初海外!故郷はネパールだった?
出立前
東京都庁に出向き、パスポートを初めて申請する。
何日か経って、出来上がったパスポートに写っている写真は、どうみてもインド映画の端役みたいな顔だった。
ちょっとした手違いで、ビザの申し込みをまとめて行ってくれる人にパスポートを渡し損ねる。
なので、ネパール大使館に自ら出向き、ビザを申請することになった。
ネパール大使館は、目黒駅からバスで20分ほど行ったところにあった。
国旗が出ていなければわからない普通の民家のような建物が、ネパール大使館であった。
本当に民家のような玄関を開け、足を一歩踏み出す。
聞くところによると、大使館の敷地内はその大使館の国の領土になるという(間違っているかもしれない。日本の法律が通用しないというだけなのかもしれない)。
もしそうだとしたら、僕にとって初めての海外はネパール、ということになる。
ビザはその日のうちに受け取ることができた。
その足でバスに乗って、渋谷駅まで向かう。
初めての海外渡航となる僕に対して、心ある友人はいろいろなアドバイスをくれた。
曰く、古くなった服を持っていけ(現地で捨てることができるように)。
荷物を多く持っていくな(現地で購入すればいい)。
生水は飲むな(当然)。
僕が最も聞き入れたアドバイスは、父親の「外国に現金を持っていくな」という忠告だ。
外国ではカードが広く通用する。
現金を持っていては危険だ、と。
だから、僕はそれを忠実に守るべく、ネパールには現金を2万円しか持っていかないことにした。
当時、ネパールは政治情勢が悪く、毛沢東派という勢力が各地でテロを発生させていた。
加えて、出発の前年には王太子が国王など多くの王族を殺害した(とされる)「ネパール王族殺害事件」が発生していた。
出発にあたってさすがに遺書は書かなかったが、不安な気持ちがぬぐえるわけもなかった。
でも、なんやかんやで無事に帰国できるだろうと、楽観的な見込みを立てていた。
しかし、そんな考えはかなり甘いものであることを、ネパールに到達する前に早くも思い知らされることになる。
出発(2002-11-23 Sat.)
10時過ぎ、新三河島駅から、僕の海外旅行は始まった。
荷物は実家への帰省のときに使う布のバッグ。
スーツケースなんていう気の利いたものは用意できなかった。
金もないのでスカイライナーを惜しみ、特急を使って京成線を東行する。
11時ごろ、成田空港の空港第2ビルに到着。
旅の同行者と合流。
セキュリティゲートをくぐってから、みんなから「海外旅行保険に入った方がいい」という忠告を受ける。
なので、自動販売機で保険に加入する。
6000円。
この時点で、残り現金は14000円。
ATMはもうない。
タイ国際航空で一路バンコクへ向かう。
海外便ということもあって楽しみにしていた映画なんてやってなかった。
ビールは飲んだかどうか記憶にない。
こういう場合は、たぶん飲んでいるはずだ。
バンコク上空に到達。
僕の研究が、衛星写真からバンコクの都市化を解析する、というものだったので、上空からバンコク市外を見るのが楽しみだったのだが、見たところでどこが何だか全くわからなかった。
何も感慨もなく、空港に着陸(ちなみに、バンコクの空港は当時まだ古い空港だった)。
外国にはそれぞれ独特のにおいがある、というが、確かにバンコクは独特のにおいがした。
そのにおいがどんなものであったかは、ここでは言えない。
空港を出るとバスが待ち受けていた。
今思うと、タイから研究室に来ていた留学生が手配してくれたのだろう(たぶん)。
だとしたら、とても感謝する。
空港を出て、高速道路なのか何なのかよくわからない広い道を市街地とは反対方向に進む。
どこに行くのかと思いきや、留学生の出身の大学であった。
大学に行ったはいいものの、バスを降りることなく、その場を離れた。
何だったのだろう。
もと来た道を戻る。
来た道を戻るためには、Uターンするための道路を使わなければならず、5kmくらい先に進まなければならなかった。
巨大な構造の道路は土木関係者には心躍るものだが、同時にこの道路の設計者に「いい加減にしてくれ」と言いたくなった。
そして、ホテルに到着。
名前は忘れたが、とてもいいホテルだったと記憶している。
僕は肺に持病を抱えているのだが、部屋割りはなぜか喫煙者と同じ部屋だった。
しかし、タバコの煙なんて、後のことを考えるとたいしたものではなかった。
夕食は市街地のレストランで取ることになった。
思えば、レストランも、タイからの留学生が手配していたんだと思う。
本当に感謝している。
市街地へはタクシーに分乗していくことになった。
僕は、勢い勇んで先頭のタクシーに乗り込んだ。
タクシーに乗ったのは僕を含めて全部で4人(現地人ゼロ)。
留学生は後から来るタクシーに乗ることになったので、行き先を運転手に伝えてくれた。
タクシーの運転は荒く、5車線くらいの端から端まで一気に車線変更したりした(後に、この運転がこの旅行のデフォルトであると気づかされる)。
僕らの乗ったタクシーは他のタクシーを置いていくほど速かったようで、1番に目的地に到着した。
我々は後から来る者たちを待つことにした。
…来ない。
いつまで経っても来ない。
そういえば、下ろされたこの場所は特に特徴的な場所ではなく、待ち合わせには適していないように見える。
我々はあせり始めた。
そもそもどこにいるかすらよくわかっていないのだ。
わかっていることは、王宮の近くであること、そして、川の近くであることだけだ。
幸い友人が地図を持っていたので、王宮の門番に地図を見せ、今いる場所を尋ねた。
しかし、門番が無愛想で要領を得ない。
もっとも、現在の居場所がわかったところで、どこに行けばいいかはわからない。
我々は留学生とタクシーの運転手を信頼しきっており、どこに行けばいいのか聞いていなかったのだ。
我々は王宮の周辺を走り回り、留学生の姿を探した。
街には野犬が走り回り、僕らは犬から逃げるのに必死だった。
しかし、どうしても他の人たちを見つけることはかなわなかった。
やむを得ず、我々は独自に夕食をとることとした。
近くのこぎれいなレストランに入り、英語のメニューから内容を推察し、夕食をとった。
僕は初めての海外での大事件にショックを受けていたようで、他の人たちは僕を不安にさせないように明るく振舞い、ビールを飲ませてくれた。
レストランを出ると、屋台が建ち並んでいた。
大変興味が引かれたが、海外慣れした同行者3人が絶対にやめた方がいいというので、見るだけにしておいた。
ごみだらけの川辺に出ると(よその国のことは言える立場ではないが)、トイレに行きたくなった。
幸い公衆便所があったので、そこで用を足した。
ふと外に出ると、男が近寄ってきて「3バーツ」と言ってくる。
「バーツ」とはタイ国の通貨単位だが、おそらく金を要求しているのだろう。
僕は、国内よろしく無視を決め込み、そそくさと立ち去った。
しかし、後で考えると、その男は「サンバーツ」と言っていた。
日本語かよ。
結局、留学生は見つからないので、タクシーでホテルに戻ることにした。
外国慣れした先輩のおかげで、タクシーを難なく捕まえることができた。
ホテルに戻り一安心。
と思いきや、明らかに違うホテルに連れて行かれる。
他の3人が眠っている中、僕は必死で泊まっているホテルの名前を連呼し、何とか投宿のホテルに戻ることができた。
ホテルでは留学生が待っていた。
相当心配してくれたらしい。
不可抗力とはいえ、申し訳ないことをした、と反省してしまう。
海外とはどういうものなのかを思い知らされる事件であった。
でも、結局ホテル近くのファミリーマートでビールを購入し、酒盛りを始める。
ネパール入国(2002-11-24 Sun.)
ホテルを出るにあたってまず問題になったのは、夕べ飲みきれなかったビールの処理だ。
この場合どうするか。
朝から飲むしかない。
ホテルの朝食で覚えていることは、野菜がとてもみずみずしくておいしかったことだ。
本当においしかった。
しかし、この食事を最後に、以降「おいしい食事とは何だったか」という問いが常に僕を苦しめることになる。
ホテルからバスに乗り込み、空港に向かう。
空港使用料なるものを現金で請求される。
この時点で、手持ちの現金は10000円と少しになっていた。
僕は小心者で、日本でも30000円は持ち歩いている性分だ。
なのに、なぜ初めての海外で10000円しか持っていないのか。
心に重い雲が降りてきた。
バンコクからカトマンズへは5時間弱のフライトだ。
機窓から眼下に広がる景色は、日本のどことも違う幻想的なものだった。
機長が、右手にエベレストが見える、とアナウンスする。
乗客がすべて機体の右の方に寄る。
「こういうとき、機長はバランスを取るようにうまく操縦するのかしらね」と隣に乗っていた先輩がつぶやく。
僕は携帯電話(いろいろ理由があってSANYO製)を取り出し、写真を撮ろうとしたが、フライトアテンダントに厳しく叱責された。
そりゃそうだ。
機体は、ネパールの首都、カトマンズの空港に到着する。
外国にはそれぞれ独特のにおいがある、というが、確かにカトマンズは独特のにおいがした…。
ここで皆さんに、ネパールの空気について、想像してもらいたい。
きっとエベレストのふもとにあることから、空気はすがすがしくきれいだと想像されるであろう。
しかし、ここカトマンズは我々の期待を見事に打ち砕いてくれた。
空気が排気ガスくさい。
とにかく息苦しいほどに空気が悪いのだ。
後で聞いた話によると、カトマンズでは40年前の車がいまだ現役で数多く走っているとのこと。
加えてカトマンズは盆地で、その地形的理由から空気が循環せず、40年前の車が出す排気ガスが外に出て行かないらしい。
「20年前はこんなことはなかったのに」とネパール人の先輩は悲しそうに話してくださった。
北九州市出身の僕としては、同情を禁じえない。
帰国後、カトマンズが世界3大大気汚染都市であることを後から知ることになる(残り2つはメキシコシティとアンカラ?)。
しかし、やっぱり行ってみなければそんなことは信用できないものだ。
到着ロビーを出ると、見知らぬ親切なネパール人が荷物を持ってくれる。
というか、荷物を奪いにくる。
これがネパールの最初の洗礼だった。
彼らは、荷物を運んでチップをもらおうとする人たちなのだ。
我々はそんなネパール人の歓迎を心無く払いのけ、荷物の奪い合いに競り勝った。
バスに乗って、ホテルに向かう(思えばこのバスも誰かが手配してくれたはず。海外渡航未経験の僕は、他人の好意に甘えてばかりだった)。
ホテルはカトマンズホテル。
いや、ホテルカトマンズ、だったかな。
とにかく、カトマンズにおいてはなかなかいいホテルらしい。
内装がすばらしく、学会の会場とも近かった。
こないだGoogle Earthでカトマンズを見たけど、そのホテルを見つけることができたのはうれしかった。
ホテルに着いて、早速現地通貨に換金。
日本の漢数字に当たるネパール独特の数字があるらしく、100が700に、200にいたっては判別することができない。
夕食は、ネパールの郷土料理(?)を食べることになった。
これも、ネパール人の先輩によるセッティングであった。
レストランの前で、額に赤いしるしをつけてもらう。
解説は記憶になし。
料理は基本的に、豆のカレーであった。
一通り食べると、ウェイターが新たによそってくる。
もう結構なのに。
食事の間、ネパールの現地の踊りを見ることになる。
一人の男の顔が明らかにやる気のない顔であることに気づく。
「あれは絶対に借金のために踊らされているに違いない」と不謹慎な発言が飛び交った。
食事をサーブしてくれる男がスープを持ってきて、「ラーメンの汁」と言って去っていった。
確かに「ラーメンの汁」のような味がする。
「このラーメンの汁おいしいですね。しかし誰ですかね、あんな日本語教えたのは」と先輩に言うと、「「豆のスープ」って言ったんだよ」と返される。
そりゃそうだ。
真っ暗な街を車で走り、ホテルに到着。
シャワーは予想通りにごっていたが、そんなものかと思い就寝。
早くも、日本が恋しくなった。