2025-07-20 Sun.
画描
2025-07-20
眠れない。
以前は、寝つきが悪かった。
今は、比較的寝つきがいい。
夜、目をつぶれば、すぐに眠りに落ちる。
その代わりに、短い時間で目が覚める。
夜中に目覚めない日は、めったにない。
おおよそ2時ごろには目が覚める。
下手したら、「よく寝た」と思って時計を見るとまだ0時前で、嫌になる。
目が覚めると、しばらく眠れない。
感覚だと、1時間から2時間ほどは眠れない。
起きて本を読むのもありだが、起き上がるのは面倒でやらない。
寝床で音楽やラジオを聴くこともあるが、頭が余計にさえてきて、眠りが遠ざかる。
朝まで眠れないということはなく、どこかの時点では再び眠っている。
断続的な睡眠となり、明け方には嫌な夢も見る。
夢のほとんどは、居場所がないか、罵倒しているかだ。
眠れなくて困っている、と悩むほどでもない。
昼間に眠気が訪れることについては、対処が必要となる。
昼食後は目を閉じるのが習慣となっていて、いつも15分くらい眠っている。
業務中でも資料を読むと眠くなってしまうことがあり、その場合は5分ほど記憶がない時間がある。
眠ってしまえば頭がすっきりしているので、業務を進めるにはむしろ眠った方がいい。
このところ深夜の中途覚醒が続いていて、しかも症状がよくなく、3時間か4時間くらい眠れない時もある。
そのせいだろうか、頭が痛くなることもあり、仕事にも支障が出ている。
自分の仕事では、論理と計算量ばかりを考える。
眠いと、考えがうまく進まない。
高校生のころ、「FNSの日」の放送の最中に業者テストがあって、深夜まで見ていた次の日の数学の試験結果は無残なものだった。
そんなことを、今この歳になっても続けている。
あまりに頭が痛く、仕事を終わらせて、午後に休みをもらうことにした。
久しぶりの半日休だ。
以前より、休暇の取り方について研究を進めていて、理想的な「週末の過ごし方」「1週間ほどの休暇の過ごし方」「平日に休暇を取った場合の過ごし方」などをまとめつつある。
ただ、半日休についてはまだ考えが進んでいない。
ひとまず、百貨店に行った。
以前から、靴と財布の買い替えを考えている。
靴は、職場にも履いていけるカジュアルなレザーシューズを探している。
デザインと機能性と耐久性を併せ持ったものが見つからず、今回もダメだった。
財布は、具体的に決めておらず、とりあえず「現代的なシステムに改めたい」という考えがある。
「現代的なシステム」とは、要するに「現金支払いほとんどしない状況」に対応する、ということだ。
今持っている二つ折りの財布は、とても気に入っているのだが、小銭入れがあってかさばる。
今月は、小銭を使った支払いは2回しかしていない。
小銭入れの存在でズボンのポケットを膨らませる状況が許せなくなった。
よって、コインケースは別持ちにして、紙幣とカードのみが収納できるタイプの財布を検討している。
ついでに、モバイルSuicaにしてパスケースを使う機会がなくなったので、パスケースの中にあるカード類の収納も考え直したい。
ただ、今の状況でもそれほど困ってはいないので、時間をかけて気に入った財布を探している。
鞄の中に財布を入れるシステムでもいいのだが、僕は忘れものが多いので、財布は身に着けて持ち歩くようにしておきたい。
長財布はジャケットを着ていないといけない。
小銭入れを廃した紙幣とカード入れのみの財布、いわゆる「純札」の二つ折り財布は、その種類が少ない。
そのいくつかの中から気に入るものはまだ見つからず、こちらも今回は見つからなかった。
百貨店の店員と相談するけれど、それらしいものの提案は少なかった。
後は、旅行用のトートバッグが欲しくて、これも少し探した。
ネクタイや靴下の売り場を見て、補充してもよさそうなものを物色した。
結局、何も買わなかった。
そのあと、恵比寿に移動。
少し時間があったので、アトレの中をさまよう。
ここにある本屋は、なんというか「どっしりとした」品ぞろえで、気になる本がいくつかあった。
でも買わない。
恵比寿ガーデンプレイスに向かう。
学生時代、恵比寿、原宿、六本木、赤坂には、縁が一切ない、と決め込んでいた。
それでも恵比寿には映画を見に行っていたが、当然だけどいい思い出などない。
ずっと疑問なのだが、人は「いい思い出」など持っているものなのだろうか。
僕の場合、その時点でも「楽しい」と思うことがほとんどない。
もし仮にあったとしても、それが無残な現在とつながっているのだから、「いい思い出」になるはずもない。
「恵比寿」で自分のログに検索をかけると、就職活動で恵比寿に何度か来ていて、ガーデンプレイスにはSAPジャパンの会社説明会で来ていた。
全く覚えていないが、何を思ったかの想像はできる。
きっと、オラクルやHPに行った時に思ったことと同じだろう。
YEBISU GARDEN CINEMAを訪れる。
前に来たのがいつか覚えていない。
「ルル・オン・ザ・ブリッジ」を見たのが確か恵比寿ガーデンシネマの最初で、記録によると1999年1月21日である。
2011年に恵比寿ガーデンシネマが閉館した時は、「単館系」の終わり、みたいな話題になった。
我らの世代が経験してきたものは、すべて勝手に終わらされる。
それで、いったんK-POPの劇場に代わり、結局映画館に戻った。
YEBISU GARDEN CINEMAになってからは初めて、だと思う。
建物の中はそれほど変わっていないと思う。
チケットは券売機で買うようになっていて、クレジットカードでタッチ決済した。
この日は木曜で、実はセゾンカードの優待を使ってTOHOシネマズで安く映画を見ようともくろんでいた。
朝の通勤時に調べたところ、優待にはアプリが必要で、アプリのダウンロードはできてもユーザIDがわからずログインできないため、断念した。
だったら、普段は行かない恵比寿で見ることにしよう、と投げやり気味に決めた。
今月はアマゾンのプライムデーで「ゴルゴ13」を107冊買ってしまっており、これで娯楽費の予算は尽きた。
10分前に開場し、観客は10名程度。
映画館は平日の昼に営業しておいても儲かるものだろうか、と25年前から疑問。
映画「ルノワール」。
やはり調子が悪かったようで、河合優実が出ていたシーンはほとんど記憶がない。
西原亜希が出てきたことに、ちょっと驚いた。
見ていて感じたのは、映画「お引越し」との対比である。
鑑賞後に知ったことだが、監督自身の話でも「お引越し」の意識はあったとのこと。
なので、僕が「お引越し」との比較しながら見進めていたのは、必然であった。
それで思ったのは、この映画には子供同士のコミュニティが出てこない。
1人の友達とのエピソードはあるが、子供の社会については描かれなかったように思う。
そして、もう1つ思ったのは、「大人はこんなにも確定しているものか」ということ。
「お引越し」に出てきた大人は、迷いながら、自信なく日々を過ごしていたように思った。
簡単にわかることがあっても、それを選べないのが大人のようであった。
一方で、「ルノワール」の大人は、実現はできていないものの、したいことを確定できているように見えた。
大人はそんなにも「決まっている」ものなのだろうか。
1999年に「ルル・オン・ザ・ブリッジ」を見た後のことは少し記憶にある。
ログによると、見たのは夜の回だ。
晴れた夜の寒空の下、映画のことを思い返し、生きるとは、全然たどり着かないし、あきらめばかりなのだ、と思った。
そのあと、明治通り沿いの店でラーメンを食べ、渋谷まで歩いたようだが、全く覚えていない。
2025年に「ルノワール」を見た後、ガーデンプレイスの店を見ながら考える。
自分は、映画で見たように「確定」させているだろうか。
決まった日常を送るようにはしていて、その程度は一般よりも強いと思う。
それは、目的が見えているからではなく、むやみに手を広げることをせず、面倒なことに巻き込まれたくないからである。
明治屋で買い物をしないのは、明治屋にとらわれたくないからである。
したいことがない一方で、厄介なことにしたくないことはたくさんある。
時間だけはあるので、それをつまらないことで埋められないように、決まったことをして守っているに過ぎない。
思い返すと「賭ける」ということをしない。
得たいものを決め、そのために行動する、という感覚になったことがほとんどない。
安全を選んでいるつもりもなく、積極的欲望がなく、消極的欲望だけが無尽蔵にある結果、こうなっている。
今、英語と数学の学習を少しずつ進めているが、それは疑いようもないほどに役に立つスキルであり、労力を費やしても見返りがあると決まっているからである。
そもそも「労力」とも考えておらず、読みたくない英語の文章は放棄するし、数学の教科書も理解できなくていくつも取り換えている。
何かを得るために労力をつぎ込んだ、みたいなこと、したことあっただろうか。
上京した時くらいはそうしたかもしれないが、反動が大きかった。
自分をストレートにさらけ出して、「これでやっていけるか」を尋ねまわり、たまたま受け入れる場所があっただけのように思う。
運がよくて、社会に包容力があるだけなのだ。
ここにいるのは、苦しい。
でも、どこにいても、同じように苦しい。
苦しまずに終わることができるのなら、ぜひどうぞ。
「気もちがわかる」というシーンで、笑ってしまった。
この映画を見てきた者としては、この主人公の気もちが他人にわかるはずもないだろう、と思う。
それが、この映画のテーマではないだろうか。
このシーンを「救い」ととらえる鑑賞者がもしいれば、こちらは素直に身を引く。
僕も、お悔みくらいは口にする。
でも、その想像に実感はなく、ただの礼儀としてしかわきまえていない。
実際、相手から「実は、悲しくない」という言葉を聴けば、「そういうパターンもありますよね」とむしろ安堵する。
共感なんて、僕に用意されているのだろうか。
「ルノワール」の終わりを見ると、主人公にもこの先に居場所が用意されているのだろう。
「お引越し」の終わり方が、自分の好みだ。
夕方になり、焼き鳥屋に寄って2杯飲み、帰宅した。
この日はよく眠れて、翌朝には頭痛が消えていた。
また、同じように暮らす。
2025-07-13 Sun.
不乗
2025-07-13
暑い。
たぶん、暑い。
日中はオフィスにいるので実感に乏しいが、外はきっと暑い。
帰宅する夜になっても外の気温は下がっておらず、空気は生ぬるいというより暑さを含んでいる。
明日もきっと暑いのだろう、と絶望する。
TVは朝から視聴者に対して、我慢せずに冷房を使うよう呼び掛けている。
死んだら元も子もないので、室温を下げるために冷房を使った方がいい。
高齢者の場合、冷房のつもりが暖房をつけていて、かえって具合を悪くすることもあるようだが、それでも呼びかけた方がいい。
僕らは、松村さんやパンヤオ伊藤高史氏が砂漠で遭難している映像の直撃を受けた世代である。
一方で、暑さの根本原因の1つは、きっと化石燃料の使用であろう。
未来のために、あわせて節電も徹底的に呼び掛けた方がいい。
でも、冷房を使えと言って、節電も説くのは、メッセージが実に弱い。
そもそも、TVを見ていることそのものが、電気の無駄遣いと言えるかもしれない。
便利な生活を希求していた自分ではあるが、便利さの中で「省エネルギー」も求めていた。
労力を少なくして、システムをシンプルにすることで、便利さを享受してきたつもりだ。
物的資源を電子情報に転換して保有し、手続きやプロセスも電送を心がけている。
自分の労力は減っているし、外部と没交渉になるのも「省エネルギー」だ。
快適よりも、適応を目指したい。
日中に出かけることは少ないが、太陽の下に出るとやはり暑い。
ただ長い時間室外にいることはなく、暑さになじむ時間を積極的に作らないとバテそうな気がして、日の当たる場所も歩く。
ところで、新宿西口の工事が進んでいる。
少し後になれば、車道が変更され、南北方向に移動することができなくなる。
その結果、歩行者が車道を渡ることがなく東西方向に移動できるようになる。
どういうユースケースで便利になるのか思い当たらないが、そうなればきっと使うようになるのだろう。
快適より、適応。
モザイク通りがなくなってしばらく経つ。
京王百貨店の前を迂回しているが、この時期は直射日光がつらい。
その結果、「地下のモザイク通り」京王のれん街を通るようにしている。
半地下に下がるのが惜しく、普段は通らないが、暑さの前には信念も曲げる。
気分が乗るようであれば、花園万頭でも手に提げる。
2025-07-05 Sat.
風眠
2025-07-05
2025年の半分を過ぎた。
年末で1年を振り返ると年初のことを忘れてしまう。
ここで、この半年の自分について思い返してみよう。
まずは、珍しく仕事について。
この期間、特に記憶に残る仕事はしなかった。
周囲からは、シンプルに「ごくつぶし」と思われているだろう。
1日数回ポカミスをし、1か月に1度程度どでかい間違いをし謝罪に回った。
まだロジックを間違うようなことはないが、パラメータを間違ってしまうことが日常的に頻発している。
だから、周囲から見ると考えられないほどに単純なミスで、注意不足、確認が足りないのでは、と思われているだろう。
実は自分の手からリリースする前に見直しを重ね、発覚した分の100倍くらいの量の自分のミスに気付き修正しているのだ。
意図通りストレートに正しくプログラミングできることなど皆無で、うんざりする。
その一方で、リリース後に発覚した自分のミスの量の10倍くらい、レビュー対象のロジックミスや考慮不足を指摘はしているとは思う。
「そんなの知りませんでした」「よく気づきましたね」と称賛されるが、クレジットが入ることはない。
仕事をしていて、眠気がまとわりつき、それに抵抗するのが難しくなった。
普段寝不足というわけでもなく、毎日22時就寝、6時過ぎ起床の、8時間睡眠なのに。
緊張感を求められる仕事から外されるばかりだからなのかもしれない。
少し難しい専門書を読むと、2分で眠くなる。
あと、周囲からの距離を、これまで以上に感じるようになった。
年齢が離れた若い人たちが多く、彼らだけで仕事が進んでいる。
同年代の人たちはビジネスに長けているようで、何を話しているのかさっぱりわからない。
どちらからも「あいつ、あの歳で、まだ這いつくばってやってるのかよ」と思われていることだろう。
実際、自分の後ろにはサーバしかない。
人からは誰かが見た夢のように思えるビジネス要件を聞かされ、コンピュータからは穴ばかり指摘されている。
どちらの話も聴けるだけ、まだましだろう。
データベースの読み解き、というのが自分のコアコンピタンスである。
これが不自由になったら、仕事について考え直さなければならない。
やろうと思っていてやらなかったことを書けばキリがないので、やったことを挙げる。
松坂和夫「集合・位相入門」を2年前から読んでいるが、ようやく1章と2章について理解ができた。
決して難しい本ではなく、内容がわからないのは自分の頭が悪いから、もっと言うと謙虚になっていないから、ということが非聡明な自分が読んでいても分かる名著である。
まあこれからも少しずつでもいいから、進めていこうと思う。
あと、ファンクター、アプリカティブファンクター、モナドについて、何をしているのかがようやくようやく分かった。
でも、ファンクターと圏論における関手との関係は、全く不明。
年初から60冊程度、本を読んだ。
新書を切れ目なく読み続けるようにした。
書籍のウィッシュリストが2,000冊になったまでは数えていたが、今はもう見当もつかない。
ウィッシュリストとは自分が所有するライブラリであり、引き出すのに金を払う必要があるだけだ、と考えるようにした。
最近では、自分のウィッシュリストに検索をかけ、読む本を発見している始末。
Kindleのプロモーションメールを受信するようになってから、セールのKindle本を先行して買うようになった。
電子書籍の「積ん読」は恐ろしく、年初以降購入し1度も開いていない電子書籍がすでに20冊くらいライブラリにある。
僕の存在は悪癖の塊と言える。
その悪癖の1つが「好きなことをする時間を惜しむ」である。
時間があるときに、ゲームをしたり、ビデオを見たり、プログラミングをしたりして、自分の好きなことをすればいいものの、それに没入する時間がもったいない、という気持ちになり、結局事務作業をしてしまう。
これが人生をものすごくつまらないものにしている、という自覚がある。
かろうじて読書は、始めてもすぐに飽きることがわかっているので、その抵抗はない。
それでも、以前読んだ本をもう1度開く、という行為は時間の無駄であるような気がして、読んでいない山にある本を開いてしまう。
本は1度しか目を通さないので、読んだ本の内容が定着しない。
年初は夢中になっていた「ピクミン4」も、この3か月くらいは放置していて、クリアできていない。
映画も、さほど見なかった。
イッセー尾形主演「太陽」を再生したが、気乗りしなくて、途中でやめたままだ。
「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」も、よくわからなくなって、止まっている。
「藤子・F・不二雄SF短編」のドラマも、半分の消化。
日々のTVerをこなすだけで精いっぱい、でも何を視聴してきたかは、よく覚えていない。
散歩をしていて、ここ1か月は車の運転の練習もしている。
気が向いたら、ストレッチをするようになった。
音楽を流して、何もしない時間を作るようにした。
Jenkaの本名と思われる情報を、偶然に得た。
dマガジンを開く時間を設けている。
新聞のデジタル会員になった。
きっかけは、新聞配達のシステムが崩壊しかかっているとともに、新聞を印刷する輪転機の生産もこの先怪しい、という記事を読み、もはや新聞社は新聞を印刷・配達することをやめてしまいたいのでは、と思ったことだ。
デジタルの新聞にはいくつか問題はある。
その1つが紙面ビューアーのすべての記事がテキスト表示できないことだ。
意図的にそうしているものもあるのだろうが、社会面の記事のほとんどがテキスト表示できるのに、ある記事だけはテキスト表示ができない、ということがあった。
紙面ではなくテキストだけで読んでいるスタイルであれば、きっと読み飛ばしていただろう。
また、デジタルではシリーズ記事がまとめられているのだが、一部の記事が抜け漏れていたこともあった。
どちらも技術的な問題で、意図とは異なる挙動をしているのではないか、と推察する。
もちろん、いいところもあって、過去の関連記事にリンクが張られていることが、最も便利である。
これだけでも、固定された紙面記事に対する圧倒的優位性があると言える。
今は配達とデジタルを両方利用しているが、いずれ新聞の配達を解約するかもしれない。
毎朝、配達された新聞のTV欄を開いて「徹子の部屋」のゲストを確認する習慣があるが、それもウェブに移行すればいいのだろう。
新聞の配達をやめると困るだろうな、と予想されることは、爪きりの時、手足の下に敷くチラシをどう入手するか、ぐらいである。
近所のスーパーでチラシをピックアップするのが習慣になるかもしれない。
それにしても、デジタルだと、紙面の広告の存在をまるで忘れてしまう。
それでデジタルだけの方が購読料が安いのだから、もしや新聞は広告モデルから脱することができるのか、と思う。
金のことだが、収入はありがたいことに維持できている。
公的負担の額は、まあこんなものかと思う。
住民税は、ふるさと納税が意図通りに反映された結果となった。
住民税は前年の収入で徴収されるが、僕は収入があった時点で一定の割合n%を引き当て、住民税の徴収に備えている。
そのn%はおおよそ適切なのだが、ここ最近は年収のn+0.2%程度が住民税の徴収額となっている。
+0.2%なら調整の範囲内と言えるが、額にすると少し扱いづらいくらいの大きさになる。
例えば、年収2M円なら、0.2%は4K円である。
この帳尻を合わせることに嫌気がさす。
健康保険料の額が疑いたくなるくらい高くて、システムが機能しているのか不安になる。
父親は現在3か所の病院にかかっているらしく、その話を聞いた僕が電話で「だから、俺の健康保険料が高いんだ、仕送りしていると受け止めてくれ」と言うと、「お前、俺が払ってる後期高齢者健康保険料、いくらか教えるぞ」と返された。
先日のねんきん定期便が知らせてくれた想定年金額から、父親から知らされた後期高齢者健康保険料を支払うかと思うと、たとえ健康でもペナルティを受けるようで、暗黒の老後である。
いずれにせよ、健康保険料の額に意識を向けている父親の健康を祈念している。
光熱費などは政府自治体からの支援もあって、やや抑え気味になっている。
それでも、数年前と比べれば、費用は多くかかっている。
食費が全く足りない。
イレギュラーに購入した酒とか大きめの外食は別の費目で処理しているにもかかわらず、全然足りない。
以前からずっとハンバーガー、サンドイッチ、牛丼、カレーライス、うどん、そばで昼食を回している。
それに加え、週に1度は昼食を抜くか、炎天下の屋上でやきそばパンを食べている。
ここからレベルを落とすとすると、まいばすけっとで199円のざるそばを買うことになるか。
覚えた贅沢はやめられないもので、7月以降、これまでの蓄えを放出し、食費を補填することにした。
これで10年前に比べ、食費の予算は2割増だ。
店の値段を見ると、「100円だったけど120円にしました」とか、「ラーメン700円だったのを900円にします」とかで、値上げ幅は額としては小さいものの割合で考えると値上げ幅は大きい。
その合計が食費なのだから、2割増にもなるわけだ。
放出する蓄えとはCOVID-19の時に生じたもので、外出できず、外食の代わりに自炊をしていたことで生まれた余剰だ。
「苦境に立つ飲食店を応援し、寄付しよう、後で使えるチケットを買おう」などという情緒にほだされず、その代わりに余剰を市場に委ねた。
それを引き戻すことにする。
助けを期待できるほどの市民的ふるまいを僕はしていないし、こんな身勝手な僕は周囲に迷惑をかけてはならない。
自分のことはできるだけ自分で何とかしなければならない。
もちろん、自分が苦境にあることはオープンにする。
人の目がある場所にとどまり続けることは、大きな効用がある。
当然、もらえる金はもらっておく。
前述のKindleの件もあって、書籍代や娯楽費を多く使った。
そのほかの費目も、毎月の予算で回しているものは使い切ったし、年間の予算で回しているものは半分強を費やした。
大型の出費として、衣類乾燥機とブルーレイレコーダーと電気ケトルとトースターを買った。
それ以外のほとんどは消費財で、手元に残らないものばかり買うので、自宅の部屋を見渡しても金を使った実感がない。
ようやく、Tシャツに4K円くらい払えるようになった。
最後に、資産運用。
投入は、年初の計画に従って行動するのみで、まったくおもしろくない。
個人向け国債の購入を、10年変動から5年固定にスイッチしたくらいだ。
運用については、評価額が20%目減りした。
20%という表記にもインパクトがあるが、額にするともっとひどい印象で、評価損が未経験の桁に達した。
仕事中の眠気は、もしかしたら阿鼻叫喚で卒倒していたのかもしれない。
某インタビューマンが「資産が200M円あったが、そのうち80M円失った」と明かし「でもそんなに気にならないものだ」と達観していたが、臆病な僕はやはり気が動転する。
むしろ、目に見えている額は「もう減った額」なのだから、「どうしよう」と不安になることすら間違っていて、ただ受け入れるしかないのだ、という虚無感だけがあった。
喉元にナイフを突きつけられている、のではなく、もう刺したよ、というわけだ。
あるいは、砂に書いたLove Letter 風にさそわれて 波と共にとけてくよ 足跡だけ残して、というやつだ。
…というのが、4月半ばに記録した谷底の評価額の話だ。
6月末時点、自分のベンチマークとしている指標は+10%の成績となっている。
これはドル建てであり、年初から円高が進んでいるため、円建てだとまた事情が異なる。
この2か月で25%以上の運用成績を上げたのだ、これって投資の天才じゃない?、と結果を切り取るパターンもあるのだろう。
いつも思うが、土俵を割り込まなければいい、ゴールラインまで押し込まれなければいい、というやつで、市場から退場を余儀なくされる事態から遠く離れておくことが至上命題だ。
そのためには、返済期限や執行条件のある金を借りない、大型の出費を事前に予想し備えておく、それでもカバーできない突発的なことはあるので保険を掛けておく、ぐらいはしておかなければならない。
あのインタビューマンや、飲料の名称で呼ばれていた事業家は、この先も僕の手の届かない暮らしを送るのだろうし、僕とは異なり素敵な世界にいる。
ただ、彼らの行く末についての情報は途切れさせたくない、と思う。
それにより自分の行く末に待ち受けている不確実性を減らすことになる。
以上で、半年の振り返りは終わり。
ところで、自分の持ち時間を可視化してスタンプカードにしているのだが、その半分がスタンプで埋まってしまった。
これまで歩いてきた道のあちらこちらに不発弾を残してきた実感があり、その存在におびえる。
一方で、運に恵まれていたことは間違いがなく、面倒なことを押し付け放置してきても、ここまでやってこられた。
これまでに得たものは乏しく、これから手に入るものはもう望めないだろう。
何かを持っているふりをし、それを駆使して切り抜けることを考える。
これを書いている最中に、ランダムリプレイがガーデンズの「Future's Memories」を選んだのだが、それが実に自分の人生を象徴しているように思えてならない。
ガーデンズのトリビュートアルバム、などあれば、買うのだけれど。