諦観
子供の頃、NHKで「九州のうた」という番組が放送されていた。
美しい九州の風景をバックに、九州にちなんだ歌を流す、5分か10分の番組である。
2009年現在、まだ放送されているようだ。
この番組で流れていた「筑豊の子守歌」という歌が、僕は好きだった。
こんな歌である(音量注意)。
この歌の
ボタ山のある町 お前の生れたふるさとよ
という部分。
僕は自分にこの詞を重ね合わせ、何とも言えない気分になっていた。
何だか、諦観を感じさせる詞だな、と感じたのだ。
「所詮おまえはボタ山のある町の生まれ、その事実からは逃れられない」
といったような感じで。
こういう感覚は、ボタ山のある町に育たなければ理解しがたいと思う。
とはいえ、実際のところ、僕はボタ山のある町で生まれ育ったわけではない。
「小倉生まれで 響灘育ち 今日は荒井が 皿洗い」である。
両親の実家に行くたび香春岳が削れていくのを見てきたので、何だか自分もボタ山のある町に育った気分になっていただけだった。
バカリズムや中ノ森BANDの中ノ森さんとはちょっと違う。
ところで、ある知人が小倉に実際に行って、こんな感想をくれた。
「煙モクモクだった」
市街地から、白い煙を吐く工場地帯の煙突をのぞむことができるのが小倉である。
それが一般的な都市の光景だと思って、僕は育った。
でも、大抵の街において、工場地帯の煙突なんて見えることはないのだ。
「煙突とガスタンクのある街 お前の生まれたふるさとよ」
そういえば、我が家の先祖代々の墓は、ボタ山のある町に存在する。
近いうち、僕もボタ山のある町で永眠することになるだろう。
小倉を歌った「あばれ太鼓」の中で、坂本冬美もこう歌っていた気がする。
「どうせ死ぬときゃ 田川やないか」
結局、バカリズムや中ノ森BANDの中ノ森さんと同じ結末である。
受け入れなければならない運命だ。