喝破
映画「水のないプール」を視聴。
僕はこのころの映画が好きみたいで、「水のないプール」は初めて見たが、げらげらと声を上げて笑いながら見た。
でも、「八甲田山」で大笑いしているところを人に見られて以来、気を付けるようにはしている。
こういう表現は何か深い意図があるのだろう、と表面的にはそうとらえるように装ってきたところがある。
僕が借りてきたDVDには副音声でコメンタリーがついていて、監督の若松孝二とプロデューサーの清水一夫の話が聞ける。
コメンタリーを聞くにはもう一度フルサイズで見なければならず、レンタルだと時間が厳しいのだが、できる限り聞くようにしている。
今回のコメンタリーもやっぱり面白くて、映画に出てくるアパートはスタッフが当時住んでいたものであったり、関わったスタッフが映画製作に手を出して飛んでしまっていたり、スタッフ同士がくっついてすぐにわかれたり、などの話が披露されている。
話を聞いていて思うのは、映画は笑って見ていて間違いないんだ、ということだ。
強いメッセージがあるように見えたり、独りよがりな意見が込められているように見えたりするところが、やっぱりふざけて作っているんだ、と安心できる。
「そんなことないだろ」と思っているのは、見ている人だけでなく、作っている人自身もそうなのだ。
映画はフィクションである。
リアルかどうかはいったん置いておき、楽しく作って、見る側が楽しめるよう作ることを第一に考えていていいのではないか。
コメンタリーによると、タモリさんのキャスティングは内田裕也が声をかけたのだという。
内田裕也が映画の話をもってきて、「餌食」や「水のないプール」は若松孝二が撮ったものの、次の「十階のモスキート」は断って崔洋一が初監督を務めることになり監督としての独り立ちがもたらされ、その次の「コミック雑誌なんていらない」は滝田洋二郎に話がいってメジャー監督への道が開かれ、そのあとの「秘密」や「おくりびと」につながるのだから、よく言われている「内田裕也のプロデュース力」の高さがうかがえるエピソードである。
また、監督は中村れい子の肌のきれいさに何度も触れており、きれいなものを撮ることへのこだわりが強くうかがえる。
言われて気づいたけど、音楽がおもしろい。
日常の生活も、もっとふざけて、もっとくだらないことにこだわっていていいのではないか、とまで思う。
でも、今の映画でぶっ飛んだものが少なくなっているところを見ると、現実では到底許されないものか、とも思う。