借用
間抜けな話だが、この期に及んでようやく気付いたことがある。
「崖の上のポニョ」っていうタイトルは「坂の上の雲」のパロディーだったんだ。
誰も教えてくれなかった。
それにしても、天寿を全うする前に気付いてよかった。
これであの世で嘲笑されることはない。
間抜けな話だが、この期に及んでようやく気付いたことがある。
「崖の上のポニョ」っていうタイトルは「坂の上の雲」のパロディーだったんだ。
誰も教えてくれなかった。
それにしても、天寿を全うする前に気付いてよかった。
これであの世で嘲笑されることはない。
首が痛い。
部屋の掃除を神経質にやったら、首が痛くなった。
不憫な体である。
ここは、クルム伊達公子もブログでおすすめしているバンテリンの出番だ。
バンテリンのCMに抜擢されれば、一流のスポーツ選手または文化人の仲間入り。
あなたの心の中のバンテリン第1位は誰だろうか。
僕の場合は、我らの世代の代表である中澤佑二選手、希望を忘れてはいけないことを教えてくれた松木安太郎氏、あるいはフランソワーズ・モレシャン氏、または見城美枝子氏のいずれかだが、どなたも甲乙付けがたい。
「岸田」という姓を持つ人たちのことを結構混乱して覚えている。
記憶の棚卸しが必要だ。
僕が知っている「岸田」姓の著名人の全て(順不同)。
誰が何をやっていて、誰と誰がどういう血縁関係で、誰と結婚していて、誰が岸田戯曲賞なのか、全てを正確に把握することは、普段の生活を無目的に過ごしていては決して身につかない。
コーヒーと輸入食品の店でバーゲンをやっていたので、珍しく入ってみることにした。
コーヒー豆と、そしてやっぱりワインを買うために。
レジに8人くらい女性がいて、コーヒー豆係も3人いた。
店内が混んでいるにもかかわらず、コーヒー豆係が懇切丁寧に僕のコーヒーの好みを聞いてくれた。
レジの列にしばらくならんでいると、店員の女性がみんな、はなさんに見えてきた。
だからこういう店は苦手なんだ。
僕がよく間違えていた「かな漢字変換入力」は、「福岡」という言葉である。
「福岡」という地名を日常で頻繁に遣うことが多い僕は、「福岡」を「ふこうか」と発音してしまう癖が染みついている。
なので、「ふこうか」と入力し、「どうして「福岡」に変換できないだろう」とずいぶん悩んでいた時期があった。
最近気付いた読み間違いは「女王」。
これは「じょおう」と読むのが正しい。
僕はこれを「じょうおう」と読んでいた(こちらも辞書には載っているので、あながち間違いとは言えない)。
「つぐこじょうおう」と入力してもATOKに指摘されなかったので、全く気付かなかった。
「嬢王」は間違った読み方を助長してしまう可能性があるから、よろしくないと思う。
それでも、ドラマを見てしまう、黒川芽以が出てるから。
「まぁー、これ見てください、しっぽまでぎっしりあんこが詰まってますー」
鯛焼きを紹介するときの定番の台詞である。
これを聞いてみんなが諸手を挙げて喜ぶ、と思ったら大間違いだ。
僕は、鯛焼きの生地も楽しみたい。
なので、せめてしっぽくらいは生地の味のみを味わいたい。
やぶれまんじゅうじゃないんだから。
過去にも「たい焼き論争」とでも言うべき論争が巻き起こったようである。
相変わらず、僕が思いつくことは既に誰かが考えている。
そしていつも周囲に、「そういうこと?」と返されてしまう。
みんな、僕の考えることなんて思い当たっているのだ。
僕が思いつくという行為に、何か意味はあるのだろうか。
ところで、鯛焼きより、比較的生地が確保されているあんまんや回転焼の方が安心できる。
ここで注意。
「回転焼」と言っても、関東では全く通用しない。
お里が知れる結果になり、最悪の場合名探偵にトリックを解明される恐れもある。
なので、これから小倉から関東に来る人は「大判焼き」と自然に言えるように訓練した方がいい、それとも「今川焼き」?。
古畑任三郎でした。
日曜。
「のど自慢」で森進一が「ゆらぎ」という歌を披露していた。
何でも、「新しいポップス歌謡」とのこと。
2人の女性をバックダンサーに従えて歌うスタイル。
この歌の詞がとても面白い。
「ない」「ない」づくしで、実に諦観に満ちている。
徹底的に後ろ向きで、執着がまるで感じられず、もう、ほとんどコントみたいに思えてくる。
「今年この人が出なくて誰が出るんだ」とまで僕が豪語していた樋口さんが結局選ばれなかった今となっては、坂本冬美と並ぶ「紅白で楽しみにしているポイント」の数少ない1つになってしまった。
それにしても、これ以上白組を有利にしないために、あえてベテランや名作を外してきたのだろうか。
大物に断られたのが本当だったとしても、それでも今年も白組が有利そうに思える。
ピアニストの山下洋輔が、小学校の体育館でライブを行った。
フリージャズの第一人者。
ヨーロッパでも評価が高いピアニスト。
福岡でタモリさんを発掘したとされている。
ちなみに、僕の父親と同じ小学校出身、中学以降は全然違うけど。
そんな山下洋輔が、おそらく何のゆかりもないであろう小学校のミニバスケのコートが1面しか取れないような体育館で、パフォーマンスを披露した。
約100人くらいの観客の前で、しかも無料で誰でも鑑賞可能。
にわかには信じられないシチュエーションだが、紛れもない現実。
迷わず、行くしかない。
演奏はもちろんだけど、その状況だけで陶酔してしまった。
本当に、びっくりした。
しかし、さすが小学校の体育館。
1時間もいると、体が芯まで冷えた。
金曜、23時の実話。
「おひとりさま」を見終わってチャンネルを変えると、あれをやっている。
これ、最後に何か言うんだよな。
何て言うんだっけ。
何か言葉を言うと、全部バラバラに崩れるんだよね、確か。
あれ、何だっけな。
もう少しやれば、思い出せそうな気がする。
古い雑誌の投稿欄みたいで恐縮だが、最後、人がゴミのように死んでいく様を見て悦に入っていた寺田農が、「目が、目が…」ってなるはずだ。
それを言っちゃうと、終わっちゃうんだよね、何だっけな。
いや、1個思い出しているんだけど、これは絶対に違う。
ジャンルが全然違うし。
いやー。何だっけ。
ダメだ、どうしてもこれしか思い出さない。
仕方がない、とりあえず、唱えてみるか。
唱えたところで、滅びることはないだろう。
「パルコ!」
30分後、答え合わせ。
この年齢になって実感するのは、本当に記憶力が低下してしまった、ということ。
そして、代わりに想起される記憶は、ほぼ「当たらずとも遠からず、でもやっぱり外れている」という結果に終わる。
叔父の行動がまたまたフィーチャーされている和田アキ子が以前、ルー大柴のことを「ヘイ大久保」と言ったらしいが、そう言ってしまうのも分からなくもない。
北九州を本拠地とするJFLのチーム、ニューウェーブ北九州のJ2昇格がいよいよ目前に迫ってきた。
といっても、気が抜けない。
今のところ昇格圏内だが、下位からの追い上げも結構厳しい。
こればっかりは安心できないので、地道に応援するしかない。
ところで、ニューウェーブ北九州という名称は、他の商標に抵触するらしく、来年から新たなチーム名に変更することがすでに決まっている。
その名も、ギラヴァンツ北九州。
決まった当初には非常に違和感があったけど、何とか慣れてきて、最近ようやく何も見ずにチーム名を書けるようになった。
まあ、コンサドーレ札幌とか、カマタマーレ讃岐なんかがあるくらいなんだから、これくらいなんてことはない。
僕が小倉に住んでいて抱え込んでいた不満の1つが、東京で放送している深夜番組をリアルタイムで見られないことであった。
そういう深夜番組は大抵時差放送だったし、中には放送しないものも多くあった。
その代わりに、地元密着、ネタ流用上等なローカル番組が放送されていた。
「笑撃的電影箱」は1週遅れ、「いいとも増刊号」も1週遅れ、「パオパオチャンネル」にいたってはネットすらしていなかった。
ところで、自宅でBSデジタルを受信できるようになって1年ほど経つ。
BSを見る機会がずいぶん増えてしまい、逆に地上波をほとんど見なくなってしまった。
思うに、地上波ではなくBSデジタルがテレビ放送の主軸になれば、国内のいたる場所で同じ番組を見ることができるようになり、僕が昔感じていた情報格差も改善されるのではないかと思う。
報道は、地域報道があるので難しいかも知れない。
でも、せめてバラエティやドラマなら、主軸をそちらに移すことも可能ではないだろうか。
当面の問題はBSデジタルの普及率だけど、一説によると既に50%を超えているとも言うし、コンテンツが充実していれば移行も進むだろう。
また、全国で放送されるCMのスポンサーに地方企業がなるとも考えられないので、営業面でも障害がある。
移行が進めば、地上波は地域放送に徹することができる。
でも、そうなると地上波放送局が地域にいくつも必要なくなるだろうけど。
今の関東地方や関西地方がまさにそんな感じだ。
そうすると、ローカル番組は圧倒的に少なくなり、ローカルタレントは行き場を失い、作り手は仕事を失うなど、弊害も多そうだ。
関係ないけど、もし、福岡に独立UHF局を設立するのなら、身を奉じる覚悟はある。
時代に逆行する話なので、そんな機会は永遠にないだろうが。
振り返ると、やりたいことばかり選んできた人生である。
やりたくないことはできるだけ避けてきた。
そして、やりたくないことをやっている周囲の人々を見て、ひとり理解に苦しんでいた。
僕は、どうしようもない人間だ。
そのツケはもちろん、現在の僕に回ってきている。
やりたくもないし、やる意味も理解できない、たとえやっても誰も相手にしない、「文化的雪かき」にすらならないけど、それでもやらなくてはならない仕事ばかりが、この社会にはたくさんある。
そういう仕事を僕はこなしている。
やりたいことをやっている人が恵まれているとはもちろん実感するが、誰かがやるべきことを自発的に責任を持ってやっている人は本当にすばらしい。
今になって、自分の考えのくだらなさを十分思い知らされている。
そんなことを思いながら、映画「恋する日曜日 私。恋した」を見た。
堀北真希主演、BS-iのドラマシリーズ「恋する日曜日」の劇場版第2弾である。
映画とは決して芸術の結晶だけでない。
手がけざるを得ない状況になってやむをえず作る羽目になったものも少なからずあるのだろう。
映画とは、アートでもあり、ビジネスでもあるのだ。
昔の僕なら「だったら、こんな映画作らなければいいのに」と簡単に済ませるところだが、今は「作らなければならない事情があったんだろうな」という現実の厳しさ、哀しさの方を強く感じてしまう。
批判するのは簡単だが、少し酷である。
「どんな映画にも見所がある」とは淀川長治氏の言葉だ。
でも、こういう映画が連想のタネを与えてくれる。
この映画のタイトル、どこかで見覚えのある感じである。
そうだ。
確かテレビ東京で放送していたドラマ、その名も「恋、した。」だ。
世の中には殊勝な方がいるもので、ウェブにはそのドラマのことを記しているサイトがちゃんとある。
そのサイトによると、このドラマシリーズは1997年に放送、30分1話完結で、各話にはカクテルの名前が織り込まれたタイトルがおおよそつけられていた。
行定勲監督作品の「恋、した。-ブルームーン-」はDVD化されている。
しかしながら、他の作品は、今後もおそらくソフト化されないだろう。
内容を思い出すことは永遠にできない。
1990年代後半の文化は、何故こんなにも後世に残らないものばかりなのだろう。
擬人化ブーム。
結構だけど、公共な場でやるに際しては、きっちり議論して欲しいものだと思う。
いろいろな感性の持ち主がいるのだから。
時期限定だったからよかったけど、「ゆめもぐら」のまま、モグラのキャラクターがあれば、こんなことにもならなかったのかも知れない。
現在「擬人化」というワードで検索すると、検索結果が頭痛がするほど数多く出てくる。
タブーがありそうなジャンル(地名、祝日など)でも、タブーをうまいこと取り入れて表現しているところが、実に感心する。
そのうち、政党とか団体なんかも擬人化されるかも知れない。
安直に走らず、技巧を凝らせば、表現って自由だ。
東京にはなくて、地元にはあるもの。
大阪なら「王将」だろうか。
「王将」がないから東京進出しない、と言った芸人もいたとか。
今は、状況がかなり変化したので、言い訳にも使えなくなった。
名古屋なら「地下街」、というのが、昔聞いたネタである。
名古屋の人曰く、地下街を通ればどこへでも濡れずに行ける、東京は地下ぎゃーが少にゃーからまだまだ田舎、そもそも太閤殿下が…、なのだそうだ。
これをあまり言い過ぎると、タモリさんみたいに名古屋人に嫌われる恐れがあるので、ほどほどにしておこう。
それでは、福岡にはあるけど、東京にはないものとは。
僕が考えるに、東京には「バスセンター」がない。
厳密に言うと、バスセンターが生活にそれほど密着していない。
東京ではバスに乗る機会がほとんどない。
鉄道で最寄りの駅まで行って、そこから歩くか、せいぜい短い距離だけバスに乗ることになる。
都心だったら、タクシーを使ってしまいがち。
だから、バス路線は小さな駅に数本集まっているだけ、という場合が多い。
一方、福岡はバス文化である。
とにかく、福岡の道路はバスばかり走っている。
市内のいたる場所からでも天神行きのバスに乗れるんじゃないか、とさえ思う。
行先番号を覚える、というのが、在福バスマニアの第1歩である。
そして、街の中心にはバスセンターが鎮座している。
ただ、あまりに言うと熊本が黙っちゃいないだろうから、この辺で口を閉じることにする。
王将がなくても、地下街がなくても、バスセンターがなくても、東京が国内一の都会であることは間違いない。
ある仮想経営者の独白。
経営は順調で、毎年収益も上がっている。
血のにじむような努力した結果、社会的成功も収めている。
300人を超える従業員の面倒もオレ一人で全部みている。
聞くところによると、欧米では金持ちでも寄付をしないと周囲から尊敬を受けられないのだという。
社会的に恵まれた者は、それなりの義務を果たさなければならない。
そういうのを、「ノブレス・オブリージュ」というのだそうだ。
その点では、日本はまだまだ遅れている。
だから、欧米人にバカにされるのだ。
オレは、稼いだ金のほんの一部だけど恵まれない子供たちに寄付をしている。
オレもガキの頃は家が貧乏で、ろくな教育も受けられなかった。
毎日、やんちゃばかりしていたものだ。
そこからオレははい上がってきたわけだけど、オレが稼いできた金が少しでも社会の役に立てばいいと思う。
オレが寄付することで、少しでも社会が変わればいい。
…いや、当社が行っている節税対策については税理士の先生にお願いしてますので、何も分かりません。
教訓。
脳を鍛えて、プロフェッショナルな仕事をしよう。
プロフェッショナルな仕事をしていたら忙し過ぎて、税務申告みたいな単純作業なんかできるわけない。
おそらく、定額給付金の給付申請もしていないのだろう。
以前、エスカレータについて疑問に思っていることが2つある、と書いた。
その時は、一方については言ったけど、もう一方は触れなかった。
そして、そのままもう一方のことを忘れていた。
それを最近また思い出した。
エスカレータの手すりについて疑問だ。
あれって、本当に大丈夫なのだろうか。
エスカレータに載る際、手すりを握るように指導されている。
僕は、ほぼ必ず握るようにしている。
先日、某ターミナル駅で降りた。
駅周辺をブラタモリしてたら、有名な某雑貨量販店を見つけたので、興味本位で入ってみることにした。
店内のエスカレータに乗って、手すりを握ったその瞬間。
ぞわーっとした。
すごくざらざらしている。
手すりを見ると、手垢で黒ずんでいる。
どんな人が触ったかを想像すると、頭が痛くなった。
店の性質から推測するに、手すりをこまめに掃除しているとも思えない。
それ以来、エスカレータの手すりを握ることに躊躇してしまう。
潔癖性というよりも、あれが流行っているからだ。
飛沫感染より、手を通して経口感染する確率の方が圧倒的に高い。
せめて手垢を落とすくらいまで掃除して欲しい。
できれば、抗菌対応も。
「エスピカH」がついていると、よりよい。
しかし、「エスカレーター」なのか「エスカレータ」なのか「エスカー」なのかは以前としてよく分からない。
映画なら、どのジャンルも見る。
だけど、怖い映画だけは見ない。
理由は、怖くて見ていられないからだ。
怖い、というのは、ホラーとかいわゆる「スプラッター」とかのジャンルに限らず、登場人物の人格の恐怖も含まれる。
岸部一徳はタイガース時代に「一番怖いものは?」と聞かれて、「人の心」と冷静な答えで返した、と言われているが、その類に近いと思ってもらえればよい。
ところで、「一番好きな映画は?」という質問への答えは非常に難しい。
でも、「一番好きなトリロジー・ムービーは?」という質問には、一応答えを用意している。
ただし、めったなことでは言わない。
理解されることが少ないからだ。
僕が「一番好きな映画三部作」として思い浮かべるのは、「羊たちの沈黙」シリーズである。
僕は評論家でも映画感想家でもないので、「羊たちの沈黙」シリーズのどこがいいのか表現することはできない。
とにかく、何度も見ていることだけは確かだ。
惜しむべきは、シリーズの新作が出たので、「三部作」と呼べなくなったことだ。
当初は、「アンソニー・ホプキンスが出ていないので、新作をカウントしなければいい」と思っていた。
しかし、新作を見た結果、そちらの出来もよかったように感じたので、新作をカウントしないわけにはいかなくなった。
最近不安に思うのは、「羊たちの沈黙」が残虐な映画に含まれるのかということだ。
何度も見ているので、レンタルディスクショップには貸出履歴がおそらく複数残っていることだと思う。
貸出履歴を警察がチェックして不審者扱いされる可能性もある。
レンタルショップのDVDの並びを見る限り、より残虐な表現だけを題材にした映画はたくさんあるみたいだ(見たことがないので確信は持てない)。
なので、「羊たちの沈黙」は除外して欲しい。
映画「セブン」で、図書館での本の貸出履歴をFBIがチェックしている、という場面があった。
恐ろしい話だな、と直感的に思った。
だけど、あんなのは話を進めさせるための道具であって、決して実際に行ってはいけないことだ。
でも、少なくとも島根県警では聞き込みレベルで導入されているみたいだ。
2009年11月10日。
ついに、その時が来た。
モリシゲの訃報。
ナンシー、ようやくだ。
僕は生き延びた。
ここ十何年、誰もがモリシゲに弔辞を読まれることを望み、誰もがモリシゲへの弔辞を読むことを目指してきた。
訃報を聞き、一番言ってはいけない月並みな追悼コメントとしてすぐに思いついたのは、「巨星堕つ」。
そう思っていたら、早速、小沢昭一が使っていた。
まあ、小沢大先生だったら、しょうがないか。
実は、先週末にモリシゲのエッセイを手に入れ、ちょうど読んでいたところだった。
虫の知らせ、というか、ただの偶然のお導きだろう。
このところ忙しかったので、「徹子の部屋」のモリシゲ追悼特集を録画するのに失敗した。
BSにも間に合わず、CSでやっとフォローできた。
個人的な事情を言うと放送はせめて来週にして欲しかったが、いやはや仕事が早いのには頭が下がる。
それにしても、最近の様々な出来事のおかげで、おそらくワイドショーにとっては話題に事欠かないだろう。
どれも数字を稼げそうなネタばかりだし。
これで、年末まで安心なのだろう。
本来ならば…。
いや、「本来ならば」という言葉が適切なのかは考慮の余地がある。
「世が世なら」ぐらいの方が適切かも知れない。
事実に即して言うと、「法律が通っていれば」がいいだろう。
法律が通っていれば、僕はこの日記をバヌアツで書いているはずだった。
パスポートを更新して、チケットを取って、本日バヌアツへ日帰りバカンス旅行をする予定だった。
もちろん、バンジージャンプでお祝いするため、そしてマイルを貯めるためである。
今日は休暇だったはずなのだ。
しかし、法律は通らなかった。
お祝いしたい僕の純粋な気持ちは立法府に届かず、法案は提出を見送られ、やっとこさ提出されたが審議未了のまま廃案になり、おめでたい日は普通の日になってしまった。
誰も特に何も断ることもなく、もちろん職を辞することもなく、石川五大偉人は偉人のまま「滅私奉公」も形骸化し、話はうやむやになってしまった。
おまけに、僕はガセネタの発信源扱いされる始末だ。
法律は、個人の運命までも定めてしまうものである。
誰だよ、国民の祝賀ムードに水を差しまくったのは。
天皇に関連することで、国会議員が「やる」と言ったことについては、議員には完遂して欲しいものだと思う。
確実にできないことなら、観測気球的に言わない方がいい。
権威を失墜させるだけだ。
みなさん、10年後のことを今日から計画的にやりましょうよ。
ちなみに、10年後は火曜日です。
僕が心配しても、何もどうにもならないことがある。
いや、この世の中どうにもならないことしかない。
つまり、心配しても無駄、というやつだ。
それでも、思ってしまう。
小阪由佳は、本当に本当に大丈夫なのだろうか。
鮮明な写真がブログに載らないのは、何か理由があるのだろうか。
彼女の姿をメディアで見られなくなるのは、残念だけど仕方がない。
とにかく、彼女が不必要な迷惑を他人にかけず、また人間の尊厳を蹂躙するようなトラップに引っかかることがなければ、僕はもう何も言わない。
週末、たまに朝ドラを見る。
そして、倉科カナの圧(物理的な方ではなく、演技の方)を受け止めきれず、視聴者側のこちらは少し引いてしまう。
意気込みは分かるけど、彼女は演技が少々「がっつきすぎ」なのではないかと感じる。
きっと、演出プランがそうなっているんだろうけど。
前触れ無しにぴらーっと始まった、小倉の数少ない魅力について語るシリーズ。
このシリーズでしばらくこの日記をつないでいこうと思う。
第1回は、モノレールであった。
第2回は、城下町についてである。
小倉のいいところの1つは、城下町の名残が今でも残っていることである。
小倉の中心に構えるのは、小倉城である。
慶応年間、長州藩との戦闘において、小倉藩が自ら城に火を付けて焼失、城主はどこかへ逃げ去ってしまった。
原爆投下を免れた太平洋戦争後、「ハイテク城」として復興。
昭和の中頃には、遊園地まであったらしい。
今でもその雄姿を小倉を訪れる人の目に…、リバーウォークの後ろに隠れて見えない。
城下町ではよくあることだが、小倉の街では今でも道が細くてぐちゃぐちゃである。
車で少し走ると、一方通行に行く手を阻まれたり渋滞していたり道がどこにつながっているのか分からなかったりして、ストレスがたまって仕方がな…、街巡りの楽しさを思い出させてくれる。
そして、小倉の街には、今でも城下町らしい地名が残っており、歴史を感じることができる。
町内会の地名に特に現れており、小倉祇園太鼓のときにそれがよく分かるのだが、住居表示でもその名残を見つけることはできる。
城内を始め、大手町、魚町、京町、米町、大門、馬借、紺屋町、鍛冶町、船場町、船頭町…。
だめだ、何を言っても何かにぶつかってしまう。
小倉の数少ない魅力について語るシリーズ。
次回のネタは、早くも思いつかない。
最近よく見かけるのは、いわゆる「草食系男子」に対して「もっと肉食であれ」という思いを表明する女性芸能人の言動や女性のブログの記事である。
結構。
しかし、声高に表明していることと要求する内容が矛盾しているようにも思える。
女性からのその要求に男性が素直に従うのであれば、その男性は、もはや「肉食」の定義からはずれ、女性に従順な男性というカテゴリーに入ってしまうと思う。
お互いに主張し合い譲らなかったら、すぐに戦争勃発、2分で世界は崩壊。
動物は、同種の殺し合いはしてないかも知れないけど、いつだって生存競争をしている。
教訓。
僕ごときの人間は、高岡姉妹にはめったなことで近づかないようにすることが肝要。
水曜。
朝日新聞の朝刊1面に、
「××容疑者? 大阪で整形」(××は実名)
という見出しが掲載されていた。
僕が少し考えこんでしまったのは、疑問符の位置についてだ。
「××容疑者 大阪で整形?」
でもいいんじゃないか、と思ったのだ。
見出しの記事の本文を読むと、「容疑者とみられる男が大阪府内の病院を訪れていた」とあった。
この「みられる男」という部分を「?」に置き換えたわけだろう。
だから、疑問符の位置もここでいいのだ、と納得した。
誰も説明してくれないのだから、ひとりで納得するしかない。
木曜。
朝刊に「大阪府内の病院ではなく名古屋市内の病院でした」という訂正記事が載っていた。
そっちだったか。
実際のニュアンスとしては、
「××容疑者? 大阪?で整形?」
ぐらいが正しかったのかも。
しかし、新聞社のウェブサイトの方は、断りもなくしれーっと訂正されているみたいから、怖い。
人のことは言えないけど。
「探偵!ナイトスクープ」の総集編で、
年配の女性に「好きな食べ物は?」と尋ねると、必ず「何でも食べます」という答えが返ってくる。
という昔のネタが放送されていた。
検証VTRでは確かに「何でも食べます」と多くの女性が答えていた。
確かに。
うちのばあさんもそうだった。
何でも食べると豪語していた。
加えて、外食すると必ず「みんなと同じものを私も頼む」と言っていた。
理由は「頼んだものが一緒に出てくるから」だそうだ。
それを見て「あんたには食べたいものはないのか」と子供ながらに思ったし、マネされるのは正直うっとうしかった。
外食する際、僕はまず全身全霊をかけて店を選ぶようにしている。
具体的な基準を言葉で表すことはできないが、とにかく五感をフル活用して店のたたずまいを感じ取り、店をチョイスする。
そして、メニュー選びに時間をかけ、命をかけて献立を見極めようとする。
どんな店でも「当たりのメニュー」があると、僕は性善説的に信じているのだ。
時間がなかろうが、年配の人と食べに行こうが、おごってもらうことになっていようが、これだけは絶対にやってしまう。
「何でもいいよ」という考えの人にはひどくうっとうしがられていると思う。
五所川原の羽柴誠三秀吉氏は「女性を口説く情熱の半分を仕事に傾けよ」と言ったらしい。
僕はその情熱をメニュー選びに捧げている。
それでも、外すときは外す。
まだまだ精進が足りない。
ところで、人生において得難いのは、何を注文しても当たりの料理が提供される店である。
飲食店においてメニューと真剣勝負をしなくていい、なんて最高だし、気楽である。
しかし、そんな店にはなかなかお目にかからない。
本当はたくさんあるのかも知れないけど、僕が知っているそのような店の数は増えていかない。
1つ見つけてしまえば、その店ばかり行くことになり、他の店を見つけようとする意欲が奪われてしまうからだ。
1995年1月。
テレビ東京系列のTVQで深夜に、ドラマ版「日本沈没」の放送が突然始まった。
村野武範が出演していた昔のドラマである。
何故あのタイミングで放送が始まったのか、僕には分からない。
ただ、2回くらいで放送が打ちきられた。
理由はもちろん、神戸と淡路が震災に見舞われたからである。
ドラマの内容よりも、その符合の方に恐怖を覚えた。
それから14年。
先日、映画「日本沈没」を見た。
言わずもがな、1973年版の方である。
感想。
滝田裕介を毛利衛氏と勘違いしてしまった。
「吾輩は猫である」を約20年ぶりに読んだ。
小学生の頃読んだのは、講談社の「少年少女日本文学館」というシリーズの1つだった。
親が「買っちゃるけど、読むね?」と聞いてきたので、僕は「それなら1つ買っていただきやしょう」と軽い気持ちで答えたのだった。
そこから苦行は始まった。
「少年少女日本文学館」は24巻もあり、僕の手元に毎月配本された。
ラインナップには「坊っちゃん」とか「銀河鉄道の夜」とか「山椒魚」とかあったはずだ。
一応全部読んだけど、今となっては内容を全く覚えていない。
2年かけて配本され、ようやく24巻が終わると安堵していたら、追加で6巻発行される事になり、苦行は続いた。
その追加分に「吾輩は猫である」は上下巻で入っていた。
小学生時代にこの一連の本に苦しめられたことで嫌気がさしたのか、中学時代、僕は本を1冊しか読まなかった。
子供に名作を奨励する行為は聞こえはいいけど、まさに「猫に小判」。
「少年少女日本文学館」は今も実家にあり、前回の小倉行の際「処分してもいいか?」と親に尋ねられた。
答えはもちろん「Yes!」。
で、2009年に岩波文庫版を「再読」。
2か月かけてようやく読み終えた。
およそ子供が読む内容じゃない。
この本で小学生が読書感想文を書いていたら、僕は理解度を相当疑う。
話に救いを感じない。
このご時世、先がどうなるかは誰にも分からない。
それはよく分かっている。
もし退職金や年金を保証できない(あるいは、するつもりもない)のなら、毎月の給与で労働に似合う賃金を1度に全部もらいたい。
僕なら、それをもらった額を1度に使わず、時間平均的に使う自信がある(FUJIWARAの原西さんみたいに)。
きつきつの賃金だけ渡して、先のことは知らない、自己責任だ、時代が変わったんだ、人件費が高いから辞めてくれ、退職金のカットを認めてくれ、年金が払えないから辞退してくれ、というのはあまりにひどい。
家族を養う、あるいは将来の自分までも養うだけの賃金に似合う仕事にたどり着けるのは、今の労働システムだと、ものすごく限られているだろう。
ましてや、僕らの世代だと。
ただ、将来分の賃金をすぐに使うつもりがなくても、使えとか、貸せとか、投資しろ、とか言ってくる人たちからディフェンスするのにかなり神経を使うことだろう。
浪費癖はなくても、お金を増やしたいという欲望に負けそうになる人は多いと思う、僕を含めて。
土曜。
TBSの「キズナ食堂」で、「福岡通がこっそり通う隠れスポット20連発」という特集をやっていた。
20位からカウントダウン形式でご紹介。
違うよ、「アド街」じゃないよ。
川筋太鼓がきれいにまとまっていてよかった。
バッティングセンターの経営者、金のネックレスしてたなー。
カズ山本選手が登場するのかなと期待したけど、残念ながら出演はなかった。
2位に7,000円のフカヒレラーメンが入っていたのが、結構笑った。
「月に1、2度、松本清張先生のところに送らせていただきました」というのが、小倉っぽい笑いどころである。
1位には旦過市場で食べることができる大學堂の丼がランクインしていた。
僕は旦過市場が比較的好きである。
小倉を離れてしまい、今の居住地において旦過市場的な場所が何故ないのか、昔から住んでいる人たちはどうしてきたのか、すごく疑問である。
大學堂の丼とは、お客に丼を手渡し、お客はその丼に市場内の米屋でご飯をよそってもらい、同じく市場内のさまざまな店で好みの具材(明太子、ぬか漬け、くじら、焼きうどん、パンチパーマ、甘栗、団子、おはぎ、丸和など)を少しずつ載せてもらう、というアトラクション付きの食べ物である。
同じ形式を青森で見たことがある。
あの人混みの多い旦過市場で丼を持って歩き回る、というのは、僕にはおそらくできないだろう。
近頃は加齢のせいか、「バイキング形式の店」というだけで僕は入店を躊躇するくらいなのだ。
きっと、若い観光客が集まればいいのだろう。
ちなみに、北九州大学ではなく北九州市立大学、サバのぬか漬けではなくサバのぬかみそ炊きだと思う。
小倉の話題がテレビに出てくると、何か知らんが細かい間違いが出てくることが多い。
自分が目に付くだけか、小倉が軽視されているのか。
とにかく、ランキング番組って、上位がいつも尻つぼみになっている気がする。
PTA会長からのお話でした。
次は準備体操です。
体操の隊形に開け!
ヤァー。
十年たてば一昔に
何かと意味を探したがる
だけど
woo baby それは偶然にすぎない
woo baby ふりだしにもどれ!
ふと思い出した旋律。
上はその旋律に当てられた歌詞である。
国道同士が十字路を形成する交差点で、排気ガスで頭をやられながら自転車を走らせた時に思い出した。
三萩野じゃないよ。
交差点の脇には、教会がある。
教会の上には、ある施設があり、その施設の上には大きな看板が掲げられている。
そこには、「人生再チャレンジ修業」風な言葉が書かれている。
「再チャレンジ」。
2年くらい前に政府関係者がしきりに発言していたと記憶する。
言葉がうさんくさいのは我慢するけど、今ほとんどこの言葉を聞かれないのを思うと、せめて続けて欲しいものだなとは思う。
あの時発言していた人たちは、今は自分たちの「再チャレンジ」で頭がいっぱいである。
とても庶民の暮らしのことまで考えられないだろう。
ともかく、上記の歌詞である。
数年間潜伏し続け、突然浮上した記憶。
何の歌だったかもちろん覚えている。
First Impressionの2枚目のアルバム「supernatural」の1曲目「全ては終りから始まるのさ」である。
東京で初めて買ったアルバム。
1997年2月27日、新宿東口のタワーレコードで買ったんだと思う。
まだFlagsはなくて、武蔵野館がある付近のビルの2階か3階にタワーレコードはあったはずだ。
そのCDはまだ家にあるはずだが、iTunesに取り込んではいなかった。
せっかく記憶が再訪してくれたのだから、取り込むことにしよう。
奥からCDを引っ張り出すと、ケースのちょうつがいの部分にひびが入っていて、ふたがはずれてしまう。
そういえば、買ったときからこうなっていたのだ。
もっとも、買ったのは東京だったが、気付いたのは小倉に戻ってからなので、当時は文句を主張することができなかった。
メガネ吹きでCDを放射状に拭き(保管していたCDには大抵カビが生えている)、iTunesにCDを取り込んでいる間に、ケースを新しいものに取り替えた。
285枚目のCDである。
もっとも、iTunesにおける285枚目であり、Media Playerにも数十枚分のCDが死蔵されている。
あの扱いは、どうしたらいいものなのだろう。
早速聞いてみる。
♪
十分聞くに堪える。
僕はまだこのアルバムを嫌いになってはいないようだった。
ウェブ社会の素晴らしいところは、音沙汰のないアーティストの動向を調査できることである。
だから、いつまでもアーティストのファンでいられる。
だから、今でも僕は「8分のバニラ」の現状を知ることができ…、何にでも限界はある。
生まれて初めて「First Impression」のことをウェブで調べてみた。
このサイトが見つかった。
バックナンバーを読むと、気をそそられる作品ばかり並んでいる。
しばらくはここに挙げられたアルバムを聴いていくことにしよう。
で、長々と前置きがあったわけだが、ここからが本題。
上でリンクしたサイトから得た情報によると、僕にとって驚愕の事実が判明した。
僕が好きだったFirst Impressionのメンバーのうちの2人は、これまた僕が好きなOriginal Loveに以前所属していた。
僕はこの事実を十数年は知らず、First Impressionを聞き続けていたことになる。
道理で、First Impressionを気に入っていたわけだ。
またまた、「相変わらず囚われている」という現実に慟哭しそうになる。
ソニーも言っている。
10代で口ずさんだ歌を、
人は一生、 口ずさむ。
だから、大人たちは10代からなけなしの小遣いを搾取しようとしているのだ。
そこに意味はない。
振り出しに戻って「再チャレンジ」しても、結局10年経てばまた元通りだろう。