美称
ずっと昔、父親とタクシーに乗ったことがある。
確か、東京の六本木に向かっていたのだと記憶する。
車内で、僕の名前についての話になった。
僕はそこで長年の疑問、つまり「僕の名前の読み方はどうしてこうなったのか?」を父親にぶつけた。
僕の名前の読み方は、名前を形成する漢字の一般的な読み方とは全然違う。
辞書にも載っていない読み方をする。
僕に名前を付けてくれたのは、祖父である。
この質問をした頃、祖父はまだこの世のものであったが、ちょっといろいろと怪しげであった。
なので、もう祖父に尋ねることはできなかった。
思えば、僕に名前を付けてくれた祖父は、何となく博識そうであった。
おそらく、何か深い理由があるに違いない…。
僕の純粋な問いに対し、父親は短く返答した。
「そう読むのは、おやじのどまぐれだ」
この「どまぐれ」というのは、おそらく方言である。
北九州や祖父が在住した筑豊には、どまぐれに当てはまる人物や行為があふれていた。
共通語に変換すると、つまり、僕の名前の読み方は、「祖父のフィーリング」である。
ついでに聞いた話だと、祖父から僕の名前を初めて提示されたとき、母親はひどく渋ったらしい。
その気持ちは分からんでもない。
これが、麗しき六本木の追憶、 remembranceである。
僕は一生忘れないだろう。
物心が付いて以来、自分の名前を振り仮名無しで他人に正しく呼ばれたことは一度たりともない。
それでも、12,000日近く付き合ってみると、風変わりな自分の名前でも何となくしっくり来るものである。
僕の名前はそんなに奇異ではない。
まともな漢字だし、意味もしっかりしているし、ウェブで調べたところ同じ漢字の名前の人がいることが分かったし、名前の読みだけなら実在の有名人にも同じ読みの人がいる。
しかし、漢字と読みをセットにして考えると、現代風に言えばいわゆるDQNネームの1つであろう。
なので、僕は昨今見受けられる命名の風潮をひどく心配している。
DQNネームのサイトを見て、「できれば全てネタであって欲しい」と心から願っている。
いやはや、自国民の大胆な発想力には感服してしまう。
政府は子育て支援手当の前に、漢和辞典を給付した方がいいのではないか、とすら思う。
しかし、万が一、僕が人の名前を付けることになったら、無知が原因で同じようなことをしでかすかも知れない。
その場合は、できればコンサバな名前でお茶を濁したいものだ。
といっても、「保守」と書いて「コンサバ」と読む、みたいな名前じゃない。