曇天の続き

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2024-03-23 Sat.

賭労

2024-03-23

興味深いニュースがもたらされた。

真実よりも動向が気にかかる、というテーマにうってつけの話題だ。
世論がスーパースターを守っていく算段を見出すのか、風向きが変わるのか。
国外の情報に疎い自分もあり、どこに落ち着くのか想像がつかず、今後の展開を見ていきたい。
あるいは、国外に行くから通訳などが介在するのであって、風向きが悪くなるのであれば、戻ることを考えてもいいのだろう。
ちょうど「PAO~N」で、「大谷選手はいったい何をすれば失敗となるのか」との話題が出ていて、「そうか、金があった」という思いつきやすいありきたりなスキャンダルが出てきてしまった。

規模は圧倒的に小さくなるが、自分の金の件を話す。
事情があって、この2週間で大きな出費が続いた。

金を使うと、身を斬られるような気がしてならない。

これでも、「資産と費用は似通った概念である」という考え方を身につけているつもりだ。
資産は費用に変化するが、表の左側の中で呼ばれ方が転じるだけに過ぎない。
費用は資産として留まっている、という考え方もできるわけである。
それが費用であっても資産であってもいいので、表の右下部を厚くすることに寄与させればよろしい。
「資を産む」からこそ、「資産」なのだ。

このように自分に言い聞かせても、購入により選択の自由が減じ、物象化されることは苦しい。
どうであれ購入後は、悔いを抱えながら過ごすことに、必ずなる。
しかしながらそれは、なかったに違いない「可能性」を手放したように錯覚しているだけなのだ。
とにかく、収益までたどりつくまで、気を抜くことは許されない。

そういうわけで、キャッシュの具現化はできるだけ回避することになる。
つまり金をモノに換えずに済ませようとし、ましてやコトに換えることなどするわけもない。
「コトに換える」とは結局、持っていた金がよく知らない人の「遊ぶ金」に化けるだけで、気に食わない。
一般的に記憶は資産となるのだろうが、そんなことが僕に適用されるわけもなく、記憶は苦しみを産むに過ぎない。

それゆえ僕は、有価証券を信仰することになる。

年初までに本年の投資計画を立て終わり、後はそのプログラムを実行するのみである。
改めて計画を見直すと、計算ミスが発覚し、投資可能額を過大に評価していた。
誤りを正し、クレジットカードからの積立金額を調整したら、本年の投資活動は終わってしまった。
同じことを何度も書くが、投資は実につまらない。

新NISAが始まるということで、2023年の年末から、投資に関する記事を多く目にした。
投資の具体的な商品を薦めるものもあり、S&P 500だ、オルカンだ、インデックス投資だと、どれも一律同じような話ばかり。
これを書いて、どこからかフィーを取っているわけだろうけど、そんなに実入りのいい商売ではないと推察する。

それにしても、同じ商品を一様に薦める動きは、見ていて無責任さを感じる。
なぜ薦めようとするのか、そもそもその気持ちをよく理解できないのだが、こんなにも国外投資を促して、「国賊」のそしりを受けないものだろうか。
円の価値は下がるし、割安になった株式は国外の投資家に購入されるし、それで一部はなぜか盛り上がるに至る始末。
国内にはもう売るものが乏しいようにも見え、暗い気持ちになる。
おかげで僕は、勤労生活のつましさと、投資評価額の不確定性との板挟みにあい、身がちぎれそうになる。
せっかくNISAも改まったことだし、投資家の皆さんはご自身の目利きを信じて、個別株を吟味し、国内企業の応援を身をもって表現すればよろしいのではないか。
よく知らないのだが、それこそが投資の醍醐味であるとともに、お国のため、みんな大好き愛国心、大和心、かぜとゆき、流転のCROSS FMというものではないか。
正義感からなのか、怖いもの知らずなのか、よくも声高に、国外投資を薦められるものだ。
僕ですら、個人向け国債を買って、給付金を受領している、あるいは給付金で国債を買って、国庫に還流している。

「じゃあ、お前はどうなのか」と問われると、僕は僕で国内市場でリスクを抱えつつ、国外の市場に一縷の望みをつないでいる。
5年ほど前からその傾向を強めてきており、すでにプログラムを選択し終えているといってよい。
「自分の生活が第一」と考えてきたし、そのことを恥じることはない。

だけど僕に出来る事は、有価証券を握りしめ、跪く。
NISAもiDeCoも歓迎する気までにはなれないけれど、ルールを理解し合理的に動きたい。
節制が産んだ余剰はすでに市場に委ねられたのだ、また逢う日まで、逢える時まで。
自分の方法を他人に薦めるつもりもないし、選択のそのわけは、話しーたーくーなーいー。
願いだけは明確にあって、市場がより公平で、僕のような弱者でも参加できるようであれば望ましい。

最初の話に戻るけど、ギャンブルが怖い。
やる必要のないことに手を出し、すべてを台無しにしてしまい、教科書に載る機会もふいになる。
みんな必ずfreakであり、なにかしらのfreakである。
「そこまで言ってしまわなくても」とbonnie pinkに尋ねたくなったが、一方で聴いてきた僕が25年以上そう思ってきたのも確かだ。
あの時は、「Blue Jam」ばかり聴いていた。

ギャンブルには手を出さない一方で、投資の考え方を身に着けておく必要がある。
よく考えれば、人生の選択は大小あれどもギャンブルである。
有り金や機会を賭場にさらし、自分のドライブも多少はあるにせよ、選択後は偶然に身を任せるところも大きい。
そして、実入りを確保し、延命し、次の機会に備える。
この営みと、怖いと思うギャンブルの違いは何なのだろう。

ギャンブルが怖いのは、際限がないからだろうか。
「1回いくら」というのがない。
どこまで掛け金を積んでも満足することはないし、負けて得られるのは経験と評判と借用書から伸びる首輪くらいだ。
ギャンブルの勝ちは次のギャンブルにつぎ込まれ、ギャンブルの負けをギャンブルで取り戻そうとするのも、終わりがなくて怖い。

「賭け事をやらないから、賭け事の神髄がわからない」と言われれば、その評を受け入れよう。
それゆえ、ギャンブルとは何かを語る資格が僕にはない。
僕は、ギャンブルも競争も勝負も苦手で、縁遠く、それに巻き込まれなくてもいいような生活を希求し、行動している。

投資においても、何度も考えたけど、やはり資金を借りてまでして投じることは控える。
これもよく考えれば、すでに別のところで金を借りて生活を続けていると言え、そのリスクを重ねるのは避けたい。
自分が手掛ける事業なら、他者からの資本の確保も選択肢に加えるだろうし、失敗してもセーフティネットが用意されている。
ローンを組まなければ、学費の工面は非現実的だったし、学校に行っていなければ、今ある生活は考え難い。
しかし、他人に投資するにあたり、その金を貸してくれる、という話があれば、少々怪しいと考えるのが自然だろう。
その投資が適切なら、金を貸さずに直接投資すればいいところを、わざわざ金を貸してくれるのだから、凡庸な僕には見えてないリスクがあると言えよう。
「あなたはレバレッジの神髄を理解していない」と言われれば、こちらもその通りである。
つまらない人間である。

投資で得た利益を次の投資に率先して回すことはしており、これはギャンブルの考え方に近い。
出資を募る者自身が「複利が大事」と説くのは実に怪しいが、いったん手放したと考えれば、複利は自動的についてくるものだ。
首輪をつけられるのではなく、首輪のひもを握る側でありたい。

でも、最近は残り時間もわずかであることを自覚し、金を使うことも考えている。
先延ばしできればいいけれど、いずれは全資産を国内に引き上げる時が来る。
みんな必ずFIRE、と、スティービー・ワンダーも歌ってた気がする。

そして今は身を斬る思いをして、クレジットカードを端末に差し込んでいるのだ。
いつかカードが抜けなくなり、我が身が端末に封じられるんじゃないか、とすら思う。
実質的には、それに近い状態にある。

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