよう、という筆者の魂胆だろうか。
素直に「やかましい」と書けば、辞書を引くことなく理解できるのだが。
いや、これは神様が僕に「辞書を引け」という試練を与えてくださっているのかもしれない。
だとしたら、ありがたい、ありがたい。
「アメトーーク」を見ていたら、思わず耳を疑う言葉が飛び出した。
言ったのはロバートの秋山さん。
その言葉とは、「わっしょい百万夏祭り」。
「わっしょい百万夏祭り」とは、北九州市の祭りである。
神様を無視して、市内の祭りを一緒くたに集めてくりひろげるというものだ。
そして、最後はみんなで「百万踊り」を踊る。
何ともネーミングセンスのない祭りだが、今となってはもっと恥ずかしい。
なぜなら、北九州市の人口は既に100万を割っているからだ。
この言葉が全国の電波に乗り、僕はひどく赤面した。
いや、あるいは、秋山さんの勇気をたたえるべきなのかもしれない。
ハウス食品のシチューのCM。
野菜ソムリエの王理恵から、同じく野菜ソムリエの西田ひかるに変わった。
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会が認定する野菜ソムリエも有用な資格だな、と妙に感心する。
らでぃっしゅぼーやという会社が「好きな野菜、嫌いな野菜」というアンケート結果を発表した。
たまねぎが嫌いな僕の関心は、たまねぎが嫌いな野菜の何位にランクインするか、というところにあった。
しかし、結果を見て驚いた。
たまねぎは、好きな野菜の方に男性6位、女性7位にランクインしていたのだ。
嫌いな野菜の方にはたまねぎはランクインしていない。
以前、生タマネギを丸かじりするという罰ゲームをテレビ番組でやっているのを見て、「たまねぎがまずいというのは共通認識なのだ」と思っていたので、この結果にはいささかショックを受けた。
もうたまねぎ嫌いということを自信持って言うのはやめよう。
我がふるさと、小倉の空は決まって雲に覆われている。
と言えば、言い過ぎになること間違いないが、それにしても、小倉の空は曇っていることが多い。
これは小倉が日本海に面しており、日本海側の気候の特徴が現れているからである。
決して工場地帯から排出される煤煙のせいではない。
「七色の煙」と呼ばれる煤煙が空を覆っていたのは、僕が物心のついた頃よりほんの少し前までのことである。
今日、テレビのニュースで小倉の映像が流れたのだが、やっぱり雨が降っていた。
僕の心も曇る。
「さんまのまんま」の新キャラクター「にゃんま」を、最近の放送で見なかったので、行方が気になる。
公式ウェブを見る限りはまだ現存しているようだ。
ほっとした。
テコンドーの選手が審判に攻撃を加えたのを見て、「リングの魂」の柔道の試合でよゐこの有野さんが同じく審判に攻撃を加えたのを思い出した。
変な記憶が残っているものだ。