消光
佐藤正午「小説家の四季 1988-2002」、「小説家の四季 2007-2015」を読み終えた。
「何をいまさら」という感じもあるだろう。
実際、前者は「ありのすさび」などのエッセイ集に収められたのを読んでいるし、後者は単行本を図書館で借り読んでいる。
今回は、2022年末に出された岩波現代文庫版を購入し、読んだわけだ。
持っている本を(厳密には、持っている本に収められた文章が再掲された本を)新たに買い求める、というのは、僕にとっては異例中の異例である。
これは、分散して収録されていた「小説家の四季」を新たにまとめて文庫化した思いにこたえたかったからである(文庫化の経緯は「2007-2015」のあとがきにある。どちらにもあとがきが加筆されているのも、購入に至った理由の1つだ)。
後で感謝は述べる。
それはさておき、言いたいことがある。
最近の文庫本は、高い。
10年くらい前に、「ああ自分はようやく、文庫本だったら、新刊であっても(中古を探し求めなくても)好きな時に読める分だけ買えるほどの余裕を持つことができたな」と悦に入っていた。
新刊の単行本は、値段と置き場所が原因でめったに買えないが、文庫に入るまで待てば迷うことなく買える。
そんな経済力ならある、と思っていた。
ところが、それは全くの間違いだったと言えよう。
今回購入した文庫「小説家の四季」の価格は、どちらも消費税課税前で1,000円を超えている。
文庫本でこの値段か、文庫本に収められた意義がないな、とまで、思う。
もちろん、文章の価値は値段以上のものがあると理解している。
余裕のある人が積極的に単行本を買ってくれているおかげで、市場が成り立つ。
その恩恵で、第一級の文章が廉価で提供され、僕のような者でも触れることができているのだ、と思っていた。
今後またしばらくは、文庫本を買うまでに十分逡巡することになるだろう。
さて、「2007-2015」の帯に、「同じことを繰り返し特別な作品が生まれる。」とある。
この言葉は自分の中に深く響く。
これに気付かされたからこそ、自分の生活の「通奏低音」を意識するようになった。
そして、佐藤正午の書いたものを読み続け、次の新作を待ち望み続けているのだ。
「四季」というリズムが、筆者にとても合っているのではなかろうか。
「この方法を選んでいることに、焦る必要はないのだ」という認識を強くしてくれることに感謝したい。
内容を受けて、自分がたどってきた「PCの変遷」はどういったものだっただろう、と振り返る。
1980年代に百貨店でキャプテンシステムやディスクシステムの書き換えシステムに触れ、祖父の家で2×10文字のディスプレイだけのワードプロセッサを操っていた以来、自分の人生は「コンピュータの、社会と家庭への普及」とともにあった。
自分にとってのエポックメイキングは、高級言語コンパイラの入手、テキストエディタの利用、ネットでの情報収集、駅すぱあとの使用、ADSLによる常時接続、Google検索の衝撃、オンラインでのWindows Update、ネットでの買い物、開発環境のコモディティ化、メモの電子化から全記録の電子化、といったところだろうか。
「理想とする未来」が今実際に訪れていることを自覚し、それを喜んで利用しようと思う。