立止
2009-08-02
心がすさんでくると、いろいろなことに無感動になってしまう。
街は日々変化を遂げていても、平穏で健康な心でなければ、変化に気付くことはない。
ロッテリアの前を通ると、「試せよ」と書いた垂れ幕が掲げてあった。
口に合わなかったら返金してもらえる、というふれこみの「絶妙ハンバーガー」の広告である。
毎日ロッテリアの前を通っているのに、垂れ幕に気付いたのは絶妙ハンバーガーのPRを始めてから半月くらい経ってからだ。
「試せよ」。
違和感がある。
さまぁ〜ずの三村さんかな。
例えば、「食べる」の命令形なら、「食べろ」もしくは「食べよ」となる。
コピーでつかわれている「試せよ」の用法にならうと、「食べる」は「食べろよ」となる。
「試せよ」は「食べろよ」のような用法で用いているのだろうか。
だとしたら、なれなれしいコピーで不愉快だ。
一方で、「食(しょく)する」の命令形なら、「食せよ」となる。
「試せよ」の「せよ」を「食せよ」の「せよ」のように用いているのなら、これは文法に従えば誤りである。
あるいは、「試(し)する」という名詞+「する」型の言葉があるのかもしれない。
これなら、「試せよ」は「試する」の命令形となり、文法的に正しい。
しかし、僕の持っている辞書には「試する」という言葉は載っていなかった。
このような思い煩いから言えることは、「ここまで人を悩ませ印象に残るこのコピーはおそらく優れている」ということだ。
今後、文法の曖昧さをついてくるコピーが増えるかもしれない。
ちなみに、僕はたぶん「絶妙ハンバーガー」をすすんで食べない。
もし食べることになったら、「ねぎ抜きで」と言おうと思う。