再学
忌まわしき思い出とともに多くのものを廃棄してきた中、自宅にかろうじて生き残っている高校時代の教科書を手に取ってみた。
「現代社会」の教科書には、政治・経済に加えて倫理に関する章が設けられており、文化の創造、青年期の課題、思想と真理、青年と人生、といった項目が並んでいる。
そして、全体のまとめとして、「民主主義の課題」。
恐ろしいくらい、学んだ記憶がない。
読み返すと、なかなか面白い。
人生の意味がわからなければ、よりよい社会人になるための知識や技術を習得することの意味も、ほんとうに納得したことにならない。人生などつまらぬものだと思っている人は、よりよい社会人になることなど何の意味もないと思うだろう。しかしわたしたちは、知識や技術の習得と並行して、人生の意味をさらに考えなければならない。
中高年世代に義務教育を課し、この本の内容を叩き込んだ方がいいのではないか、とすら思う。
「現代社会」の内容に一定の満足を得られたので、期待をして「国語」の教科書を開く。
しかし、期待に反して、「国語」の教科書に書かれていることのほとんどはどれも僕の興味を引かなかった。
少なくとも、読書の楽しみを学べることはない。
国語の授業とは、忍耐を重ねてつまらない文章を読む訓練を積む場だったのだ、と改めて知る。
その訓練が、社会に出ても役立っている。
加藤周一の評論「日本文化の雑種性」が掲載されているのだが、改めて読んで特に驚いた。
2ページ以上にわたって段落が全くない。
細かい文字がぎっしりと詰まっており、パッと見だと、とても読む気になれない。
(たぶん)読み応えのある文章である(と思われる)のに、現在の基準に照らし合わせると、形式面から言って悪文の代表格にあげられることだろう。
国語の教科書を読んでも、「この文章は面白いから、同じ筆者が書いた別の文章を読もう」と思うことは少なかったし、今読み返してもそんな考えを持つことはなかった。
古い知人に「この筆者の文章はいろいろな入試に出ているから、他のも読んでおこう」と発言した者はいたし、同じ理由で読書を露骨に勧めた国語教師もいたのだが。