此方
大阪の小学校でひどい事件が起こった.
この事件で思ったことが2つある.1つは,地下鉄サリン事件の時から感じていることだが,刺した人間は自分たちとは関係ないところの住人ではなく,僕らの側の世界から生まれたのだということである.ふだんの生活の中で,自分は故意に人を追いつめたり,無意識でも不当に扱ったりしてはいないだろうか? そうした態度が新たな犯罪者を生み出しているのではないだろうか? 最近では,刺した人間は自分とは全く別のタイプの人間なのだという意見を受け容れられなくなってきている.むしろ周囲によくいるタイプの人間が外的な環境の要因によって変えられてしまったのではないだろうか,と考える.もう1度言うけれど,これは全く対岸の話ではないと思う.
もう1つはインタビューに答える子供達についてのことだ.低学年にもかかわらず,とてもしっかりと(容疑者が教室に入ってきた様子や服装,刺し傷の箇所など)答えている.トラウマだ心のケアだと叫んでいるにも関わらず,子供達に状況説明を強いる報道もどうかと思うが,淡々と語る賢そうな子供達も印象的だ.
テレビでは,小学校の近所でスーパーマーケットのレジ係として働いている女の子に,仕事中にもかかわらず報道がインタビューしていた.こういった場面を見てよく思うのだが,事件も目撃した第3者みたいな立場の人間はインタビューを断ることができるのだろうか? 僕はこういう場面ではできるだけインタビューなんて受けたくない.話すことで生じる責任に対し何の対価も払うことができないからだ.この場合,女の子は仕事中なので逃げることができない.とてもずるいやり方だと思う.インタビューを突っぱねることはできるかもしれないが,そうするとマスコミは「何で答えないんですか」と怒鳴り出すような気がしてならない.テレビ映りを考えてもインタビューの拒否などしたら「容疑者の肩を持って」という印象を受ける視聴者が多いのではないだろうか? 仮に犯人が捕まっていなかったりしたら「やましいことがなかったら何でもしゃべれるだろ」と思うかもしれない.このロジックを僕は絶対に受け入れることができない.むしろ,関係のない人間がぺらぺらとしゃべることに対して嘔吐感を持ってしまう.
生産母体が僕らの側の世界にある以上,原材料があれば犯人がいつまでも生み出されるだろうな.生み出さないようにするには世界の構成員である僕らひとりひとりが考えていかなければならない.
この事件の被告は死刑が言い渡され、速やかに執行された。 事件以後も多くの子供達が被害に遭った。 未解決の事件も残されている。 罪のない子供と、抑えきれない衝動。 どちらもこちら側にあるものだ。
(2008-03-15)