ものは試し

初海外!故郷はネパールだった?

ポカラの1日(2002-11-30 Sat.)

6時ごろ起床。
何とか気持ち悪いのも収まった。

朝食前にご来光を拝むため、近くの山頂まで出向くこととなった。

山頂に上っては見たものの、なかなか日の出は姿を現さない。
山の嶺に、雲が少しかかっているようにも見える。

すると、どこかから大阪弁らしきおっさんの声が聞こえる。
日本人の観光客のようだ。
いたるところに日本人はいる、とは聞きなれたフレーズだが、ここまで来ているとは思わなかった。
人のことは言えないけど。

20分くらい待った後、ここまで我々を引っ張ってきたネパール人のガイド役の人が「みんなで写真を取ろう」と言い出した。
僕はここまで来て日の出を見逃したくなかったので、かたくなに反対したのだが、流れ上仕方なく写真を撮ることになった。

すると、写真を取っている間にものの見事にご来光を見逃す。

僕はすごすごと山を下り、コテージに戻った。

コテージの朝食は、何とか食えたものだったので、腹に入れる。
それでも、量は入らない。

コテージの周辺を散策していると、友人が突然「あごが外れたらしい」と言ってくる。
それなのに、結構平然としている。
これがもし僕の身に起きていたら、おそらくパニックを引き起こし、周囲に多大な迷惑を与えたであろう。
神様は、お試しになる人間をちゃんと選んでいらっしゃるのだ。

ちょっとした景色のいいところで、思わず僕が口にした一言。
「この景色、日本の盆地でもいたるところで見られるよね」

そして話題は、日本に帰ったら何を食べるかという話題になる。
すし、そば、ラーメン…。
そこで、このネパール旅行における最高の金言が、誰かの口から発せられることになる。

「あー、ここに「てんや」があったらなー」

ポカラの山上で発せられたこの一言が、我々の尊厳を支えていた最後の支えを崩壊させることとなった。

1時間半ほどかけて、コテージから山を下る。
道をガイドしてくれた少年が異常な速さで山を駆け下りるのを見て、異国の地にいることを再確認する。

好意的に言って、この景色はいいものだったと思う。
何が栽培されているかわからないが、日本では見られない段々畑に心が洗われたのは事実である。

山を下りきると湖が現れた。
そこからボートに乗って、もと来た場所まで戻るという。
我々は何艘かに分乗して、目的地を目指した。

ところが、僕の乗ったボートだけがやけに遅い。
他のボートとどんどん差がついていく。
見れば、漕いでいるのはかなりのおっさんである。
そんなことがあっても、僕はもう動じない体になってしまっていた。

結局、先行のボートから遅れること15分で目的地には到着した。

そこからバスに乗って、昼食を取りに行くという。
空腹の限界に来ていた私は、今度こそうまいものが食べられると期待した。
人間は、どれほどの窮地に陥っても学習しないものである。

バスに乗ってたどり着いたところは、とある民家だ。
ここで昼食を食べさせてくれるのだろうか。
そう思って中に入っていくと、何の用意もしていない。
尋ねてみると、ここはガイド役のネパール人の実家らしい。
実家をただ見せたかっただけのようだ。
こういうこと、どっかであったな。

バスはさらに進み、市街地の小屋にたどり着いた。
ここで昼食となるらしい。
とてもレストランには見えなかったが、どうでもいい、早く昼食を…。

「豆カレー」だった。

ほとんど食事の進まない僕を横目に、この旅行で結婚することを発表された先輩はぺろりと豆カレーを平らげた。
バイタリティーが全く違う。

夕食までフリータイムとなり、土産物屋スポットで土産物を買うことになった。
どの店に入っても、ほとんど値札がついていない。
この国はどこに行っても、値札というものがない。
店に入れば、ミネラルウォーターであっても一から値段交渉である。

それでも、僕は思いつく限りの人間に土産を購入した。

そして、夕食。
近くのレストランに行くことになった。
この店で出てきたのは…。

「豆カレー」。

他のテーブルを見たら、違うものが出ているというのに、我々のところにはなぜか「豆カレー」。
振り返れば、ここまで案内しているガイド役のネパール人が「バフのモモ事件」を引き起こしたんじゃないのか。
なぜ、あれほど言っていた「バフのモモ」を出さない。

僕はこのときひそかに心に決めた。
「もう餓死してもいい。豆カレーは食わない」

レストランでは出し物が披露されていた。
「アフー アフー」とどこかで聞いた声。
バンケットでネパール人がやった出し物の出典はこれだったのだ。

ホテルが定員オーバーのためなぜか湖畔のコテージに泊まることになった帰り道、(好意的に言うと)コンビニに寄って、チョコレートを買う。
レジがWindowsで動いているみたいだったので、「このレジはWindowsで動いているんですか」と尋ねると、レシートをくれた。
もう、どうだってよくなった。

確実に変な虫がいそうで、いつ強盗に襲われてもおかしくない簡素なコテージのベッドに、僕はシャワーも浴びずに(シャワーなんてあったっけ?)身を横たえた。

帰国の途(2002-12-01 Sun.)

なんとも爽快な目覚め。
そう、今日日本に帰るのだ。

車の天井の上に荷物を載せ(本当に落ちないのか、と何度も確認した)、我々は空港に向かった。

途中、湖畔で車が止まり、みんな車から降ろされる。
何事かとガイド役のネパール人に尋ねてみると、ここからの景色が最高だ、とのこと。
アルタでもないのに、そうですね、とつぶやいた。

空港に向かう途中、もう見慣れた感のある「何をやっているかわからない男たち」を道端に見ながら、帰国の途につける喜びに浸った。
このとき、僕の腕時計が既に日本時間になっていたことは、ほとんど知られていない。

空港で日本にいる両親と友人宛にはがきを出し、いよいよポカラの空港を発つことになった。
…また、あのプロペラ機である。

この時のプロペラ機、なぜかコックピットとのドアが開放されていた。
そのおかげで、カトマンズの空港に着陸するときは、墜落するのではないかというぐらい揺れる地面を前面に見せ付けられた。
(ちなみに、カトマンズ空港は世界有数の着陸の難しい空港だそうだ。このときは知らなくてよかった。)

いよいよ、出国。
僕には関係なかったが、みんなネパールの現地通貨を使い切るのに必死だった。
気づくと、ポテトチップスの袋がパンパンだ。
最終日になって、カトマンズが高地であることを思い知らされる。

しかし、ここはネパール。
簡単には出国させてくれない。
セキュリティゲートに長蛇の列ができている。
思えば、政変まで起きている国を出国するのだ。
かなりのセキュリティーチェックを受ける必要があるのもやむをえない。

このとき、友人は例の「大仏の被り物」が見つかりやしないか、かなり気を揉んでいたらしい。
確かに、見つかったら厄介なことになったのかもしれない。

およそ1時間遅れでカトマンズの空港を離陸。

さよなら、ネパール。

バンコクに着いて、トランジットの間にまず行ったことは、足つぼマッサージとレストランでの食事だった。
特にレストランでの食事はうまかった。
グリーンカレーとトムヤムクン。
僕を救ってくれた料理として、一生僕の胸に名を刻むことであろう。
そして、もちろんクレジットカードでお支払い。

しかし、最後にネパールはことごとくボケをかましてきた。
バンコクの空港でいよいよ搭乗という段になって、地上アテンダントが僕の名前を確認してこう言った。

「あなたはカトマンズに行くのではないのですか。カトマンズに戻るのではないのですか」

なぜ、こんなことを言われたのかいまだにわからない。
とにかく、僕とは別に先輩が一人空港に取り残されそうになったけど、全員で怪我もなく無事日本を目指すこととなった。

帰国(2002-12-02 Mon.)

午前7時、成田空港に到着。
日差しがまぶしい。

空港のATMで金を引き出し、スカイライナーで帰ることにする。
僕らのいない間に東北新幹線が八戸まで延伸した話をしたり、りんかい線が全線開通し埼京線と相互乗り入れした話をしたり、成田エクスプレスと途中の立体交差でクロスするのに驚嘆したり、日本を再確認しながら、日暮里に到着。
新三河島駅に戻り、僕の旅は終わる。

その足で回転寿司屋に向かい、すしをたらふく食らう。
本当は銭湯にも行く予定だったのが、銭湯は月曜で休みだったのが残念だ。

後日談

2002年末。
僕は、引っ越したばかりの実家に帰り、両親にお土産を渡し、帰国の報告をした。

母親は買ってきた紅茶を見て、「私こういうの飲めないのよね、知ってるでしょ」と捨て台詞を吐いた。

ネパールで買った帽子は、その後父親と祖父がかぶった。
おそらく、我々の祖先がかぶったのと同じように。
父親が帽子を大変気に入ったので、そのままあげることにした。
母親は、「決してそれをかぶって外を出歩かないように」と忠告した。

妹に買ってきた小さなかばんは、なぜか実家の壁に押しピンで貼られている。

学会でもらった記念の木の置物は、今でも「大切に」しまっている。

これが、僕の初めての海外経験である。

最後に、これだけは言っておきたい。

「僕は・ニッポンが・好きだ」

長文にお付き合いいただき、感謝する。