水浸
映画「台風クラブ」4Kレストア版を見てきた。
夕方1回きりの上映、ということなので、用事を切り上げて、渋谷駅に到着。
埼京線乗り場から南口に出たかったのだが、思うようにいかないのが工事中の渋谷であり、階段を上って中央改札を出る。
改札の正面は銀座線の線路がむき出しになっており、道玄坂下と宮益坂下が見渡せる風景になっている。
もう渋谷の過去のことなんて思い出せないのだろうな。
西の方へ、今も急な階段を下る。
少し年老いた女性が、手すりをつかんでゆっくりと階段を降りていた。
階段を降りると強制的に左折。
ハチ公口に出るつもりだったが、南口方面に降りるのが面倒になり、流れにのってバス乗り場を越し、フクラスのあたりまで振られて、マークシティの先端部分にぶつけられる。
玉川改札に向かう通路は閉鎖され、「明日の神話」は修復作業中。
おもしろくないことに2度と巻き込まれなければいい、と思うこの作用も、きっと芸術であろう。
多少の割り込みへの耐性を試されるエスカレータで下り、ようやく地上にたどり着く。
いつも思うのだが、この時間の渋谷で、シャツにスラックス、革靴に手提げ鞄、という格好の人間を1人も見ない。
おそらく、ここにいてはいけないのだろう。
火事のあったバスケットボールストリートを思い、小火が出た109の脇を抜け、閉店した東急百貨店本店の前へと差し掛かる。
この道は、過去に何度も反対方向に向かって抜けた。
20世紀末の記憶がどれくらい残っているのだろう、と歩いてみるが、郵便局と薬屋以外に、何も覚えていない。
坂の下にラーメン屋があったが、今は別の店になっている。
雑貨屋もあったが、それが今はどこのどれかもわからない。
それ以外は、新しくできたのか、20世紀末にすでにあったのか、それもわからない。
道を拡幅するために用地が確保されていた記憶があるのだが、その記憶が正しいかどうか検証できるほどの記憶はない。
坂の角度すら、記憶していたよりもずっと緩やかだ。
センター街の看板が落ちたとき、「死にかけたな」と思った何十万人のうちの1人である。
ユーロスペースに到着。
ここに来るのは2023年…、先月以来だ。
この前に比べたら、ずっとスムーズにチケットを買うことができ、前回やり取りにリソースを使ったために気を配れなかったSuica支払いもできた。
「福田村事件」の合間の上映、とのことで、田中麗奈さん出演映画を見ないことに心が痛む。
こちらの方は、しばらくは評論で状況をうかがうことにする。
入場時に、映画のシーンを切り取ったポストカードをいただく。
客の入りは2割よりは多いが、3割はいるだろうか。
年齢層も若い人から年配の人まで、男女比も同じくらい。
「台風クラブ」を見るのは、数え直したところ、今回で7回目である。
最初に見たのは、1996年1月、前年末にFBSの深夜に放送されていたのを録画して見た。
1番好きかどうかは数年ほど考える時間が欲しいが、最も衝撃を受けた映画の1つであることは否定できない。
自分の好きなものが、自分の考えていることが、自分では把握できていなかったのにもかかわらず、1985年に公開された映画に全て入っていた、というのが、感想である。
これから先の人生、何も成し遂げられないな、と自覚させられ、その実感はしっかりと当たっている。
早めに期待を捨てさせてくれた映画だ。
1996年に2回、1997年、1998年、2010年に見た、と記録にある。
直近は2021年12月24日、短期貸しの別荘において、Prime Videoでタブレットを使って見た。
11年ぶりに見たのだが、この時はそれまでとまた違う感想を持った。
過去に確かに感じていた映画の意味が、全くわからなくなっていたのだ。
歳を重ね、何かを失った事実を突き付けられ、歳を取ってから作っているはずの相米慎二の感覚を称えるしかなかった。
だから、見ることが少し怖かったのだが、自分にとって大事な映画が映画館でかかる機会もなかなかないので、見に来た。
まず、映画館で上映してくれたことに感謝したい。
日本映画全体に言えることだが、画が暗く、自宅の画面でははっきりと見えないことが多い。
また、台詞が不明瞭であり、音量を上げると今度は背景の音がうるさい。
今回は4Kレストア版で画面が比較的明確になっていたし、何せ台風の中の話だから雨風の音が大きいのだが、それも映画館だと気にしないで見ることができた。
今回は画も音もクリアで、「意味が理解できない」ということがなく、実際かなり安心した。
短期貸しの別荘にいたときは、やはり調子が悪かったみたいだし、自分の目と耳の劣化のせいだったのかもしれない。
「見に来てよかった」というのが率直な感想だ。
ただ、思うことが少しずつ変わってきているのは確かだ。
最初に見たときは、当然子供の方に感情移入していた。
2010年に見たときは、年齢もあり、教師を演じる三浦友和の立場がわかるようになっていた。
「無責任な教師」と評されることが多いが、僕からすると、社会の規範を守ろうとしているし、相手のことを引き受け自分のふがいなさを受け入れようともしている点が見える。
2023年の今回は、そのまた上の世代、子どもの親の立場で見るようになってきている。
すなわち、つまらない精神論を語る様を子どもに見透かされている父親であり、子どもの家出を学校や周囲の責任に押し付けている(と思われ、電話の向こうでわめきちらしているらしい)母親であり、一升瓶から酒をラッパ飲みをするおっさんである。
次に見るときは、娘の結婚を急ぐ母親や、モンモンを背負う水戸の弟、もしくは実務的なことを口にするだけの中学校の事務員の立場で見ることになるのだろう。
最後には、台風の目に入り、停電しただけで「死んだんじゃない」と決めつけられる、死にかけのババアの立場で、「台風クラブ」を見るのだろう。
子どもを描くことを通じて、この5つの世代、15歳と32歳の中間である、やや中途半端な大学生の世代を加えるなら6つの世代を表現している、実はそういう映画だった。
「意味が分からない」という状態は回避できた。
「終わっている」と突き付けるのは、多分正しいのだろう。
「終わっている」とわかっていて、結局ここにたどり着く、と言い返すのも正しいことであろう。
子どもが「もしも明日が…。」を歌い、大人が「北国の春」を歌うのも、正しい。
僕は祭りの概念が苦手なのだが、それがなぜ苦手なのかがこの映画では描かれていて、それは特に、狂乱の後「何やってたんだろうな」と我に返る「振りをする」様によく表れている。
祭りは集団がこぞって参加するから成立するのであって、それを構成員に義務付けてくるのが苦手なのだ。
そして、その輪にどこまでも加わらず、付き合いを装う器用さを持ち合わせていながらどこまでも加われない主人公の立場にほっとする。
ただ、最初に見たときから、「主人公のあの終わらせ方はずるい」と珍しく素直に思っていたのだが、ウィキペディアにあった「1人くらい死んでくれないと」という、映画構成的な意図なら十分に受け入れられる。
それくらい、生きることは凡庸なことなのだ。
好きな台詞は、工藤夕貴の「名前、小林っていうんですね」だ。
名前も知らないで部屋までついていっているところが、全体的にマヌケである。
もちろん、その時の外から中へと移っていくカメラワークには、何度見ても息をのんでしまう。
また、最後の方で大西結花が机で組み上がった櫓の横を這い上がってくるシーンも好きだ。
あれがないと、一人でしゃべったままで終わってしまい、他者との関係がないように感じてしまう。
そして、最後、学校に残らなかった明と理恵が登校するシーンが、何よりよい。
台風の過ぎ去った後の風景に美しさを感じる様子がすばらしく、台風によって文明がほんの少し自然に引き戻されたように思える。
「金閣寺みたい」という表現はたまらない。
最近になって初めて見たと思われる「台風クラブ」評を見ると、「意味不明」「気持ち悪い」「昔だったから許される表現」といったコメントが多い。
もっともだと思う。
僕は、渋谷からの帰途、街の様子を見ても、「気持ち悪い」と感じたし、それはずっと変わらない。
結局僕は、人間というものをとことん称賛していないのだろう。
「昔は許される」もそうだと思うし、今は今で、今回の上映で見た他の映画の予告編にうかがえるテンプレート的な表現ではなく、間隙を縫った表現、後の時代に禁止されるような表現を見せてほしい。
「子どもの演技が下手」「学芸会みたい」というのも、確かにとうなずく。
逆に僕は、最近の子役の演技が観客を引き込むほどに強力で、「どこの事務所だろう、キリンプロから来たのかな」などと考えてしまう。
金子修介が「プライド」のコメンタリーで、「演技ができるようになったときにクランクアップを迎える」と言っていた。
今初めて「台風クラブ」を見たら、僕も巷の評と同じように感じるのかもしれない。
でも、僕には1980年代の映画にある程度の免疫があるし、何より20世紀末にその年齢で見てしまったのだから、分岐の向こう側の気持ちはわからない。