裏読
2009-08-27
ソ連時代、クレムリン・ウォッチャーは、共産党機関紙プラウダを血眼になって読んでいた。
記事に書いてあることに注目するのではなく、何が記事に書いていないかに注目していた。
実力者の名がある日突然プラウダに載らなくなったのを発見することで、その実力者の失脚を知ったのだ(野口悠紀雄「「超」文章法」(中公新書))。
ところで、冷戦も終わり、僕はのんびりテレビを見ている。
僕には世界情勢を読む必要もないし、読む器量もない。
そんなある日、テレビに、キーボードの前で歌っている女性アーティストが出演していた。
所属バンドが30周年を迎えて、夫も同じバンドのミュージシャンで、メンバーの1人が何らかの理由で辞めたあのアミューズメント的なバンドの人だ。
ふと気がついた。
そういえば、この人はキーボードを演奏する有名なアーティスト。
清水ミチコがモノマネをしていてもおかしくない。
だけど、僕はそのモノマネを見たことがない。
もしかしたら、清水ミチコのレパートリーにはないのかもしれない。
十分特徴もあるのにマネをしない。
これは、何らかの圧力や陰謀があるのだろうか…。
つまり、世界は平和だ、ということだ。