含意
小倉を離れて、もう幾年月。
北九州弁をことごとく忘れてしまった。
なので、周囲がふるさとの方言を期待する数少ない機会があっても、北九州弁をうまく披露できない。
だが最近、酩酊すると北九州弁が口につくようになった。
もし記者会見でろれつが回らない北九州弁が出たら、僕は酔っていることになる。
先日もこんなことを言ってしまった。
「なんちぃ? さっちがそげん時に靖国神社とか行かんでもいいっち言いよろおもん? のおっちゃ」
書いているのを改めて読んでみると、完全に意味不明だし、本当に体調が悪くなる。
この台詞を丁寧な共通語訳すると、
「えっ? わざわざそのような時期に靖国神社に行くこともないんじゃない? ねぇ」
となる。
この台詞に出てくる「さっちが」という北九州弁は非常に便利である。
共通語だと、「さっちが」は「わざわざ」に対応する、らしい。
しかしながら、この「さっちが」は「わざわざ」よりももう少し多くの意味を含んでいる。
この文意での「さっちが」は、
「普通であったらこのような大変な時期に行く必要など全くないし、行ったら行ったで結局面倒なことになるし、あなたはこの時期に行けば大きな問題が起きることがわかっていながら、なぜあなたはわざわざ大変な思いをして」
と、これくらいに強調された意味を含んでいる。
少なくとも、僕はこれくらいの意味で遣っている。
「普通であったら」というのが、北九州にありがちなポイントである。
なお、この「靖国神社に行くこともないのでは」発言は、桜が咲く時期に言ったものである。
「桜が見ごろを迎えた頃だと桜の名所である靖国神社周辺は大変混み合うので、花見客のもっと少ない場所へ花見に行った方がいいのではないでしょうか、僕は花見は苦手なので結局行かないんですが」という意味で発言した。
ところで、「桜」の季節恒例の「追跡」だが、もう疲れてしまい今年は思い出すことすらなかった。
「成長しないって約束」は自然と履行できているが、如何せん老化が進み、物事に対する興味が薄れてきた。