曇天の続き

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2009-09-10 Thu.

月見里

2009-09-10

小学生の頃、国語の教科書で宮沢賢治の「やまなし」を読んだ。

この小説には、「クラムボン」という言葉が出てくる。
教科書では「クラムボン」に註がついており、その註には「作者の造語」みたいなことが書いてあった。
そのときの授業では、この「クラムボン」とはどういう意味なのか、何のどういう様子を指してこう呼んでいるのか、といったことを教師から考えさせられ、僕ら子供たちは死ぬほどアイデアを捻出させられた。

そのとき思ったのは、「こういうのがアリだったら、何でもありなんじゃないか」ということだ。
意味不詳な言葉を小説に持ち出して、その小説が最終的に教科書にまで載って、後世の子供たちに意味を強制的に考えさせる(しかも、答えがない)というのは、一種の暴力である。
大人になってノー・アイデアな日々が続くのは、おそらくあの時に資源が枯渇したからであろう。
(一方で「ハナモゲラ」というのもあるが、こちらの方は授業で意味を考えさせられることはないので、気軽に楽しめる)

で、そのとき子供ながらに決めたことは、今後一生「クラムボン」には関わるまい、ということだ。
僕にとっては「クラムボン」なぞ何も面白くないし、聞くと不愉快になるだけだ。
おそらく、この解釈をとうとうと語る輩が出てくることが予想されるが、僕はその行為を断固として認めない。
そして、これを引用するものども(芸名、コンビ名、グループ名、店の名前、絵のタイトル、歌のタイトル、子供が書く作文の題名など)もきっと出てくるだろうが、そんなものを引用する人たちと僕の感覚が合うはずもないだろうし、それらは間違いなくろくでもないものに違いないので、僕は絶対に受け入れない、と決めた。
実際に「クラムボン」に関わるくだらなく不愉快な思いを何度も経験した。

そして、時は2009年。
僕は、クラムボンという名のバンドによるアルバムを比較的好意を持って聴き始めることになった。
お決まりの「変節」である。

でも、バンドの名前のせいで、存在を知ってから聴き始めるまで5年間、ずっと「聴かず毛嫌い」だった。
おそらく、信念なんて持たない方がよいのだろう。

ただ、一方で「マクガフィン」は好きだから、始末が悪い。

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