敬虔
2012-09-06
内田樹 著「街場のメディア論」を読み進めている。
第3講で、「現在当たり前に存在しているシステムに対して、感謝の念を持つ人が少なくなってきた」という風なことが書いてある箇所がある。
自分にも思い当たる節があり、ひどく恥じた。
こういうことを感じたのは初めてではない。
10年前にも同じようなことを感じていたのに、そのことをすっかり忘れていた。
どこで感じたかというと、ネパールでである。
ネパールでは、食事は口に合わない、水は飲めない、シャワーの湯は出ない、何を買うにも交渉が必要だ、などと大変な思いをした。
ネパールの地において、普段の生活が当たり前のように実現されていることについて、あれほどまでに感謝したことはなかった。
冗談抜きに、「てんや」が存在していることにも祝福を与えたほどだ。
今、多くのサービスが安価に手に入る。
原材料費と加工費、人件費くらいしか払っていないので、価格からはありがたみを感じることが難しい。
しかし、ここまで安価にサービスが手に入るのは、これまで長年にわたり多くの人の手によって構築されてきた、洗練されたシステムのおかげである。
それに対して感謝の念を忘れているとは、僕は何と愚かなのだろう。
藤子・F・不二雄の短編に「福来る」という話がある。
福の神が現代に来て、ある人に福をもたらそうとするが、現代社会があまりに高度で、福の神が与えられる福では人は感謝しなくなった、という内容だ。
その話の落ちに似たようなシチュエーションをネパールで経験しているのに、僕はまた忘れてしまっていた。