職責
振り返ると、やりたいことばかり選んできた人生である。
やりたくないことはできるだけ避けてきた。
そして、やりたくないことをやっている周囲の人々を見て、ひとり理解に苦しんでいた。
僕は、どうしようもない人間だ。
そのツケはもちろん、現在の僕に回ってきている。
やりたくもないし、やる意味も理解できない、たとえやっても誰も相手にしない、「文化的雪かき」にすらならないけど、それでもやらなくてはならない仕事ばかりが、この社会にはたくさんある。
そういう仕事を僕はこなしている。
やりたいことをやっている人が恵まれているとはもちろん実感するが、誰かがやるべきことを自発的に責任を持ってやっている人は本当にすばらしい。
今になって、自分の考えのくだらなさを十分思い知らされている。
そんなことを思いながら、映画「恋する日曜日 私。恋した」を見た。
堀北真希主演、BS-iのドラマシリーズ「恋する日曜日」の劇場版第2弾である。
映画とは決して芸術の結晶だけでない。
手がけざるを得ない状況になってやむをえず作る羽目になったものも少なからずあるのだろう。
映画とは、アートでもあり、ビジネスでもあるのだ。
昔の僕なら「だったら、こんな映画作らなければいいのに」と簡単に済ませるところだが、今は「作らなければならない事情があったんだろうな」という現実の厳しさ、哀しさの方を強く感じてしまう。
批判するのは簡単だが、少し酷である。
「どんな映画にも見所がある」とは淀川長治氏の言葉だ。
でも、こういう映画が連想のタネを与えてくれる。
この映画のタイトル、どこかで見覚えのある感じである。
そうだ。
確かテレビ東京で放送していたドラマ、その名も「恋、した。」だ。
世の中には殊勝な方がいるもので、ウェブにはそのドラマのことを記しているサイトがちゃんとある。
そのサイトによると、このドラマシリーズは1997年に放送、30分1話完結で、各話にはカクテルの名前が織り込まれたタイトルがおおよそつけられていた。
行定勲監督作品の「恋、した。-ブルームーン-」はDVD化されている。
しかしながら、他の作品は、今後もおそらくソフト化されないだろう。
内容を思い出すことは永遠にできない。
1990年代後半の文化は、何故こんなにも後世に残らないものばかりなのだろう。