曇天の続き

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2016-12-16 Fri.

望宙

2016-12-16

新日本製鉄が生産主力を北九州から君津に移すにあたり、多くの児童も親に伴って君津へ旅立った。
多くの別離があり、児童数は減少した。

僕が小学校に入学したのは、1984年4月である。
入学してから、小学校教師から何度か、上記の話を聞いたことがあるが、それは1970年代のころの話である。
僕が小学校に入学したころは、もうその動きは収まっていたし、第2次ベビーブームの終わりかけであったこともあり、児童数の減少には拍車がかけられようとしていた。
何せ、教室の空気清浄機も動いておらず、その存在理由すらわからなかった状況だったのだ。
ただ、街のところどころに見られた空き地は、新日鉄の社宅や施設がなくなった跡地だ、ということは、何となく理解していた。

新日鉄の遊休地にスペースワールドができたのは、1990年である。
その前年にRKBで「無重力クイズ・スペースチャレンジャー」が放送され、スペースキャンプの体験が身近でできるのか、と心躍ったものだ。

開園以降何回か行ったはずだが、中学校の遠足以外、誰と何の目的で行ったのか全く思い出せないところ見ると、大した思い出もないのだろう。
しかしながら、「宇宙」をテーマとしたテーマパークが故郷にある、というのは誇りであった。

僕は、1998年の成人式に(安西ひろこではないので)1度だけ参加する世代である。
北九州市の成人式は、1998年にスペースワールドに場所を移して実施され、その後もしばらくは続けられた。
市がやることとしては珍しくまともである、と当時は思った。
残念ながら、と言っていいのだろうが、僕は、北九州市の成人式には参加しなかった。
1998年の成人式は記録的大雪に見舞われ、TVで眺めている限り、スペースワールドでの成人式はつらそうだった。
それがまさか、仮装大賞の審査員が集うような、現在の成人式につながってしまうとは、未来はわからないものだ。

1999年に鹿児島本線が付け替えられ、スペースワールド駅ができた。
僕はあの枝光-八幡間の、グリーンベルトをゆっくりと回り込み、中央町が見切れる経路が好きだったのだが、なくなってしまえば今の経路にも慣れてしまうものだ。

北九州博覧祭2001があり、新日鉄から加森観光に経営が移り、「災害地の廃棄物を受け入れているから」という理由で、ある小学校が修学旅行を取りやめるという侮辱を経てもなお、スペースワールドは全国に知られており、しかも「がっかりスポット」でもないことにも、満足を得ていた。

「スペースワールドが、2017年末で閉園」というニュースを聞き、少し落ち込んで、思ったことが2つ。

1つは、空き地である。
最近の北九州の話題と言えば「空き地をどう活用するか」ということが多くを占めるような気がするが、それはさておき。

八幡東区は、山の斜面に作られた住宅地が多い。
大変趣きのある風景ではあるのだが、居住者には高齢者が多く、日ごろの生活にも不便な思いされていると聞く。
市は対策を打っており、手すりをつけたり、乗り合いタクシーを走らせたりしている様子。

そういう斜面地の生活に苦慮されている人たちに移住していただくための住宅を建てる、という案はいかがだろうか。
「また住宅事業か」という気もするのだが、今の僕が思いつくのはこれくらい。
何を作っても、外から人を呼ぶのは難しいみたいだし。

もう1つは、スペースワールド駅の名称である。
「東田駅」が妥当なのだが、世界遺産のからみもあり、ここは当初検討案にあった「1901駅」にするのはいかがだろうか。
また、小倉駅を「北九州市駅」にしようとした不穏な動きを抑制するために、スペースワールド駅こそ「北九州市駅」にしてしまい、駅前に市役所を移設する、というのはどうだろう…。

まあ、「どうだろう」と言っているときは、ふざけた意見を表明しているときなのだが…。

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