埋鳥
吉本ばなな「TUGUMI」を読む。
本棚に並びきれない本の整理をしていて、「TUGUMI」が出てきたので、読むことにした。
中学高校の6年間でほとんど本を読まなかった自分が久しぶりに手にしたフィクションが、「TUGUMI」だった。
調べると、当時の大学入試センター試験の現代文で出題されたらしく、その流れで読んだのかもしれない。
記録によると、前回読んだのは1998年11月。
内容を全く忘れているのだが、先日から言っているように、市川準監督の映画「つぐみ」は見たことがあり、読み進めると、キャスティングを思い出してきた。
牧瀬里穂、中嶋朋子、白島靖代。
ゆるぎないキャスティングで、それだけで感服する。
山田洋行に感謝。
小説の方は、こういう濃密な表現がなされた文章を読みたかったのだ、とこちらも感激してしまう。
ところが、恭一が出てくるページから、雲行きが怪しくなる。
これはもちろん、恋愛なしのガールズムービーを好む、自分に責任がある。
およそ商業小説がそんな話になるわけもない。
ここ最近の動向もあり、「恭一は、真田広之が適切だな」と感じ、確認するとその通りのキャスティングだったから、記憶と感覚のどっちがどっちなのか、自分が嫌になる。
さらに読み進め、凝った文章に魅せられるにもかかわらず、自分がなぜ吉本ばななの作品から離れたか、その理由を思い出す。
作品に、「私たちは、一般の人たちとは様子が異なるが、私たちが正しいし、いけている」という感覚が充満している。
それを表現するために、意地が悪かったり、ひねくれていたりする人物を周囲に配置する。
また、「友達との旧交を温める」みたいな簡素な記述を入れてきて、「詳細には描かないけど、社会に適合している」というにおいを残す。
自分たちの卓越性の顕示、比較優位を示すために用意される舞台装置、社会的成功のほのめかし、みたいなのが、どうも素直に入ってこない。
同じ感覚は、さくらももこの作品にも感じる。
あとがきを読むと、そのあたりの考えが完全に固まってしまう。
「天才えりちゃん 金魚を食べた」などを出してくるところが、いかにも台の上に立っている自覚の存在を表している。
安原顯の解説にいたっては、逆に活字に残しておいてよかった、と思えるほどだ。
でも、それも結局は無能な人間のひがみなのだ。
自身の卑小さを何度も何度も確認することになり、本当に嫌になる。
もしかしたら、最近の著作では、傾向が変わっているかもしれない。
機会があれば、読むことにしよう。
そして、DVD「錦鯉独演会 バカが来た」をレンタルして視聴。
「左は、右だよ」に始まる漫才集。
ちゃんとしているふりをしなくていい、という自分への戒めになる。
信念を持って、本当の気持ちをそのまま言えば、それでもういいのだ。
副音声も楽しむ。
夜のホークス戦は、5回裏だけ見た。
そこだけ見る限り、散々なものだった。
KBCラジオで決着まで確認し、横になる。
ほんの1週間前までに感じていた余裕、もしくは奢りを、真摯に反省しなければならない、というより、1989年の反省を活かせよ。
「TUGUMI」を読んで、ベイスターズがシリーズ制覇し、26年後に「TUGUMI」を読んで、ベイスターズがシリーズ制覇した。
遊んでばかりだが、行政書士試験まで1週間となった。
行政法については、テキストと過去問を一通りさらうのに、約3時間で済むようになった。
憲法、基礎法学、基礎知識は、全部で2時間程度で復習ができる。
商法もまあ準備はできたとし、残すところは民法。
こちらは、まだ準備ができたとは言えない状況だ。
マクドナルドで、Sサイズのホットコーヒーばかりを飲んで、勉強を継続中。
店内放送の「ミュージックバリュー」を何度も聞き、「ペインティング・シンガー・ソングライター」としてデビューした「洸平」改め松下洸平氏の楽曲とトークに親しむ。
多才である。
まとまった学習時間は、明日から土曜までに9時間程度、確保できそうだ。
残り時間で民法をものにできるか、他を固められるか、行政法の復習ができるか、やることは多い。
そもそも、勉強を始めるとすぐに眠くなる。
3時間の試験で体力と集中力がもつかが、気がかりだ。