素養
僕の父親はワイドショーをほとんど見なかった。
芸能ニュースにも、ほとんど疎かったと思う。
そのことを僕は一時期、軽蔑していた。
「そんなんで、職場のOLと話が合うのか」と。
一方僕は、ワイドショーをよく見ていた。
ちゃんと理由がある。
その理由は、テレビでやっているお笑いのネタを理解したかったためだ。
当時のお笑いは、そのときの話題や流行を取り入れて、それを変形させたネタが多かった。
そういうネタの場合、元ネタを知っていないと内容が理解できず、心から笑えない。
理解できないのが惜しいので、僕は勉強するために、ワイドショーを自然とよく見ることになっていたのだと思う。
父親は最近の話題を知ろうともせず、僕が夢中で見ているテレビを「つまらない」と言い切り、書斎的なところへと去っていった。
ジェネレーション・ギャップである。
でも、わからないから「つまらない」と言ってしまう、その気持ちは理解していた。
僕は今でも、理解してもらおうという努力を払わない内輪ネタが苦手…、嫌いである。
やがて、テレビで頻繁に見ることのできるお笑いは、変化をとげた。
一時期は、芸人はみんな駄洒落を言わなければならないような時代があった。
あるいは、「あるあるネタ」で共感を呼ぶことが流行った時代もあった。
独自のキャラクターを作り上げ、コントではない普通の場所であっても登場し、一発ギャグを言えば笑いが一時的に取れる時代もあった。
だから、こちらが勉強する必要がなくなってしまった。
今の僕は、お笑いを理解するという理由でワイドショーを見ることはほとんどない。
受け手側が勉強しなくても、タレントはその場で笑うことができるネタをテレビでやってくれる。
逆に言うと、受け手側に共通する知識のない今、一体何がお笑いのメイン・ストリームになるのか、とても不安である。
今後は、芸人全員に謎かけを強いるような時代が来るかも知れない。
ところで、少し前の経営者の中には、「業界誌と日本経済新聞しか読まない」と言い切る人がいた。
限られたメディアで経営者に共通の知識基盤が形成され、それらに書かれた話題を話せば経営者同士なら話が通じたのだろう。
いい時代だ。
やはり、人と円滑なコミュニケーションを築くには、興味がなくても今の流行に触れておくのが大人のたしなみだろうか。
そういう理由で、時々無理をしてでもワイドショーを見ることがある。
でも、時間の浪費だな、という思いはぬぐえない。
TBSや一時期のオウム真理教のスタッフのように、業務の一環としてすべてのワイドショーをチェックする時間の余裕は、僕には一切ない。
ましてや、スポーツ新聞の記事の面積を測り、比較する気力もない。
そして、僕はもう結構な大人なので、たとえその場がしらけようとも、正直に「わて、サッカーのこと、ようわかりまへんねん」と言うことにしている。
だから、人が離れていく。
とは言っても、僕に残された時間がほんの少ししかないのだから、それはやむを得ない。