省読
2016-02-19
小学生の頃はかろうじて小説を読んでいたが、中学生や高校生の頃に読んだ小説はほんのわずかである。
思い出すと、
- 「クリスマス・キャロル」
- 「こころ」
- 「砂の女」
ぐらいだ。
僕は、ほとんど人と接することもなかったうえに、小説や物語にも興味がなく、中高生のころはTV番組をただただ受動的に見ていた。
それゆえ、他人の気持ちがわからないのだ、わかろうともしないのだ、と反省している。
今からでも取り戻そう、と思い、以前、高校の国語の教科書を開いたことがある。
その時は、とても失望した。
教科書は、ほぼテキストが載っているだけだし、評論文に至ってはパラグラフの概念がなく、僕が後年に教えられた、ダメな文章の典型例だった。
僕が出会った国語教師は、(一部を除いて)一体何を教えてくれたのだろうか。
彼らは、「自由に鑑賞しろ」とか「気持ちを想像しろ」とかいう一方で、試験には○×を与える、支離滅裂な人たちだった。
そして、独学ができない教科書は、価値が著しく低い。
数学や物理は、授業中に自分のペースで読み進めて独習することができたが、国語はそれが通用せず、苦痛だった。
国語の教科書を読み返しても、得られるものはローマ字表記の仕方という、前時代的なテクニックだけかもしれない。