凡策
2020年の投資活動を終えた。
インデックス投資家である僕にとって、2020年はずいぶんと試される年であった。
現資産くらいだと、損益の桁が増えることで呼吸が苦しくなるようなことはほとんどない。
額の絶対値を口にすると恐ろしくなるが、この程度の桁が生じることには慣れてきた。
それでも、桁の1番上の数値が大きくなることにより、時に大きな打撃をくらうことになる。
4月。
現状の評価損益を計算して、その額を見てその場にへたりこんだ。
これから年末まで働き、無理難題に応じていけば、その報酬として毎月同じ額が銀行口座に振り込まれるかもしれないけれど、それが全部、この損失を埋める資材として使われる。
いや、それでも足りない。
視界が両端から暗くなっていくのを感じた。
インデックス投資をしていると、自分の勝負勘のなさというか、投資力のなさというか、そういう不甲斐なさを嫌というほど思い知る事態にぶつかる。
異常を訴えるメディアと下向きのグラフを見て、「きっと評価が下がるのだろうな」と思いながらも、自信がなくて何の行動もできない。
下がりきったところで狼狽して、なぜ売らなかったのだろうか、今から売っても間に合うだろうか、と気持ちが不安定になる。
地道に働くことに意味を見いだせなくなってしまい、これは大勝負に出なければならない、と思うようになる。
しかしながら、まだ運をつかさどるものから見放されていなければ、脳は自力で次のことを思い出してくれることもある。
自分には勝負勘や投資力がないと認識しているからこそ、僕はインデックス投資を選んでいる。
不測の事態が生じて評価額が暴落することがあるが、それを予測できないから、インデックス投資をしている。
インデックス投資に費やした金は、もう手元を離れて市場に還流した金である。
手元にないのだから、投資していることはすっぱりと忘れてしまおう。
今後もインデックス投資を通じて、市場に資金を戻していく。
その継続のためには種銭を集めることが必要であり、それには、安定して資金を手に入れる手段をより確実なものにする必要がある。
以上のようなことをリアルに100回くらい、自分に言い聞かせる。
周囲にそんなことを言ってくれる人は1人もいないのだから、自分で言い聞かせるしかない。
そして、気力を取り戻して、目覚まし時計のアラームをセットして眠る。
アラームが鳴れば何も考えずに起き上がり、身支度を整える。
チャートが蛇行しながら下に向かうのを見て、2つの行動を実行した。
1つは、キャッシュの保有量を調整し、投資額をほんの少し増やした。
もう1つは、購入のタイミングを刻んだ。
いかにも「小手先」という感じだが、この2つのことだけでも、実行するには相当の心構えが必要だった。
僕は実に小心者であるし、だからこそインデックス投資を選んでいる。
さて、僕はお金の話は好きだし、資産を増やすことに興味がある。
それで考えを突き詰めた結果、インデックス投資にたどり着いてしまった。
改めて言うが、インデックス投資はつまらない。
年間の投資計画はすでに年初に決めており、あとは粛々とオペレーションするのみ。
市況を全く見ることなく、安価な手数料のインデックスファンドを定期的に同額購入する。
買い注文を出し、出納帳に保有残高を記録すれば、それで投資活動が終わる。
評価額が上がればもっと買えばよかったと後悔し、下がれば売ってしまえばよかったと後悔する。
インデックス投資を選んでいる以上、他人と投資の話で盛り上がることはあまりない。
現代ポートフォリオ理論を持ち出せば鼻で笑われ、行動経済学のご高説をありがたく拝聴させられ、不安に陥る。
自分が儲けた話をするような機会は全くなく、他者の勝ちを指をくわえて眺めるだけだ。
市場が暴落すれば、退場していない自分は惨めな姿で立ちすくみ、笑いものになる。
内心では、積極的な投資家がいるから市場の健全性が保たれていると感謝し、オープンな市場秩序が維持されることを願っている。
市場リスクを取っているとはいえ、結局は市場にフリー・ライドしている気分になる。
「情けは人の為ならず」というが、インデックス投資を始めたことで、ようやくこの意味を理解した気になり、見ず知らずの人を助ける意義を実感できるようになった、という情けない始末。
投資家のコミュニティにも居場所を築けないのが、孤独なインデックス投資家である。
ところで、市況は、回復した。
4月には目をそらしたくなるほど下がったのに、年末のインデックスは、年初の評価額を上回っている。
街の店はつぶれ、明日の生活も成り立たなくなる人がいる一方で、株価は上昇した。
富の偏在がより進んでいるのではないか、という不安がある。
それにより、社会の不安定さが増し、やがて平和な生活が脅かされるようになるのかもしれない。
しかし、申し訳ないけれど、それはそれである。
社会との縁が薄く、自助を要請されている自分が快適に生活することを模索するなら、少しでも「資本の保有側」に回っておく必要がある。
せめて市場へのわずかな資金供給であっても、それが社会がより良い方向に向かう原動力となっていることを信じている。
税金も納めているけれど、昨今の理論だと、税金を払うことそのものが直接社会貢献につながっているわけでもなさそうなので、そこは政治参加を通じて、ほぼ無限に湧き出るらしい資金の使い道を考えることで補うことにする。