曇天の続き

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2016-04-23 Sat.

誤審

2016-04-23

「自分に向かない職業」を考えると、上位に上がるのが「審判」である。

過去から現在に至るまで一貫してそうなのだが、自分の記憶力には自信を持てない。
比較的広範囲にわたる知識の保有で周囲から重宝されているのは事実だが、実は記憶していることはごくわずかである。
ほとんど場合、その乏しい記憶から論理的推量することで賄っているに過ぎない。

「これは正しい」と自信を持って言えるのは、さかのぼって根拠を確認できる状況に限られる。
何かについて語る場合は、「ここにこう書いてある」というのを確認しなければ、不安で仕方がない。

だから、少し前に起こったことについて、後から確認もできない状況で判定する「審判」など、決して務まらない。
例えば、野球の審判をすることになり、ストライクかボールかを判定する場合、VTRで再確認できる状態でもない限り、判定をすることを避けたくなる。
テニスのイン・アウトの判定など、もってのほかだ。

このことは、審判とは縁遠い日常生活でも不自由をもたらす。

ほんの5分前に会った人の顔は、すでに覚えていない。
全く覚えていないわけではないが、その記憶が正しいか確認できない状況では、記憶に自信を持てない。
名刺をもらっていれば後から名前を確認できるが、名刺がなければ自己紹介をされていたとしても、記憶している名前が正しいかどうか判断できない。
打ち合わせで最初に自己紹介をされても、相手の名前を記憶している自信がないので、決して名前を呼びかけられない。
実際、2年以上同じ部屋で働いている人を、職場の1階のエントランスで見かけたとき、顔を見てもその人かどうか自信がなかったので、声を掛けなかったことがある(オフィスに戻って、その人に確認して、ようやく確証を得られた)。
合コンなど、絶望的だ。

後から確認できないことは、全く自信を持てない。
過去の記憶を引っ張り出してきて、その場その場で判断できる人が本当にうらやましい。
うらやましがっているだけでは問題は解決しないので、こまめに記録を取り、都度確認することで補っている。
ただ、記録するほど重要だと思う事象が少ないので、結局、後から確認できることしか取り扱わない生活にとどまってしまう。

ところで、僕が自信をもって記憶していると言える円周率の桁数は、小数点以下6桁である。
あと4桁記憶しようと何度も試みているのだが、どうしても覚えられない。
3.1415926535…、とここに書いておくけれど、たぶんまた忘れてしまう。
「6535」なんて覚えやすい、といつも思うのだが、定着しない。

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