曇天の続き

Diary > 2009 > 12 > 07 > | Prev < Calendar > Next | RSS 1.0
2009-12-07 Mon.

宿題

2009-12-07

中学生のころ、僕の朝の「仕事」は、学校から自習として与えられた問題を解く、ということだった。
「仕事」と呼ぶには理由があり、そこには責任があったからだ。

僕が問題を早く解いてしまうので、クラスメイトはそれを見せてくれとせがむ。
僕は解答を見せ、クラスメイトは写す。

自分の力で解く人はもちろんいたけど、そういう人は人間ができているので、我々は決して見習おうとしてはならない。
誘惑があれば、誰だって楽しようとする。
僕だって、同じようなことをして、英語の宿題でお茶を濁し、いくつもの英単語テストを乗り越え、果ては大学の単位まで…はどうかな?

ただ、これには問題があった。
僕が解答を間違えてしまうと、僕の解答を写した人の解答はすべて間違った解答になってしまうということである。
まるで、バグだ(実際、大学の講義でプログラミングの課題が出たとき、バグが含まれていた僕のプログラムを他の人が写し、プログラムの誤動作が広範囲に広がったことがあった)。

だから、数学の問題であれば、解答を出しても検算は欠かせなかった。
責任があった、という理由はそこにある。

それでも別に良かったのだが、教師には一応次のようにお伝えしていた。
「管理されていない状態で解答を見せ合うのは容易です。だから自習の正誤による成績評価には反対です」
そうでも言っておかないと、割に合わない。

教師の方々に考えてもらいたいのだが、人の答えを容易に写して済ますことができる宿題を出すのは全く構わないけど、それで成績を評価するのは問題を含んでいる。
評価の対象になる宿題とは、例えばオリジナルな考えを求められるレポートや、せいぜい漢字の書き取りくらいだと思う。
だいたい、宿題を見越したカリキュラムってどうなんだろう、放課後の自由の侵害ではないか…。

…と思ったけど、本当のところはどうだろう。
漢字の書き取りは下請けに出せばいい、と悪知恵を働かせる小学生がいるかも知れない。
レポートも、資料集めは人に任せられるし、それ以前にアイデアを自分で出さずに他の人に捻出させることだって、やろうと思えば可能だ。
クラスメイトに複数の異なるアイデアを出させて、それを拝借して、自分の意見としてレポートに仕上げてしまえばいい。

社会に出ると、そういう例が結構見受けられるように思える。
自分のアイデアがいつの間にか他の人の手に渡り、勝手に改変されて、挙げ句の果てに下請け作業を押しつけられてしまう、成功したらその人の手柄、失敗したらこちらの責任。
そう感じてしまうのは、僕がストレスによる強迫神経症にでもなっているからかも知れない。

Link
Diary > 2009 > 12 > 07 > | Prev < Calendar > Next | RSS 1.0