茶碗
2014年のこと。
東小金井のベーカリーカフェでコーヒーを飲むことになった。
店員が持ってきたコーヒーが注がれたカップには、取っ手がなかった。
「熱いのに、どうやって持つんだよ」という漫談は、その後何か所かで披露された。
ボル、である。
実際には「ボル」と呼ばれるものらしい。
この事実を、僕はまた佐藤正午の本から知った。
進歩しているのは、今の僕は、単行本である「小説家の四季」を読んでいることである。
つまり、文庫化を待たなかったおかげで、「ボル」のことを今知ることができた。
もっとも、単行本で読んでいる理由は、公立図書館で借りてきたからである。
「小説家の四季」には、「ほくろ理論」についても記されている。
鏡でいつも見なれている自分の顔に、ある拍子でほくろがあることに気づく。
視界に入っていたにもかかわらず、昨日まで見えなかったものが、突然見える。
1年位前の朝、僕はひげをそっていて、上唇の上に大きなほくろがあることに気づき、「こんな三宅裕司みたいなほくろがあるわけがない」と錯乱したことがある。
何人かに錯乱ぶりを説明したが、すべての人の答えは「前からあったんじゃない」であった。
すでに知られていることを、さも自分が発見したように騒ぎ立てる。
恥ずかしいことだ。
人のふりを見ても、恥ずかしいことだと思う。
ところで、佐藤正午は言葉の正しいつかい方にこだわりを持つ。
気になる言葉があれば辞書を引く。
小説家として当然の行為なのであろうが、矜持を感じる。
そんな佐藤正午でも、ごくまれに間違ったものが世に出てしまい、ひどい非難を浴びたこともある。
それでも、間違うのは、言葉に対して真摯な態度で臨む過程があるからである。
百の発見があっても、一つの間違いがあれば、間違いだけを取り上げられて責められる。
そういうものだ。