減衰
僕が小学生の高学年の頃、怒られていた原因の一つに「やる気を出せ」というものがあった。
僕は怒られたことを素直に受け止め…、というより怒られるを嫌って、やる気を「出した」。
僕は、今でも不思議に思う。
やる気を出さないことは、怒られる理由になるのだろうか。
実際に怒られたのだから、理由にはなるか。
では、人は怒られてやる気を出すようなものなのだろうか。
そもそも、やる気とは自身でコントロール可能なものなのだろうか。
少なくとも子供のころは、CMのように、「やる気スイッチ」を探してもらう必要があるのではないか。
「やる気スイッチ」は、感情的に叱責することにより押されるのだろうか。
まさか。
結局、「やる気を出せ」と言われて僕がやっていたことは、やる気を出している「演技」であった。
本心は渋々やっていたが、その態度を見せると面倒なことになるので、懸命にやっているふりをした。
自然と身についた、くだらない処世術に過ぎないのかも知れない。
でも、多くの人がその「演技」を求めているのも事実だ。
僕は、今でも悩んでいる。
世の中の多くのことに対して、意欲がないことに。
わざとやる気を出さないわけではないし、不真面目な態度を貫こうとしているつもりもない。
普通にやっていて、そして純粋にやる気が出ないのだ。
やる気の出ない理由の大半は。興味がないからだろう。
興味がない理由の一つは、パフォーマンスが出ないからだと思う。
いいパフォーマンスを上げることができれば、自然にやる気は出てくるはずだ。
パフォーマンスを出すためには、工夫したり試行錯誤したりする必要がある。
それには、やる気が必要だ。
懸命にやらなければ、真の楽しさはわからない、と主張する人たちがいる。
それはそうだと思う。
その一方で、僕の保有する資源は限られている。
懸命に取り組もうと考えていることを僕はすでに見つけており、その他のことに回すほどの情熱を持ち合わせていない。
つまらないことに楽しさを見つける労力があるのなら、それを楽しいと感じていることに費やし、自分の能力を高めたい。
いずれにせよ、こんなことを今も続けていてはまずいように思う。
意識や感情、価値観ではなく、結果やプロセスで評価されることを望むのだが、そう望むのも無駄に終わりそうだ。
早く終わらせて、自分の時間を手にしよう。