曇天の続き

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2010-07-02 Fri.

茸狩

2010-07-02

本当に「変わり者」なのだろうか。

確かに僕は、結構な変人だと思う。
そのような陰口がめぐりめぐって、僕の耳に届いたこともある(教えてくれた人たちは、とても親切だ)。
「あいつは「変わり者」だから、この仕事を嬉々としてやるだろう」という思惑で、仕事を都合良く押しつけられたこともある。

自分が変人であることは認める。
しかし、僕は他人を「変わり者」である、とは考えない。
それをし始めたら、すべての人を「変わり者」として認定することが可能になってしまい、キリがなくなる。
ましてや、一部の人たちを都合良く「変わり者」として認定し、その決めつけをお友達同士で楽しみ、利用しようとは一切しない。

だいたい、僕から見れば、海の向こうで人生のすべてを野球に捧げている人も、柔道を競技として取り組みつつ議員選挙にも立候補している人も、一般的な人とは違うので「変わり者」である。
ただ、「絶対的な人気のある人についての悪態はつくな」と有吉弘行がアドバイスしていたし、「変わり者」と呼んでもおトク感を得られないので、何も言わないだけだ。
そんなことを言い始めたら、僕が応援している佐藤琢磨選手や、心の中のバンテリン第1位である中澤佑二選手も、経歴から言ってしまえば「変わり者」である。

話がそれた。
朝日新聞のサイトに、次のようなタイトルの記事が掲載されていたことを言いたかったのだった。

「変わり者数学者、やっぱり賞金拒否 ポアンカレ予想解決」

この記事で「変わり者数学者」とされているのは、ロシアの数学者グリゴリー・ペレルマン氏のことである。
ペレルマンは、この記事で言及されている件の他に、フィールズ賞の受賞も辞退した。
NHKの番組でも取り上げられた数学者である。

「変わり者」かどうかの判断は、個人に保証されている価値観の自由の範疇だと信じたい。
しかし、一般的な人の振る舞いとは違うからと言って、新聞が「変わり者」と呼ぶのは、非常に危険である。
「変わり者」の認定は恣意的に行うことが可能であり、自分たちの保身を図るために、多数派が少数派を迫害する道具として利用されるにもなりかねない。
少なくとも、そのような表現を新聞記者が使用することに、僕は反対する。

受賞したら朝日新聞のインタビューに答えなければならないから、という理由で朝日賞の受賞を辞退すると、「変わり者」と呼ばれるのかも知れない。
いずれにせよ、僕のこの記事はなんか自己弁護っぽいな。

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