通禍
それにしても、日本銀行はいったいどこから金を持ち出してETFを買っているのだろう。
自分で紙幣を刷っているのか。
これが、僕の「公民」科目の習得レベルである。
惨めな知能を嘆いていても仕方がないので、日本銀行のウェブサイトにアクセスする。
サイトには、日本銀行の財務諸表が公開されている。
2020年3月の貸借対照表によると、右の「負債の部」に、「発行銀行券」が109兆円、当座預金を含む「預金」が395兆円、「政府預金」が12兆円ある。
日本銀行にとって、紙幣を発行するとは負債を抱えることなのだ、と今さら理解する。
それはそれとして、左の「資産の部」には、金地金が0.4兆円、現金が0.2兆円、ETFが30兆円ある。
左右が対応しているわけではないが、まあ、市中の銀行の当座預金があって、それで得た現金的なものでETFを購入している、あるいは市中の銀行からETFを受け入れ、それに対応する当座預金の残高を足している、ということなのだと思う。
ところで、「資産の部」には大きな残高があって、それは「国債」である。
その残高は、485兆円。
なぜ日本銀行は国債をこんなに保有しているのだろう、政府に買わされているのか。
これが、僕の「公民」科目の習得レベルである。
惨めな知能を嘆いていても仕方がないので、「日本銀行 国債」で検索してみる。
忘れていたけど(あるいは知らなかっただけだけど)、日本銀行が国債を政府から直接買い入れることは法律で禁止されている。
それでは、どうやって国債を日本銀行が得ているかというと、市中の銀行からの買い上げによる。
なぜ、市中の銀行は日本銀行に国債を売るのか、自分で持っていればいいのに、と思うのだが、それにも理由がある。
現在、国債は額面よりも高い価格、要は負の利率で市場に放出されているのだが、それでも市中の銀行が購入するのは、日本銀行が政府が発売する価格よりも高く買ってくれるからである。
日本銀行は、市中の銀行から国債を受け入れ、それに対応して当座預金の残高を足しているのだという。
つまり、国債が日本銀行に持ち込まれた際(実際はペーパーレス化されているはずなので不正確な表現だが)、日本銀行が市中の銀行に代わりに現金を渡すわけではなく市中銀行の当座預金の残高を増やしてあげることにより、日本銀行のバランスシートが保たれる。
その結果、485兆円もの国債を日本銀行は所有することになった…。
ここまでくると、何だかこれまで習ってきたことと違う、と思い、ウィキペディア日本語版で「信用創造」のページにアクセスしてみる。
すると、そこには自分が以前習った「信用創造」の説明とは全く異なることが書いてあった。
以前教わった(そして、改めて確認したベネッセのサイトでの)説明だと、「信用創造」は、銀行が預金を元手に貸し出すことにより発生する。
まず銀行が1,000万円の預金を受け付け、そのうち100万円は手元に残しておき、900万円を別の人に貸す。
その900万円で別の人は負債を支払い、900万円を受け取った人はその金を銀行に預ける。
すると、銀行は900万円のうち90万円を手元に残して、810万円を別の人に貸す…。
そうやって、1,000万円の預金はそのままで、900万円、810万円…の預金が生まれる。
これが「信用創造」だ、という感じだったかと思う。
まず預金ありき、で始まる。
しかし、ウィキペディアにおける「信用創造」はスタートが違う。
まず、借り手ありきである。
借り手の返済能力を査定したのち、返済可能と判断したうえで銀行は金を貸す。
その時銀行は、バランスシートの左側に貸付金を、右側に借り手の当座預金を書き加える。
それで終わり。
リアルな金を動かすことはない。
逆に返済とは、貸付金と当座預金を相殺する帳簿上の操作となる。
貸付の時、銀行がいくら預金を集めているか、いくら資産があるかは関係ない(もちろん現実は異なる)。
これがMMT、現代貨幣理論の導入部分の説明である、ようだ。
国債は、法律の制限から、まず市場で消化されなければならない。
しかし、国債を日本銀行が受け入れている実態は、回転の方向は異なるが、日本銀行がバランスシートに国債と、市中の銀行の当座預金残高を書き加えているのと同じだ。
この原理をもとにすれば、政府は国債発行の制限が大幅に緩和される、という話もある。
でも、そんな風に無秩序に増やされた当座預金の残高をありがたがるのだろうか、と僕は疑問に思う。
その疑問にも答えがある。
制限のない国債発行を可能にするのは、政府が通貨発行権を有しているからだ。
通貨は納税で使うことのできる証書であり、市民は証書である通貨を政府に収めることにより、納税の義務を免れる。
そのために、通貨に価値があると認めるのだ、というのが、僕が理解できた話である。
まあ、そう思うのならそれでもいい。
一方で、僕の身にとっては、費用が年々上がっているのは租税公課くらいで、他の費用額は維持、もしくは下がっているのではないか、とすら思う。
佐世保在住の小説家、佐藤正午著「ありのすさび」によると、1998年頃の話だが、長編小説「Y」の執筆の際には、舞台である東京に関する情報収集のために数人の手を煩わせた。
後に、それらの情報はインターネットを使えば自分でも得られるとわかり、東京在住の知人に余計な手間をかけさせた、とあった。
今は2020年だが、自分の情報機器や通信にかかわるコストを積算してみると、10年でおよそ100万円ほど費やしていると思う。
なので、一概に調べ物のコストが下がったとも言えないが、それでも年間10万程度で過去とは比べ物にならないほどの情報にアクセスでき、それにより出力を増やすことができている。
コストが下がっているのは、技術のコモディティ化とは別に、通貨とは別のあるものを「支払う」ようになったからだと思う。
それは、自身のプロファイル、および行動履歴である。
僕は、情報技術の恩恵を受け取る代わりに、自分の行動内容を無自覚に渡している(実際は、データ化され吸い取られている)。
それがこの国の通貨に変わればいいのかもしれないが、そういうわけでもない。
政府には徴税権がある、と言っても、金銭ではないすべてのやり取りに税をかけることは困難だ。
金を支払わなくていいのなら、金を得る必要もなく、金を得ないのなら、税を支払う必要も減る。
そもそも、自国通貨を得る必要が税を支払うためだけになり、それ以外のやりとりを別の「通貨」で済ませることができるようになれば…、まあ、そんなことにはならないか。