英語散々記
おすすめの英語勉強法についてのサイトは、数多く存在する。
しかし、「英語学習の失敗法」に関するサイトはそれほど多くない。
僕がこれ以上失敗の轍を踏まないように、恥を忍んで、ここに僕の「英語学習失敗の軌跡」を公開する。
あまりに失敗談が多すぎて、構想から書き終えるまで1年もかかってしまった(「そんな暇があったら勉強しろ」という声が聞こえてきそうだ)。
なお、「それでも有益な勉強法」についても、下の方に申し訳程度に記載しています。
英語学習失敗の軌跡
ついて行けた時代
ずっと昔、飛び込みのセールスマンが持ってきた幼児向け教材(たしか学研製)を親にねだったことがある。
どういう風の吹き回しか、親はその教材を買い与えてくれた。
その教材はテキストとカセットテープで構成されており、僕はテープを毎日のように聴いていたと記憶する(おかげで、テープが伸びた)。
テープではオバケのQ太郎の声優である天地総子が声を担当していた(「イタリア大好き」)。
この時の英語との接触は、僕にとって数少ない成功例である。
小学生のころは、英語の勉強はほとんどしなかった。
せいぜい、祖母にアルファベットを習い、1から200まで英語で数えることができただけだ。
200以上を数えようとすると、祖母が心配して止めた。
僕らが小学生のころの「あるある」の1つに、近所で外国人(西洋人)を見かけたら、「アメリカ人や!」、「ガイジン! ガイジン!」とはしゃぐ、という野蛮な行為があった。
昔は、近所で外国人を見かけることすら本当に珍しく、「1日で外国人を○人見れば、その日は幸せ」などという都市伝説があったほどだ。
このころ、母が中国人らしき人に道を尋ねられる、という事件が発生する。
中国人らしき人に「ショーソーエキはとこですか?」と尋ねられ、母はとっさに「ショーソーエキ」が「小倉駅」だと察知し、「あっち、まっすぐ」と返したそうである。
「歩いたら1時間くらいかかるけどね」とは、自宅に帰った母がつぶやいた言葉だ。
中学に入り、英語の授業が始まった。
母に、NHKのラジオ講座で英語を勉強するよう勧められる。
僕は英語という未知の科目に不安があったので、それを素直に受け入れてしまった。
聴いていたのは、基礎英語、続基礎英語、上級基礎英語の3つだったと思う。
放送は朝6時から。
そんなの続くわけがない。
でも、中学1年の夏休みぐらいまではラジオ講座聴いていたと思う。
夏休みに泊まりに来た同い年のいとこと一緒に聴いたのを覚えている。
後々判明することだが、僕と一緒に「基礎英語」を聴いたのがきっかけでいとこは英語を勉強するようになり、英語が好きになったそうだ。
そして、大学で英語教師を目指して勉強し、そして本当に英語教師になってしまった。
よく考えると、他のいとこ連中もみんな英語が得意で、英語が苦手なのは、僕と妹くらいだ。
ラジオ講座を聴いていたおかげで、中学1年の時の英語教師、Ms.Shigenagaに発音をほめられた。
後にも先にも、英語でほめられたのはこの1回限りである。
すぐに、"School starts at 8:30." の仕組み(いわゆる「三単現のs」)がわからず、つまずいてしまった。
僕が通った中学校には、AET(Assistant English Teacher)がいた。
僕はAETに幾度となく英語の間違いを指摘され、ずいぶんと自信を失った。
後に、生徒たちがAETに向かって手の中指を立てる、という事件(意味を知らずにだけど)が発生し、AETが本国に帰りかけたことがある。
中学2年と3年の英語担当教師はMs. Nakagawaだった。
彼女はテキストのストーリーをマンガに書き直して、吹き出しに和訳を書き込ませるという、「英語マンガ法」を実践した。
今思うと、趣味と仕事をうまく重ねた方法だったと思う。
仕事とはこのようにして楽しまなければならないものだ。
しかし、効果があったかどうかは不明。
生徒としては、味のあるマンガのタッチの方に気が行ってしまい、英語の方は疎かになったのは確かだ。
Ms. Nakagawaが教えてくれた「子音+rの発音練習」は今でも時々やる。
そして、Ms. Nakagawaのおかげで、教科書を何とか全部マスターした。
今思い出せば、「アメリカンキッズ」という「英語番組」を時々見ていたはずだ。
でも、あれって英語番組なのかな。
高校入試では、ヒアリングテストが出題された。
8問出題されたうち、僕は7問も間違った。
それで高校に合格するのだから、おそろしい話だ。
「ヒアリングが1問1点でよかった」と本当にほっとした。
しかし、これは大学受験の伏線になる。
見放された時代
高校に入学した後、中学の同級生から「兄貴が英英辞典を薦めてくれた」という話を聞く。
その時は買わなかったが、代わりに買った英語辞書は高校推奨のプログレッシブ。
今でもたまに使う。
高校からの数少ないよいアドバイス。
高校では、英語の授業に全くついていけなかった。
ある教師は、和訳を生徒にさせる際、着席表を桂馬飛びに進みながら生徒を当てていく、という方式をとっていた。
よって、彼のイニシャルの一手によっては、その日の授業は睡眠時間に充てられた。
高校では、毎週英単語テストがあった。
「V3000」(桐原書店)という単語帳から出題されるテストだ。
7割の得点を取らないと、追試、書き取り(1語につき10回)というペナルティがあった。
僕はことごとく低得点をマークし、毎回追試、書き取り、挙げ句の果てには0点に近い点数を取り教師から呼び出しまで食らった。
ペナルティを食らっても覚えようとしないんだから、どうしようもない。
同級生の1人は、「体の各部位に感じる痛みと共に単語を覚える」という、凡人には理解不能な記憶法を教えてくれた(彼は秀才であったので、効果の方は保証できる)。
長期休暇には、「即戦ゼミ」(桐原書店)という問題集が宿題に出された。
休暇明けにその問題集をもとにした実力テストが行われた。
結果はいつも、目も当てられない点数だった。
僕は、桐原書店と日栄社が今でも大嫌いである。
長期休暇には、長文読解の宿題も出た。
テキストをまるまる訳さなければならない、というものだ(Lesson 30まである)。
僕の夏休み明けの恒例は、9月3日に教室に居残り、長文読解の答えとして配られた和訳を(時々わざと間違えながら)ひたすら写す、というものだった。
業者試験も苦痛だった。
1度、"polygraph"という単語が試験に出てきて、僕はそれを「プラスティック製の何か」だと思いこんでいたことがあり、今でも夢に出てきてうなされる。
理数系の科目だけならそこそこの成績なのに、英語が加わると、偏差値ががくっと下がった。
一念発起して、英語の勉強をちょっと真剣にやると確かにテストの偏差値は上がった。
でも、続かない。
語学の基本は「継続」なのに、僕はできなかった。
それに、僕は2学期の中間試験しか試験勉強を真剣にしない、という理解不能の主義を取っていた。
天は僕を見放した。
それでも、英文読解と英作文は比較的好きだったように思える。
また、当時の学校は、まだまだリスニング設備が整っていなかった。
なお、この頃世の中に登場した単語帳が、DUOである。
同級生が「DUO信者」で、「DUOは単語を記憶する効率が5倍になる」と豪語していた。
たぶん、僕より英語の成績が良かったことだろうけど、僕は他人と成績を比較するなどという行為を卑屈と見なしているので、よくわからない。
大学受験のためにセンター試験を受けた。
僕が受けたころは、まだリスニングテストが導入されていなかった(なくて良かった)。
同級生に英語の試験で満点を取る人がいた。
その同級生曰く、「なぜ間違うのかわからない」(もちろん帰国子女)。
僕にしてみれば、解き方さえ知っていれば何とかなる数学や物理で点数を稼げない方が不思議だ。
ちなみに、英語教師のいとこはセンター試験の問題を今でも毎年解いていて、しかも毎年満点を取る。
実に頼もしい。
二次入試対策を怠り、大学は不合格。
リスニングテストがあったからだ、と思っている。
たぶんそれだけではないだろうけど、そう考えることにしている。
予備校では、リスニングテスト対策と称して会話クラスが設けられた。
ネイティブ・スピーカーが授業を進めるクラスだ。
僕はそれに2回くらい参加して、後は行かなかった。
講師がブラジャーをしていなかったのが、どうにも納得できなかった、というのが表向きの理由である。
伝え聞いた話によると、他の人もしだいに出席しなくなり、講師は出席率の悪さにノイローゼで帰国したとか。
その話が本当なら、悪いことした。
入試前には「速読英単語」をずっと読んでいた。
結局これが功を奏したように思う。
少なくとも、英文を読む忍耐力が身についた。
でも、単語力はついたのかは自信がない。
あとは、徹底して過去問のCDを聞いた。
入試当日、池のほとりでCOSA NOSTRAの「World Peace」を聞いていて、それまで聞き取れなかった歌詞が突然聞き取れたときは本当にうれしかった。
聞き続ければ、何とか聞き取れるようになる、たぶん。
そして、入試。
難問にくじけそうになったが、解いているうちに一気に理解できた瞬間があった。
あの時、僕の上に天使が舞い降りたのをはっきりと感じた。
そうして、大学入試をようやく乗り越える。
今のところ、大学入試が英語力のピークである。
この後しばらくは、共通語を覚えるのに必死だったからだ。
異界突入時代
大学の教養課程では、有名な教師陣によるかなり力の入った英語テキストが作成されており、それをもとにして講義が進められた。
取り上げている題材がかなり面白いものだったことは認める。
また、テキストの内容が吹き込まれたテープが配られ、「これでリスニングを勉強しろ」と指示されたのも、丁寧な指導だったと認める。
しかし、いくら教材が魅力的でも、本人のやる気がなければ(というより苦手意識の呪縛に苦しんでいれば)、無力である。
結局、学生の有志が作成しキャンパス内で売っていた「訳本」に頼りきりだった。
なお、この講義は必須で、しかも3回欠席すると単位が得られなかったので、午前の講義に必死で出たことを覚えている。
大学での第2外国語は、フランス語を選択した。
大学では第2外国語の選択によりクラス分けがなされていたため、「フランス語のクラスは比較的女子が多いので」というのが選択理由だった、かどうかは定かではない。
ちなみに、理系の中国語選択クラスでは女子がいないクラスもあった。
大学に入ってまで煉獄に飛び込む必要はない。
フランス語は思った通り全然習得できなかった。
今でも覚えているのは、末尾の子音は読まないことと、amiという単語と、「ジュマペールユキコアサノ」と「ジュテーム」くらい。
実生活で使ったのは、「ジュテーム」くらい。
講義では、ディクテーションというのがあった。
ニュース英語を聞き取り、それを書き取る、という講義だ。
もちろん、ぜんぜんできずに離脱した。
大学図書館でBBCを見ることができたので、挑戦したこともある。
でも、2日と続かなかった。
統計学の講義で、思わぬ事実を知った。
センター試験の英語の得点と総得点の間には正の相関があるそうである。
つまり、大まかに言うと、英語の成績が良い生徒は全科目総合の成績もよい、ということである。
もっと早く知っておけば良かった、と本当に悔やんだ。
大学に入ってかなりショックだったのは、同級生が普通に英語を使いこなしている、ということだ。
高校の時には、英語の成績がよいのと英語を使いこなすことは全く別のものだと実感していた。
いやいや、正岡子規だって英語が苦手だったんだ、と思うようにした、ああはなりたくないけど。
必要に迫られる時代
専門課程に入って、語学の講義からは完全に解放されてしまった。
その一方、大学院における専門課程の講義はすべて英語で進められた。
どうやって単位を取ったのか、今となっては全く記憶がない。
たぶん、多くの人に救ってもらったのだろう。
恩知らずな僕。
このころ、何となく、「英語が話せないと将来大変なことになる」と実感するようになった。
英語を話せないばかりに、恥をかくこともたくさんあった。
そういう危機感から、朝に英語を聞くことを習慣にしようと決めたこともある。
そして、さまざまな勉強法を闇雲に試し始めた。
まず、NHK教育テレビのビジネス英語講座を見始めた。
これは、アメリカ人特有の競争的な雰囲気が嫌いになって、すぐに辞めた。
NHKニュースを英語の副音声で聴く、というのを友達が実践していた。
僕もやってみようと思ったが、自宅のテレビデオは副音声に対応していなかった。
NHKラジオの英語ニュースを聴いたことがある。
しかし、いくつかの単語が何となくわかるだけ。
日本語の固有名詞だけが、内容を理解するたよりだった。
「ジャパンタイムズ 社説集」というのも読んだことがある。
これは何となく良かった記憶があるが、今は手元にない。
NHKで放送されるドラマを英語で聴く、というのを実践した人もいる。
「アルフ」や「フルハウス」、上級編で「ダーマ・アンド・グレッグ」など。
僕はこれらのドラマを見ていて、「日本語吹き替えのジョークが英語でどう表現されているのだろう」というか、「これ、英語では全然違うことを言っているだろ」という興味があったので、やってみてもいいかもしれない、と少しだけ思った。
でも、おそらく「ミスター・ビーン」では役に立たないだろう。
あれは、「ウィーウィー」言っているだけだから。
子ども向け番組なら楽しめるだろうか、と思い、僕が一番好きなアメリカン・アニメーションである「トムジェリ」を吹き替えなしで見続けたこともある。
ただし、「トムジェリ」には会話がほとんどないので、おそらく役に立たない。
ASAHI WEEKLYを講読したこともある。
英文雑誌を読もうとしたこともある。
いずれも、金の無駄であることに気付いて、やめた。
無料なら負担もかからないのではないか、と考え、英語習得を題材としたメールマガジンを講読したこともある。
おそらく、何の力にはなっていない。
この頃、アルクから発売された「英辞郎」をPCにインストールした。
しかし単語入力が面倒なので、すぐに使うのを辞めた。
シグマリオンIIIに「英辞郎」を入れたこともある。
もちろん、インストールしただけで満足し、使いこなせなかった。
友人や留学生と積極的に英会話しようと決意したこともある。
しかし、語彙の貧弱さに会話が続かず、挫折した。
ある留学生に至っては、逆に僕の口癖である「びみょー」という言葉を適切に使いこなせるようになる始末。
英語はだめでも他の言語なら、と開き直り、韓国語に手を出したこともある。
僕はダメだったが、友人はハングルの読み方をマスターしていた。
そのうち、英語でプレゼンテーションをする必要があり、「科学英文技法」を購入した。
テクニカルな部分は今でもそれが頼りである。
就職活動に向けて、少しでも有利になるのではと思い、TOEICを受験し始めた。
最初の試験結果は、点数はそんなに悪くなかったが、内訳がひどかった。
ListeningよりReadingが100点以上高かったのだ(平均点はReadingよりListeningのほうが100点高い)。
友人によると、「かなり偏りがあるね」。
今でも、永遠のCクラスである。
友人の友人にTOEICの高得点者がいて、その人曰く「答えを言っていたり書いてあったりするのに、解けない意味がわからない」。
「ごもっとも」としか、言いようがない。
そうこうしているうちに就職活動に突入する。
就職活動中に、他大学の活動者で「何も自信ないけど、英語だけは得意」と豪語する女性に出くわす。
僕は、その人に愕然としたことをよく覚えている。
そういう人たちと就職活動を戦わなければならない。
下手したら、就職してから一緒に仕事をしなければならない。
こういう人と一緒に仕事をすると、たぶんその人は英語のコミュニケーションに専念することになり、仕事の中身は全部任されることになるだろう。
そして、評価はすべて彼女のもの…。
そういう偏見に満ちあふれた妄想が思い浮かんだのだ。
まったく、早見優だって、英語ができるってだけで「アメリカンキッズ」を任されたわけじゃないんだぜ。
試行錯誤、そしてエラーばかり
社会に出てからも、英語の勉強への挑戦は続けている(「英語への挑戦」ではなく)。
まず、「Oxford Advanced Learner's Dictionary」という英英辞典を購入した。
これは今でもたまに使う。
ウェブサイトがとても便利である。
iPod(もどき)を購入して、VOA Special Englishを毎朝の通勤途中に聞く、というのもやった。
スクリプトをプリントアウトして、電車の中でスクリプトを読みながらリスニングするのだ。
これはリスニングの力を伸ばすにはかなり効果的だったようで、TOEICのListeningのスコアが簡単に上がった。
ただ、残念ながら僕はアメリカに興味がなかったので、半年続けるのが限度であった。
NHKのラジオ英語講座も再開した。
勤務先のバザーでポータブルMDプレーヤーを2,000円で手に入れ、毎朝タイマーで番組をMDに録音し、通勤途中にMDを聴いた。
MDプレーヤーが壊れなければ、もう少し続けていたと思う。
昼休みに、NHKのニュースサイトを毎日見て、スクロールされる英語のニュースを読んだ。
これも効果的だった。
日本についてのニュースだったので、興味を持つこともできたからだ。
スクリプトとリスニングが完全に連動していたらもっと効果的だろう。
結局、続いていないけど。
英語のスクリプトを電子データで用意すれば、自動で読んでくれる機能がWindowsにはある、という話をサイトで読んで、それができるようにしようと何度も試した。
ようやくインストールできたころには、僕の英語熱はもう冷めていた。
高校であれだけ苦しめられたのに、懲りずに単語帳にも手を出した。
しかも、高校の同級生の言葉を思い出し、DUOに手を出してしまった。
何と、別売りのCDまで購入した。
現在、手元にないところを見ると、どうやら売り払ってしまったらしい。
Z会の「速読速聴・英単語」を購入した。
これは今も時々やっている。
大学英語をやり直そうと、今でも思ってしまう。
でも、苦手意識が払拭できず、今も手が付けられない。
開き直ったこともある。
「英語はほとんどプログラミング言語説」を唱え始めたのだ。
パターンさえ覚えてしまえば、文章を組み立てることができる、という考え方だ。
しかし、パターンを見抜くまでには至らなかった。
文法だけ知っていてもデザインパターンを使いこなすことはできないのと同じで。
助言
人からのアドバイスは重要だと思う。
僕は何人かに英語勉強法を尋ねた。
まず、英語の得意な人に尋ねるのはタブーであることがわかった。
彼らは英語を「勉強」あるいは「苦学」していないので、欲しい答えが返ってこない。
何を尋ねても無駄である。
せいぜい、「英語の勉強法? そんなものあるかな。考えたこともない」と返ってくるのが関の山である。
ある友人は、興味のある分野について英語から情報を得ればいい、と言ってくれた。
そして、勧めてくれたのが、ベタな話だが、英文のポルノ小説である。
どうやら僕は、持つ友人を間違ったように思う。
それでも、僕はアドバイスの前半部分だけを取り入れることにし、興味のあるF1の情報が載っている英語サイトを探した。
でも、それはいつの間にか辞めてしまった。
確か「F1はフランス発祥のスポーツだから」というのがエクスキューズだったはず。
ある知人に英語勉強法を聴くと、朝3時間、夜3時間、勉強している、と答えた。
しかし、勉強内容については教えてくれなかった。
きっと高度な瞑想によって体得しようとしているのだろう。
ある人は、1日7個英語を覚える、というアドバイスをくれた。
なぜ7つなのかと尋ねると、「マジックナンバー7だ」という科学的な論理で返してくれた(ちなみに、その人はかなりの努力家で、今では英語がかなり堪能である)。
英語のジョーク集を読むといい、とはお笑い好きの人の意見である。
書店で立ち読みしたが、日本語まで読んで初めて笑う状態だったので、買うのを辞めた。
友人の勉強法は、「単語カード作成」という古典的なものであった。
そして普段は、単語カードを何十枚か取ってはシャッフルし、意味をすべて答えられるまで続けるそうだ。
僕もこれまで何度も単語カードを作ろうとしたことがある。
最初は中1、後は数え切れない。
直近では、2008年にも作った。
自宅には、単語カードを留めるリングだけがいっぱいあって、なぜかカードはない。
あまりに英語が苦手なので、業を煮やして、普段はまじめな話などしない英語教師のいとこに頭を下げ(るふりをし)、英語勉強法を聞いたことがある。
彼曰く、やはりリスニングが大事らしい。
今は「オバマ演説集」を聴いているのだそうだ。
「もっとも、初心者が聴いても何の効果もないだろうけどね。あんなに売れているけど、どれくらいの人が理解しているのかな」と付け加えてくれた。
これがかの有名なサゲスミというものだろう。
「VOA Special Englishを聴いているんだ」と言ったら、彼は「まずはそれで十分」と勇気づけてくれた。
英語教師のいとこは、「近い将来、高校の授業が英語で行われるようになる」とも教えてくれた。
僕は、その話を新聞で知っていたが、現場の声を聞き改めてショックを受けた。
僕が高校生のころにそんなことが始まっていたとしたら、果たして大学に入学できただろうか。
高校の卒業すら危なかったかもしれない。
「お前、英語で教えることなんてできるの?」と尋ねると、いとこは「今でも時々やっているから大丈夫。生徒もついてきている」と答えてくれた。
いとこの優秀さにほっとした反面、そういう授業を平気で受けている若い人たちに恐怖を感じた。
こういう勉強法はいけない
いろいろ失敗してきた中で、一応「やってはいけない」的なことはわかってきた(あくまでも「自分にとって」であり、一般的な話ではない)。
映画やテレビドラマを英語で視聴する
好きなものからなら英語も覚えることができる、生きた英語が学べる、という理屈。
たぶん、嘘だと思う。
映画やドラマで使われている言葉は早口で、スラングも多用されている。
それに、英語ではジョークが理解できない場合がある(理解に必要な背景が説明されていない場合があるので)。
もっとも、今はDVDで英語字幕が見ることができるので、適切な教材を選べば効果がある可能性がある。
好きな映画を英語で何度も視聴するのを勧める勉強法があるが、僕にはできない。
せっかくの好きな映画が、理解できない英語によって嫌になる可能性があるから。
普段から英語を流しっぱなしにする
普段から英語に親しんでいたら、最初は全くわからなくても、自然に覚える、そして英語脳になる、という理屈である。
しかし、これは初心者向けではないと思う。
とっかかりがないのに、聞き取れるわけがない。
結局何もわかりませんでした、というのがオチだと思う。
少なくとも、何について話されているかを知っている必要があるだろう。
単語帳だけで単語を覚える
単語帳を丸暗記して、語彙を増やそうという試みである。
これは、完全に反対する。
何より、楽しくない。
苦行すぎる。
トラウマもあるし。
難しい文章を読む
知らない単語がたくさん出てくる文章でも読む、内容は読んでいれば理解できる、という理屈である。
これをやろうとすると、辞書ばかり引く羽目になる。
それが嫌になって、うんざりするだろう。
また、辞書を引く度に読むのを中断してしまい、結局全体が理解できなくなってしまう。
以前、意味のわからない英単語が出てきたらマーカーをひいている、という人がいて、その人が読んでいるテキストを見せてもらったことがある。
皆さんの予想通り、ものの見事にマーカーだらけだった。
おそらく教材選びが間違っていたのだろう。
もしかしたら、野口悠紀雄先生の「文章丸暗記法」を実践していたのかもしれない。
留学する
外国語に普段から触れながら生活すれば、必要な言葉が身につく、という理屈。
多くの人には有益なのだろう。
ただ、留学と聞くと、僕はいつも、夏目漱石のイギリス留学の話を思い出す。
外国人の恋人を作る
愛は国境を越える、という理屈。
これも、多くの人には有益なのだろう。
ただ、僕の場合、自国民とのコミュニケーションも危ういのに、こんな芸当ができるわけがない。
それでも有益そうな勉強法
そうは言っても、経験の中から役に立ちそうな勉強法が得られなかったわけではない。
以下の方法は、自信を持って勧めることができる数少ない英語勉強法だ。
英語を勉強するのに適切な時間と場所を見つける
英語の勉強が苦手にもかかわらず続けている人なら、おしなべてこう言っている。
「この時間は英語を勉強する時間、それ以外は何もしない」だと決め、実行する。
短時間でいいので、それを毎日繰り返す、という方法だ。
通勤時間が語学勉強の最適な時間帯の1つであることはよく知られている。
iPodで英語の教材やニュースを聞いているだけでも、確かに効果的である。
しかし、通勤途中に辞書を引くのは難しい。
なので、次に挙げる「自分のレベルにあった適切な教材を選ぶ」ことも重要になってくる。
自分のレベルにあった適切な教材を選ぶ
仕事で必要だから仕事に関係した文章を読もう、とか、興味のある分野の文章を読もう、とか、大人だからこれくらい読めないとな、とかをいっさい気にしない。
語学の初歩においては、自分の興味より自分のレベルの方が重要である。
まずは、1ページに2、3個くらい意味がわからない単語が出てくる、というくらいの文章から読み始めるのではいいのではないか。
それくらいだと、読んでいるときにで辞書を引かなくても、他の部分からある程度意味を推測して、読み進めることができる(もちろんあとで辞書を引く)。
適切なレベルの文章を繰り返し読み、できれば覚えてしまう。
自分専用の単語帳を作る
さまざまな人の意見を聞くと、単語帳は既にあるものではなく、自分で作成する方が良さそうだ。
ただ、単語の量が多いと、作るのがかなり嫌になる。
適切な教材から意味を知らなかった単語だけを拾って単語帳を作れば、そんなに量は増えないだろう。
辞書はPC上で作るのがいいと思う。
辞書サイトで意味を調べ、テキストファイルに辞書をコピペするのだ(テキストファイルは1つにまとめる)。
僕は持っていないけど、電子辞書の中には、ユーザーがチェックした単語をピックアップして、単語テストを出題してくれる機能がついているものもある。
そして、たまに単語帳を見返す。
自分で作った単語帳なので、どの文章で出てきた単語か、文章を含めて思い出すことができる場合が多い。
そうすると、記憶の定着がより進む。
試験を受ける
あまり推奨できないが、試験を申し込むことは、勉強を始めるきっかけになる。
特に、TOEICは受験料が高いから、勉強をする強力なモチベーションになる。
どこまでも戻る
選んだ文章が難しければ、レベルを下げる。
高校の教科書でだめなら、中学の教科書に戻る。
一通り読めるやつがきっと見つかるはずである。
それを早く見つけて自信を取り戻し、そこから少しずつ進むことにする(中学の教科書を読んで自信を取り戻せるかは微妙だが)。
確かに、「仕事で英語が必要」とか「大学合格には英語が必要」などといった外部からのプレッシャーがあることだろう。
目標を考えると、高度な文章や会話に挑戦したいという気持ちはわかる。
しかし、だからといって背伸びしてはならない。
レベルの高い内容を聞き続けて、ある日自然と話せるようになっていた、というのは語学の初歩では夢物語だと思う。
語学の勉強とは、あくまでも、自分の語学力向上が目的であり、他人が設定した目標を達成するためではない。
もちろん、そんなことをしていれば、時間がいくらあっても足りない気がする。
外部が課した目標をクリアできず、ライバルに出し抜かれ、そのライバルには永遠に追いつけないかもしれない。
でも、あなたのライバルに追いつくには、たぶんそんなに時間はかからないのではないか、とも思う。
リスニングは…
リスニングに関しては、自信を持って言えるアンサーが今のところ見つからない。
ただ、おそらく、音源だけではなく、スクリプトは絶対に必要だと思う。
何について話しているかわからなければ、話の背景がわからず理解も進まないし、辞書すら引けない。
また、ここでも教材がかなり大事。
やはり背景が理解できて、しかも興味をそそられるものでなければならない。
僕の場合、国際政治や海外の経済動向に全く興味が持てないので、CNNやCNBCは不適切である。
おそらくは「努力は実る」
僕は、ある「北九州の予備校」に嫌悪感を持っているのだが、それでも語学に関して言えば、その予備校が言っていることは正しいと思う。
つまり、「継続は力なり、努力は実る」である。
ただし、継続や努力によって、掲げた目標に到達できるか、は疑った方がいい。
場合によっては、目標を見直すべきだろう。
自分で作った牢に自分から入る必要はないのだ。
とにかく、「怒濤の英語」でモチベーションを破壊されないようにだけは注意したい。
英語学習所感
英語学習についての雑感について記す。
聴く、話す、読む、書くを習得しようとする際、独学でできるのは、おそらく読むことだけではないだろうか。
読むことは、繰り返し読み込み、辞書を引けば何とかなるからだ。
しかし、理解できているのか確認できないのが難点である。
聞く、話すは、他人が協力してくれれば、その場で言葉の修正がきくので効果的だろう。
もっとも、僕は人とコミュニケーションを取ること自体が苦手で、日本語でも尻込みしてしまうくらいだ。
だから、能力が一生身につかないかもしれない。
誰しもがコミュニケーションを求めている、という前提が疑われる時代がくるのを待っていれば、新たな学習法が発明されるかも知れない。
書くについても添削してくれる人がいないと、いつまで経っても間違った表現や言葉足らずで終わってしまうだろう。
必要なら、お金を出して添削してくれる教師を探した方がいいだろう。
ところで、海外旅行に行く人は、何か適切なことを言えば思った通りの行動が返ってくる、と思い込みすぎている人が多い。
かくいう僕がそういう考えの持ち主だった。
だから、海外旅行者はこちらから話す表現ばかりをマスターしようとするのだろう。
海外では往々にして、相手はこちらの思い通りには動いてくれない。
必要があれば、相手に動いてもらうように交渉しなければならない。
そうすると、まずは、相手の言っていることが理解しなければならない。
だから、リスニングは何より重要である。
ちなみに、僕の経験から言うと、ガイドのいない海外旅行で絶対に必要なのは、現地の言葉よりも、現地の詳細な地図と現在地の把握、そして目的地の位置の把握である。
さて、現代において、英語を使いこなせる人は間違いなく重宝される。
少し前まで、英語を使いこなせるというだけで、社会に受け入れられる時代が確かにあった。
就職活動で出会ったくだんの女性の考えはたぶん正しかった。
能力が全くなくても、英語さえ話せれば仕事の役に立つし、後は実務で成長するだろうと見込まれることが多かったからだ。
しかし、今は少し状況が変わった。
英語が使いこなせないとスタートにすら立たせてもらえない。
そのうち、駐輪場の整理係にも英検取得が要求されるのではなかろうか…。
それでも英語を学ぶ
1993年11月3日。
日本テレビで、バチカンのシスティナ礼拝堂にある「最後の審判」の修復作業について放送されていた。
修復作業を日本テレビが支援する代わりに、その模様を日本テレビが取材していたのだ。
僕は、その放送にものすごく感動を受けた。
ミケランジェロの壮大な作品が非常に美しかったのは、言わずもがな。
そして、その修復作業を日本のテレビ局が支援していることに誇りすら覚えた(のちに、金余りで浮かれていたJapaneseに修復費用を出させただけだったのではないか、と訝しむようになる)。
1度でいいから、イタリアに行きたい。
そして、「最後の審判」をこの目で見たい。
海外に全く興味がなかった僕が、初めて外国に目が向いた瞬間である。
僕にとって、英語学習に対するモチベーションになりそうなことといえば、それだけである。
海外で活躍するために、とか、仕事で必要だから、とか、留学生と話したい、とかいろいろ理由を拵えて、これまで英語を勉強してきたけど、たぶんそんなのは本心ではないし、むしろ嘘である。
僕は日本が好きで、日本の生活が大好きなのだ。
もう一度言うが、英語の習得に夢を感じるのはただ1つ、「最後の審判」を現地で見たいということだけである。
ただ、「最後の審判」を見に行くために英語を勉強しなければならない、というのは理屈に合ってない。
イタリアで不自由なく過ごすには、イタリア語をマスターしておいた方がいいだろう。
それに、そういう目標を掲げているくせに、僕は旅行に必要な会話を覚えようともしていない。
むしろ、英語の文章を読んだり、英語の発言を聴いたりすることばかりに興味が向かってしまう。
それには理由がある。
現代において、多くの情報が英語で表現され、僕はその情報をウェブやテレビから得ることができる。
しかし、英語が不自由である以上、そこに何が表現されて、どんな情報が含まれているのかが理解できない。
知りたがりの僕としては、英語で表現されたものから何らかの有益な情報を得たいのだ。
そのためには、英語の文章が読め、英語を聞き取れるようになる必要がある。
英語に対する僕の本当のモチべーションは、英語から情報を得ることだけにある。
少なくとも、インタラクティブなコミュニケーションでは(まだ)ない。
しかし、村上春樹にもあるように、どんな戦争にも旗は必要である。
なので、「バチカンを目指して英語を勉強している」ということで勘弁して欲しい(「旗」の比喩の使い方を間違っているかもしれない)。
いずれにせよ、僕が英語に不自由を感じなくなるのは、まだまだ遠い未来の話である。
バチカンに行くのも、何十年先のことになるやら。
こんなに失敗ばかりしているのに、英語の勉強をしなければならないという思いは捨てきれない。
2008年11月13日のメモにも、「英語を聞き続ける」という決意が記されている(そしてすぐに挫折している)。
それでも、僕はまだ無駄なあがきを続け、新たな試みに手を伸ばしている。
せめて現在進行中の「無駄なあがき」が、この「英語散々記」に載らないように注意したいものだ。
参考文献
- 野口悠紀雄、「「超」勉強法」。
- 野口悠紀雄、「「超」英語法」。
後日談
実用英語技能検定準2級を受験しました。
実用英語技能検定準1級を受験しました。