曇天の続き

Diary > 2008 > 05 > 04 > | Prev < Calendar > Next | RSS 1.0
2008-05-04 Sun.

不図

2008-05-04

僕は、かなり吝嗇な方だと思う。
「けち」に関するエピソードは多々あるが、実は最近この日誌上でも「けち」ゆえに引き起こした失敗がある。

先日の日誌で「映画を見ている途中で、エンディングを知っていることを思い出した」ということを書いた。
その後の話だが、佐藤正午のエッセイ集「象を洗う」を読んでいると、「ポール・ニューマンの「評決」のあるシーンを見て、「評決」を既に見たことがあるのを思い出した」という記述が出てきた。
ディテールは異なるが、僕の書いたことと状況はすごく似ている。

この現象について、「よくある出来事を書いたから、偶然似てしまったのだ。大体、誰にでも起こりそうな取るに足らないことを書いているこの日誌に意味はないから、書くのをやめろ」という意見が出てくるかもしれない。
それはまあそうなのかもしれないので、とりあえずその意見を大切にしまいこむ。
一方で、僕はむしろ、この現象を別の側面から捉え、考え込んでしまった。

そもそも、佐藤正午のエッセイ集を先に読んでいたら、先日の日誌のようなことは書かなかっただろう。
もし書いてしまえば、佐藤正午ファンを(たった4年前からだけど)公言している僕が、佐藤正午の文章を剽窃している、と見なされる可能性があるからだ。

でも、僕は本当に「象を洗う」を読んでいなかった。
だから、起こったことを「自分に起きた出来事」として何のためらいもなく日誌に書いた。

佐藤正午のエッセイ集は2001年に刊行された。
しかし、著者のファンである僕はつい最近になるまで読んでいなかった。
なぜか。

それは、当初刊行された単行本を買うのが惜しく、文庫本になるのを待っていたからである。

僕はめったに単行本を買わない。
「単行本は場所をとる」とか、「装丁にはあまり興味がない」とか、「持ち運ぶのに不便だ」とか理由はいろいろと挙げることはできる。
でも、最も大きな理由は「単行本は高く、文庫本は安い」からである。
有名な作家の本であれば、時間が長くかかるがいずれ文庫本になる、という考えから、単行本を買わないことが多い。
たとえ、どんなに好きな作家であっても、文庫本になるのをじっと待っている。

存命の職業作家が聞けば、大いにむかむかする話だと思う。

知らなかったとはいえ、自分の書いたものが他人の文章表現に似通ってしまったのは、僕のミスである。
「けち」であることが原因で起こる失敗を経験する度に、「もう「けち」であることはやめよう」と思うのだが、自分の「けち」が直ったという自覚は今のところない。

Link
Diary > 2008 > 05 > 04 > | Prev < Calendar > Next | RSS 1.0