風眠
2025年の半分を過ぎた。
年末で1年を振り返ると年初のことを忘れてしまう。
ここで、この半年の自分について思い返してみよう。
まずは、珍しく仕事について。
この期間、特に記憶に残る仕事はしなかった。
周囲からは、シンプルに「ごくつぶし」と思われているだろう。
1日数回ポカミスをし、1か月に1度程度どでかい間違いをし謝罪に回った。
まだロジックを間違うようなことはないが、パラメータを間違ってしまうことが日常的に頻発している。
だから、周囲から見ると考えられないほどに単純なミスで、注意不足、確認が足りないのでは、と思われているだろう。
実は自分の手からリリースする前に見直しを重ね、発覚した分の100倍くらいの量の自分のミスに気付き修正しているのだ。
意図通りストレートに正しくプログラミングできることなど皆無で、うんざりする。
その一方で、リリース後に発覚した自分のミスの量の10倍くらい、レビュー対象のロジックミスや考慮不足を指摘はしているとは思う。
「そんなの知りませんでした」「よく気づきましたね」と称賛されるが、クレジットが入ることはない。
仕事をしていて、眠気がまとわりつき、それに抵抗するのが難しくなった。
普段寝不足というわけでもなく、毎日22時就寝、6時過ぎ起床の、8時間睡眠なのに。
緊張感を求められる仕事から外されるばかりだからなのかもしれない。
少し難しい専門書を読むと、2分で眠くなる。
あと、周囲からの距離を、これまで以上に感じるようになった。
年齢が離れた若い人たちが多く、彼らだけで仕事が進んでいる。
同年代の人たちはビジネスに長けているようで、何を話しているのかさっぱりわからない。
どちらからも「あいつ、あの歳で、まだ這いつくばってやってるのかよ」と思われていることだろう。
実際、自分の後ろにはサーバしかない。
人からは誰かが見た夢のように思えるビジネス要件を聞かされ、コンピュータからは穴ばかり指摘されている。
どちらの話も聴けるだけ、まだましだろう。
データベースの読み解き、というのが自分のコアコンピタンスである。
これが不自由になったら、仕事について考え直さなければならない。
やろうと思っていてやらなかったことを書けばキリがないので、やったことを挙げる。
松坂和夫「集合・位相入門」を2年前から読んでいるが、ようやく1章と2章について理解ができた。
決して難しい本ではなく、内容がわからないのは自分の頭が悪いから、もっと言うと謙虚になっていないから、ということが非聡明な自分が読んでいても分かる名著である。
まあこれからも少しずつでもいいから、進めていこうと思う。
あと、ファンクター、アプリカティブファンクター、モナドについて、何をしているのかがようやくようやく分かった。
でも、ファンクターと圏論における関手との関係は、全く不明。
年初から60冊程度、本を読んだ。
新書を切れ目なく読み続けるようにした。
書籍のウィッシュリストが2,000冊になったまでは数えていたが、今はもう見当もつかない。
ウィッシュリストとは自分が所有するライブラリであり、引き出すのに金を払う必要があるだけだ、と考えるようにした。
最近では、自分のウィッシュリストに検索をかけ、読む本を発見している始末。
Kindleのプロモーションメールを受信するようになってから、セールのKindle本を先行して買うようになった。
電子書籍の「積ん読」は恐ろしく、年初以降購入し1度も開いていない電子書籍がすでに20冊くらいライブラリにある。
僕の存在は悪癖の塊と言える。
その悪癖の1つが「好きなことをする時間を惜しむ」である。
時間があるときに、ゲームをしたり、ビデオを見たり、プログラミングをしたりして、自分の好きなことをすればいいものの、それに没入する時間がもったいない、という気持ちになり、結局事務作業をしてしまう。
これが人生をものすごくつまらないものにしている、という自覚がある。
かろうじて読書は、始めてもすぐに飽きることがわかっているので、その抵抗はない。
それでも、以前読んだ本をもう1度開く、という行為は時間の無駄であるような気がして、読んでいない山にある本を開いてしまう。
本は1度しか目を通さないので、読んだ本の内容が定着しない。
年初は夢中になっていた「ピクミン4」も、この3か月くらいは放置していて、クリアできていない。
映画も、さほど見なかった。
イッセー尾形主演「太陽」を再生したが、気乗りしなくて、途中でやめたままだ。
「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」も、よくわからなくなって、止まっている。
「藤子・F・不二雄SF短編」のドラマも、半分の消化。
日々のTVerをこなすだけで精いっぱい、でも何を視聴してきたかは、よく覚えていない。
散歩をしていて、ここ1か月は車の運転の練習もしている。
気が向いたら、ストレッチをするようになった。
音楽を流して、何もしない時間を作るようにした。
Jenkaの本名と思われる情報を、偶然に得た。
dマガジンを開く時間を設けている。
新聞のデジタル会員になった。
きっかけは、新聞配達のシステムが崩壊しかかっているとともに、新聞を印刷する輪転機の生産もこの先怪しい、という記事を読み、もはや新聞社は新聞を印刷・配達することをやめてしまいたいのでは、と思ったことだ。
デジタルの新聞にはいくつか問題はある。
その1つが紙面ビューアーのすべての記事がテキスト表示できないことだ。
意図的にそうしているものもあるのだろうが、社会面の記事のほとんどがテキスト表示できるのに、ある記事だけはテキスト表示ができない、ということがあった。
紙面ではなくテキストだけで読んでいるスタイルであれば、きっと読み飛ばしていただろう。
また、デジタルではシリーズ記事がまとめられているのだが、一部の記事が抜け漏れていたこともあった。
どちらも技術的な問題で、意図とは異なる挙動をしているのではないか、と推察する。
もちろん、いいところもあって、過去の関連記事にリンクが張られていることが、最も便利である。
これだけでも、固定された紙面記事に対する圧倒的優位性があると言える。
今は配達とデジタルを両方利用しているが、いずれ新聞の配達を解約するかもしれない。
毎朝、配達された新聞のTV欄を開いて「徹子の部屋」のゲストを確認する習慣があるが、それもウェブに移行すればいいのだろう。
新聞の配達をやめると困るだろうな、と予想されることは、爪きりの時、手足の下に敷くチラシをどう入手するか、ぐらいである。
近所のスーパーでチラシをピックアップするのが習慣になるかもしれない。
それにしても、デジタルだと、紙面の広告の存在をまるで忘れてしまう。
それでデジタルだけの方が購読料が安いのだから、もしや新聞は広告モデルから脱することができるのか、と思う。
金のことだが、収入はありがたいことに維持できている。
公的負担の額は、まあこんなものかと思う。
住民税は、ふるさと納税が意図通りに反映された結果となった。
住民税は前年の収入で徴収されるが、僕は収入があった時点で一定の割合n%を引き当て、住民税の徴収に備えている。
そのn%はおおよそ適切なのだが、ここ最近は年収のn+0.2%程度が住民税の徴収額となっている。
+0.2%なら調整の範囲内と言えるが、額にすると少し扱いづらいくらいの大きさになる。
例えば、年収2M円なら、0.2%は4K円である。
この帳尻を合わせることに嫌気がさす。
健康保険料の額が疑いたくなるくらい高くて、システムが機能しているのか不安になる。
父親は現在3か所の病院にかかっているらしく、その話を聞いた僕が電話で「だから、俺の健康保険料が高いんだ、仕送りしていると受け止めてくれ」と言うと、「お前、俺が払ってる後期高齢者健康保険料、いくらか教えるぞ」と返された。
先日のねんきん定期便が知らせてくれた想定年金額から、父親から知らされた後期高齢者健康保険料を支払うかと思うと、たとえ健康でもペナルティを受けるようで、暗黒の老後である。
いずれにせよ、健康保険料の額に意識を向けている父親の健康を祈念している。
光熱費などは政府自治体からの支援もあって、やや抑え気味になっている。
それでも、数年前と比べれば、費用は多くかかっている。
食費が全く足りない。
イレギュラーに購入した酒とか大きめの外食は別の費目で処理しているにもかかわらず、全然足りない。
以前からずっとハンバーガー、サンドイッチ、牛丼、カレーライス、うどん、そばで昼食を回している。
それに加え、週に1度は昼食を抜くか、炎天下の屋上でやきそばパンを食べている。
ここからレベルを落とすとすると、まいばすけっとで199円のざるそばを買うことになるか。
覚えた贅沢はやめられないもので、7月以降、これまでの蓄えを放出し、食費を補填することにした。
これで10年前に比べ、食費の予算は2割増だ。
店の値段を見ると、「100円だったけど120円にしました」とか、「ラーメン700円だったのを900円にします」とかで、値上げ幅は額としては小さいものの割合で考えると値上げ幅は大きい。
その合計が食費なのだから、2割増にもなるわけだ。
放出する蓄えとはCOVID-19の時に生じたもので、外出できず、外食の代わりに自炊をしていたことで生まれた余剰だ。
「苦境に立つ飲食店を応援し、寄付しよう、後で使えるチケットを買おう」などという情緒にほだされず、その代わりに余剰を市場に委ねた。
それを引き戻すことにする。
助けを期待できるほどの市民的ふるまいを僕はしていないし、こんな身勝手な僕は周囲に迷惑をかけてはならない。
自分のことはできるだけ自分で何とかしなければならない。
もちろん、自分が苦境にあることはオープンにする。
人の目がある場所にとどまり続けることは、大きな効用がある。
当然、もらえる金はもらっておく。
前述のKindleの件もあって、書籍代や娯楽費を多く使った。
そのほかの費目も、毎月の予算で回しているものは使い切ったし、年間の予算で回しているものは半分強を費やした。
大型の出費として、衣類乾燥機とブルーレイレコーダーと電気ケトルとトースターを買った。
それ以外のほとんどは消費財で、手元に残らないものばかり買うので、自宅の部屋を見渡しても金を使った実感がない。
ようやく、Tシャツに4K円くらい払えるようになった。
最後に、資産運用。
投入は、年初の計画に従って行動するのみで、まったくおもしろくない。
個人向け国債の購入を、10年変動から5年固定にスイッチしたくらいだ。
運用については、評価額が20%目減りした。
20%という表記にもインパクトがあるが、額にするともっとひどい印象で、評価損が未経験の桁に達した。
仕事中の眠気は、もしかしたら阿鼻叫喚で卒倒していたのかもしれない。
某インタビューマンが「資産が200M円あったが、そのうち80M円失った」と明かし「でもそんなに気にならないものだ」と達観していたが、臆病な僕はやはり気が動転する。
むしろ、目に見えている額は「もう減った額」なのだから、「どうしよう」と不安になることすら間違っていて、ただ受け入れるしかないのだ、という虚無感だけがあった。
喉元にナイフを突きつけられている、のではなく、もう刺したよ、というわけだ。
あるいは、砂に書いたLove Letter 風にさそわれて 波と共にとけてくよ 足跡だけ残して、というやつだ。
…というのが、4月半ばに記録した谷底の評価額の話だ。
6月末時点、自分のベンチマークとしている指標は+10%の成績となっている。
これはドル建てであり、年初から円高が進んでいるため、円建てだとまた事情が異なる。
この2か月で25%以上の運用成績を上げたのだ、これって投資の天才じゃない?、と結果を切り取るパターンもあるのだろう。
いつも思うが、土俵を割り込まなければいい、ゴールラインまで押し込まれなければいい、というやつで、市場から退場を余儀なくされる事態から遠く離れておくことが至上命題だ。
そのためには、返済期限や執行条件のある金を借りない、大型の出費を事前に予想し備えておく、それでもカバーできない突発的なことはあるので保険を掛けておく、ぐらいはしておかなければならない。
あのインタビューマンや、飲料の名称で呼ばれていた事業家は、この先も僕の手の届かない暮らしを送るのだろうし、僕とは異なり素敵な世界にいる。
ただ、彼らの行く末についての情報は途切れさせたくない、と思う。
それにより自分の行く末に待ち受けている不確実性を減らすことになる。
以上で、半年の振り返りは終わり。
ところで、自分の持ち時間を可視化してスタンプカードにしているのだが、その半分がスタンプで埋まってしまった。
これまで歩いてきた道のあちらこちらに不発弾を残してきた実感があり、その存在におびえる。
一方で、運に恵まれていたことは間違いがなく、面倒なことを押し付け放置してきても、ここまでやってこられた。
これまでに得たものは乏しく、これから手に入るものはもう望めないだろう。
何かを持っているふりをし、それを駆使して切り抜けることを考える。
これを書いている最中に、ランダムリプレイがガーデンズの「Future's Memories」を選んだのだが、それが実に自分の人生を象徴しているように思えてならない。
ガーデンズのトリビュートアルバム、などあれば、買うのだけれど。