2025-04-13 Sun.
珍重
2025-04-13
ナンシー関・町山広美「隣家全焼」を読了。
「地獄で仏」(ナンシー関・大月隆寛)に続けて読んだ。
前対談集に比べると、文章を受け入れられるように感じた。
対談相手が変わったからか、時代が1990年代後半に移ったからか、こっちが取り戻してきたからなのか。
思うに、批評者たちも批評対象と同じシステムを持っている。
熱狂することは共通している。
そして、ターゲットの種類と、周囲との温度差があるという自覚があることに、批評対象との差異がある。
システムが同じであるという認識を持っているかどうかが、前対談集との差のように感じた。
でも、結局、長島一茂や松岡修造の様子を見たいから、僕はTVを見ているのだ。
現在だったら、丸山桂里奈だろう。
荻原健司や谷亮子にかかわらないようにしながら、浜口京子をトキのように温かく見守る(けど引き取りはしない)というのが、TV視聴だ。
上村愛子の無双にかげりを見ることになっても、松本薫のアイスクリーム屋が怪しくなく成功してほしい、ついでに、里谷多恵の行状が所属組織を体現していると思い込むのが、視聴者であろう。
小塚崇彦のことも気になるし、中野友加里がどうしたなども気になる。
TVは見世物であり、ダメなものが集まっているから、続けて見られているのかもしれない。
金曜も、TV番組の出演者が集まって、「マジカル頭脳パワー」でやっていたクイズで競っていて、やはりそれを見てしまった。
ディズニーキャラクター名を暗記し、全問正解する小手伸也やまひるに、素直に感心した。
川栄李奈は20分ですべてを暗記したそうで、空き領域がある方が重宝する例があることも知った(芦田愛菜との対比として)。
でも、周囲は誰も触れない。
やらせがあったとは考えすらしないくらい、模範的な視聴者だと自負している。
今夜だって、「鬼レンチャン」の「400m走」を見てしまうのだろう。
先日のバス旅の再放送で、当時の山田まりやが男子高校生に話しかけているのを見て、控えめに言って、番組を見ながら食べていた生姜焼きの味に異変を覚えた。
それにしても、本田理沙が中津市出身なのは知らなかった。
結婚の話が導く領域への好奇心は、ここで留めておこう。
中村由真が前田耕陽と「GODDESS」というバンドを組んでいたのも、まあ知らなかった。
「あいつ今何してる?」がそれもカバーする性質の番組だったことも、知らなかった。
2025-04-12 Sat.
青丹
2025-04-12
きっと、運転免許証の記載事項変更を怠っていたのだろう。
つまり、「自称」の理由は、免許証の氏名が「キャンドル 涼子」のままだったので、本人確認できなかったからだ!
あまりにも要素がそろいすぎた出来事に、この程度の冗談しか思いつかなかった。
不安定さまで似せてきた、当人のモノマネタレントじゃないか、とも思った。
大きな事故の割に本人が軽傷で済んでよかった、と安堵するのもつかの間、同乗者は重傷を負っているとの報道。
複数の意味で、命を預けるのは怖かっただろうな、と推察。
率直に言って、心配している。
それこそ思う壺なのだろうけど、僕はそういう世代だし、それを引いても、社会の一員として。
そういえば、10年以上昔、その当時のSNSで、「世田谷で起きた事故を目撃、あれ広末涼子じゃない?」みたいな書き込みを見た。
「本人とも確認せず、たわいもなく情報を上げるものだ」と思った少し後に、実際に本人が起こした事故の報道がなされた。
今思うと、今回のことに向けた「振り」だったのかもしれない。
これでまた、「魔法のキモチ」のコンテンツ化は遠ざかる、と記すルーティンすらむなしくなる。
著作権者の経営が怪しいようだし、バーゲンセールで出物があってもおかしくはないか、とも思えない。
さて、怪しい雲行きなのは、自分の資産ポートフォリオである。
円建てで、年初から20%下がった。
下がるときはいつも急で、この程度の率の下げは覚悟しているつもり。
でも、下落額を算出すると、これまでの記録より1桁多い。
平然を装い電車に乗る自分に、むしろ笑えてくる。
2024年からの新NISAにいたっては、ついに損失が示された。
NISAで確定的な損失となれば、売却して翌年の枠を生み出す、というこれもむなしいオペレーションを発動することになる。
でもまだ枠は当分埋まることはないので、発動はない。
粛々と積み立てを続けることだけが、臆病な僕に与えられた選択肢だ。
気を強く持つ。
2025-03-22 Sat.
爽桃
2025-03-22
久しぶりに、穏やかな休日である。
今週、吹雪の荒天で、悪態をつきまくったことがうそであるかのように、穏やか心持だ。
朝、カフェにて雑誌「リンネル」を読む。
田中麗奈さんは、本当はたくさん食べたいけれど、40代になると体重はすぐ増えるのに減らすのは難しく、ダイエットも大変なので、普段から「腸活」を心がけ、発酵食品を摂取している。
小麦を食べると体が重くなるように思え、米粉でパンやスウィーツを作り、食べたらおいしくて体も軽くなった。
すき間時間に、お腹をねじるエクササイズ。
素敵な人はケアしている、インナービューティー。
転ばぬ先の臓器ケア、「臓活」が大事、なのだと。
田中麗奈さんが美しいのは最初からであり、腸活、臓活は当然ながら十分条件ではない。
「何もしてないよー」は虚偽かもしれないが、身についている習慣を含めての美人なのだ。
腹をねじる写真を撮るのに、110K円のパンツを履かされるのは、よくわからない。
同様に、高嶋ちさ子が元気なのはサプリのおかげではなく、元々のように思う。
最近、「若い世代が出てきたなー」と思っていた人たちが、40代になっていることに驚く、例えば、吉岡聖恵とか。
先日は「non-no」を読み、「大学生は、入学した時から気を張るものなのだな」と落ち込む。
「non-no」がアイヌ語で「花」の意味であると2025年になって知ったことにも、落ち込む。
「バラライカ」はロシアの弦楽器で、だから「きかせて」なのだ。
さて、ナンシー関・大月隆寛「地獄で仏」を読む。
「評伝 ナンシー関 「心に一人のナンシーを」を入手して読み直し、「そういえば対談集は全く読んでこなかった」と気づかされ、図書館で借りてきた。
2025年から見れば、「これは批評である」という観点をもってしても、まあ悪口ばかりが並んでいる、ように感じる。
デーブ・スペクターの発言の一部はもしかして当を得ていたんじゃないかと、人生初めてスペクター・コミュニケーションズの側に立つ。
こういうテイストなのは対談だからかな、とは思う。
思ったことを直で発言している、とまでは思わないけれど、やはり書いたものなら読み直すし、その前に書くまでにも時間を要するし。
対談は、相手との会話を形成することが必要条件になるので、まあこんな感じなるかなと思う。
いずれにせよ、その後の我々が気を抜いていたから、鈴木奈々の右往左往を見させられる羽目になったのかもしれない。
でも、こういうTV業界だからこそ、華原朋美の奮闘、みたいなのも見られたから、よかったとも感じる。
それでも、森口博子、森脇健児を心から面白がっている…、応援している自分もいて、「でも、それは芸能人である上での評価だからね」と言い訳している自分もいるのは、整理しきれない。
年を取ると、継続のすごみを知ってしまうからだろうか。
そして2025年は、なんと行儀のいい時代なのだろう。
1993年から1995年までくらいの対談が載っている。
忘れていることばかりなのだが、藤田朋子のことはまあそうかなと思いつつ、1990年中ごろの島崎和歌子もその位置だったけな、というのは自信がない。
1994年にはたけしさんのバイク事故があって、気を落としつつ「世間こぞっての心配」に違和感を持つナンシー関の様子が、「その立ち位置だな」と思う。
時期もあいまって、1995年の様子をうかがえるのは、感慨深い。
1995年の1月があって、3月があって、それ以降ずっと価値観を振り回される日々が続いた。
いわゆる多感な時期に1995年を経験したことで、その後の多少のざわつきは受け止められるようになった、というか熱をもって見ることがなくなった、ように思う。
僕の場合、1月と3月の間に自然気胸を発症し、1週間の入院を余儀なくされたのもあり、なおさら刹那を感じやすかったのかもしれない。
病床で見たTVの映像は、想像したことのない灰色だったし、3月に映像で見た防護服などが鮮やかで、その後のものの見方の水準を形成している。
「ザ・ワイド」の読売テレビ枠が自然消滅していったことが、「2時のワイドショー」世代の僕にはこたえて、平穏が失われたように感じた。
この本でもっともよかったのは、カズ山本選手が震災の後すぐに多額の寄付したことが取り上げられていることである。
1994年末の契約更改で年棒2億円に乗せ、翌年には1,000万円を寄付している。
1990年代のひねくれた文脈で育った僕としては、「寄進慣れしていたか」とでも言ってしまう。
そんなものをうち捨てる山本和範選手の実直さに、感涙する。
その年末には自由契約になる。
これも、1995年である。
2025-03-16 Sun.
代替
2025-03-16
新宿ミロードが閉館する。
新宿では東南口を活動の起点としていた僕にとって、ミロードとは、便利な食事処、便利なスターバックスコーヒー、というイメージである。
「ミロードだったら、席は確保できるだろう、何を食べるかはともかくとして」という安易な考えに応えてくれる場所だった。
ずいぶんと昔の記憶をたどると「ドロミ」を思い出す。
本名は、ミロ・ド・ロミ。
ミロードのキャラクターを務めていたが、いつの間にか姿を消し、ミロートンにとって代わられた。
年始に、久しぶりに「ルミ姉」がルミネの広告に現れたのも、ドロミへの惜別の意を表した結果に違いない。
ドロミがいたことが夢だったのか虚偽の記憶なのか、不安になるのだが、確かに「ドロミ像」はあった。
その「ドロミ像」があったのが、モザイク通りだ。
新宿に来るようになり、モザイク通りを「発見」してからというもの、何百回と上り下りを重ねた。
西口から南口へショートカットできるモザイク通りは、京王線ルミネ口とともに、僕の新宿移動を快適にしてくれた。
京王百貨店の脇から、クセのある店舗が並ぶ坂道を階段で上るかスロープを進むかで悩み、時に雨に濡れたタイルで足元が滑りそうになりながらも歩を進めると、いつの間にか建物の中につながっていて、階上に進むと甲州街道をまたぐデッキに出て、そのままサザンテラスに抜けていく。
その感覚が心地よかった。
坂を上る際に、勾配に不満を言う人と、通りのたたずまいと道並みの軽妙さを楽しむ人がいて、それがその後何かの判断基準になったようにも思う。
2023年にモザイク通りが閉鎖されたのは大きなショックで、「これで青春も終わったな」とすら感じた。
閉館を前にして、ミロードで何度か食事をとった。
何ともミロードらしいスタイルの店ぞろい、つまり自分は場違いだった。
館内には開館からの軌跡を振り返るパネルが掲示されていた。
よく探したものの、「ドロミ」に触れられた箇所を見つけられなかった。
HOKUOでパンを買ったのも懐かしいし、失意のうちに山頭火でラーメンを食べたこともあった。。
そんなにゆかりもないのに、ミロードの閉館が自分の人生に1つのピリオドをもたらすような気がしてならない。
これで、新宿フラッグスがなくなるようなら、いよいよ自分の時代は終わる。
そういえば、少し前に新宿アルタも閉館になった。
多くの人が思うように、「前までは行ったことがあるが、中には入ったことのない場所」の代名詞が、新宿アルタであった。
そうは言っても僕は何度も入ってはいるが、新宿アルタに入る目的は「新宿アルタに入る」以外、なかった。
あるいは、そのロゴを池袋や原宿でも見かけて驚く、というのがアルタであった。
こちらも閉館直前に何度か行った。
雑貨があり、オカダヤがあり、レコード店があり、とやはり全く縁のない場所であった。
地下にセブンイレブンがあることに気付かず、もっと早く知っておけば便利だったのに、と悔いた。
五右衛門で何度かスパゲティを食べた。
メニューに加わった「きのことベーコンの和風バター醤油」が、飽きない。
このメニューにもっと早く出会っていれば、もうちょっとここに通ったかもしれない。
エスカレータ脇には、アルタにゆかりのある有名人の直筆入り写真パネルが飾られてあった。
タモリさん、関根さん、小堺さん、爆笑問題、ココリコ、劇団ひとり、タカアンドドシ、又吉直樹、ベッキー、柳原可奈子など、アルタで撮影した写真に、メッセージが寄せられていた。
11年経過したものの、僕は今も、「いいとも」の夢を見る。
先日の夢では、「テレフォンショッキング」に米倉涼子が出ていた。
画面の中でボソボソと話しつつ、うつむいて黙り込み、少し間が空いた後、ようやく気付き、「これもう本番なの?」と叫びだす。
その様子に、タモリさんが上体を前に屈ませながら笑っていた。
「いいとも」がもし続いていたら、いろいろなことがなかったり、あったりしたのだろうな、と思う。
笑福亭鶴瓶のパネルもあった。
見たくもないが、何か違和感がある。
よく見ると、直筆のメッセージで「ところ」とあるべき箇所が「ことろ」となっている。
ウェブ検索してみると、アルタのSNSにその顛末が書かれていた。
スタッフが鶴瓶に間違っていることを指摘すると、鶴瓶は「まあ、ええやろ」と言って、直すことをしなかった。
まともに文字を並べることもできないし、間違いを認めて書き直すことぐらいが未熟な者ができるせめてもの礼儀であるにもかかわらず、書き間違いをそのままにし、あたかも「味」を醸し出したかのようにふるまい、自分が芸の達人であるかのように気取る様が垣間見え、とにかく腹が立って立って仕方なく思えた。
鶴瓶は、粗雑に扱われ、周囲から徹底的にボロカスに言われることにより、あいつの狂気の本性があらわれ、そこにこそ存在価値がある。
どつかれ、くさされ、苦し紛れに「尼崎のドブから生まれたヤツら」と言い放ち、仁鶴兄さんにチクろうとするあわれさ。
加齢、過労、清潔な正義感の2025年。
大好きな場面も、これからはほとんど発生しないのだろうな、と思うと、それこそ自分が楽しかった時代の終焉である。
東京出身で、子供のころから街に親しんできた人を前にすると、ついこないだ東京に出てきた僕はどうも気後れしてしまう。
先日、東京出身者に、今はない新宿にあったものについて、相手も当然知っていると思って話していたのだが、「全然知らないです、東京のこと詳しいですね」と返された。
よく考えたら、その人は十分に若く、僕が東京に出てきた後に生まれていた。
そういう年齢である。
ドロミの話などを披露したら、大惨事。
2025-03-08 Sat.
拝像
2025-03-08
年初と比べ、ドル円が8円ほどドル安。
円に対してドルの価値が5%超、下がった。
普段、勤務時間内は成果物作成に邁進し、勤務時間外は勤務日に備えて体のメンテナンスに気を遣っている。
形式ばることが極端に苦手とはいえ、金をもらう以上、勤務では体裁を整えたものを納めるように努めている。
その結果、2024年は120ドルの利益が残った。
それを打ち消すほどに、資産評価額が大きく下がった。
誰かが金を持っていったわけでもない。
円に対してドルの需要が少なくなり、自分が持っているドル建て資産の評価が下がっただけだ。
ドル高の時には全く実感がない一方で、ドル安は身にこたえ、気になる。
それでも、ドル安自体は、ドル高同様に歓迎する、というか受け止める。
ITエンジニアである僕は、資金の国外流出に大きく荷担させられており、ドル高にはホッとする。
とっとと、円建て価格のクラウド使用料を下げてほしい。
また、エネルギー資源の価格が為替相場に連動して下がることを期待する。
現実は、渋谷のラーメンが1杯900円、大盛が1K円。
市場の変動に揺さぶられ、心の隙間ができる瞬間に、「何のために働いているのだろう」という疑問が挿し込まれてくる。
日銭を稼ぐことと、市場が動くこととの間に、大きな隔たりというか、スケールの違いや振幅の差があり、頭がついていかない。
問いに対する答えは一応出していて、決して金のためではなく、「社会をよりよくするため」に働いている。
賃金の獲得は、社会形成の営みを維持するための制約条件にすぎない。
こういうことを自分にずっと言い聞かせて、心の安定を維持しようとし続けるのみ。
これが、市場の淵に身を置くことが許されている、非力なインデックス投資家の…、市場参加者のできることだ。
それすらできなくなれば、自分の金は、市場ではなく像や壺に吸い込まれていく、しまいには、この身すらも。
ところで、ドル建てで見ると、資産評価額の変動は約1%下落程度。
2025年は投資資金の切り崩しから始まっており、その影響で、状況を正確にとらえるには込み入った計算が必要となり、それは面倒でやっていない。
1%減は正確な計測ではないとはいえ、ベンチマークとしている指標は3%ほどの上昇であり、まあ妥当と言えよう。
NISA参入者の阿鼻叫喚は、僕の耳にはまだ聞こえてこない。
2025-02-28 Fri.
ビハ
2025-02-28
「PAO~N」のイベントが開催された。
配信をしていただき、当日はリモートで参戦した。
後で思い出すため、印象に残ったことを記述する。
- 沢田さんの前ピン、原稿をくしゃくしゃに丸めるところが、最初からかっこよかった。それを投げたものの、全然飛ばなかったのに撃沈。
- 曜日ごとにパーソナリティが出てきて、勢ぞろいする感覚がたまらない。もはや次回作の放送がない「キングオブコントの会」のロバート秋山のコントの再現。
- 波田陽区のお母さんが出て、涙腺ゆるむ。
- 「おにぎり」のコガ☆アキさんが、本当に怖かった。
- コガ☆アキさんのドラえもんが、ゆるぎなかった。
- 何度も見ているのに、何度も見たい、「織田信長のオールナイトニッポン」。
- モノマネは圧巻だった。天龍、岩崎姉妹、佐々木蔵之介。松村さんの時間つなぎジュークボックス。矢野ペペの安定進行。鈴木末七のケツダイラ・マン。
- 波田陽区のネタに、安心感すら覚える。
- サワダヤの漫才は、本当に本当に良かった。同期が長い間仲良く仕事を続け、それを披露していただく、得難い瞬間だった。
- 黒柳徹子の顔芸連発がクセになる。
くだらなかった。
3時間、ずっとくだらなかった。
くだらないことを懸命にやる、という尊さを、実感した。
こんなに楽しいのに、時間通りに終わるのにも、感服した。
今週の放送は、感想戦。
漫才前にレモン水を飲まされたり、生放送中に泣きわめいたり、自分でしたメイクが油絵みたいだったり、手が乾燥して原稿用紙が配れなかったり、舞台の場数を踏んだタレントやアイドルはやはり落ち着いていたり、円熟の今年50歳コンビだったり、波田陽区のお母さん迷子事件があったり、大舞台を経て疲れているにもかかわらず、その後1週間3時間の生放送をつつがなく務めたり。
radiko、爆笑問題太田さん、ストリーミング技術、ピタロンお姉さん、舞台エンジニア、スタッフ、夢グループ、リスナー、「イケイケドンドン」に、感謝しかない。
高さより、長さ。
日常の積み重ねの先に、宝物がある。
目の前の小さなことを丁寧に仕上げる、それを続ける。
2025-02-22 Sat.
真似
2025-02-22
アナウンサーによるフォト&エッセイ(講談社刊)を読了。
あの雨の日の夜…、の話はない。
学生時代は日雇いの仕事をこなし、いろんな状況でも言葉を返すことができる実力を持ち、普段は距離感を保って自分をひそめている。
狩野恵里アナウンサーとは対極にあり、その狩野アナが気にかけてくれたことで、同期アナ2人の積極性に置いて行かれた状況をフォローされている。
対談には、境遇の近い親友の一般人が出てくる。
自分が置かれた状況を受け止め、少しずつ進んできた様子が描かれている。
そんな人となりがわかる、田中瞳アナのフォト&エッセイであった。
2025-02-15 Sat.
老残
2025-02-15
鼻の後ろがかすかに痛い。
あるいは、のどにほんの少しの引っ掛かりを感じる。
この時点で、もう「負け試合」が決定する。
これから、鼻水が出て、のどに痰が絡み、声を出すたびにむせる。
首の筋肉が甲張り、ひじや股関節が痛くなる。
熱が出れば治るものだろうが、加齢のせいか容易には熱が出てくれない。
発熱がなければ、通常の生活を送らざるを得ない。
鼻水を垂らしながら咳をまき散らしながら、相手の要望が理解できないふりを決め込み、できない理由をねじ込む日々。
見るに堪えない様相になってくる。
ぐずぐずとした時間を経て、ようやく熱が出始める。
体が動かなくなって、寝床で横たわっていると、うなされる。
こないだは、プログラミングの新たなパラダイムが隆盛を誇る夢を見た。
その前は、圏論について完全に理解した夢を見た。
いずれも、翌朝になれば無為であることに気付く逡巡である。
熱が引けば、世間は「出てこい」と言ってくる。
熱がないだけで他の症状はそのままで、のどが痛いし、咳は止まらない。
洗面所に行き、個室で鼻をかみ、手をよく洗い、鼻の周りを水で洗い、自席に戻って鼻をかむ。
話をしているのか、咳をしているのか、よくわからない。
風邪のひき初めから治るまで、1か月近くかかる。
これが、1シーズンに2回。
先日は、実に約20シーズンぶりに、大風邪を召した。
熱が出ている実感がないのに体温計は40℃を示し、自分の体に対する感覚すらあてにならないことを思い知らされる。
いつもの4倍くらい時間をかけて身支度を整え、擁壁を伝いながら病院まで行って、医師に検査をしてもらって、ゾフルーザをもらってきた。
僕だって、必要に応じて、素直に通院することもある。
以前は世間知らずからの怖いもの知らずで、周囲に不要な迷惑をかけてきた。
「風邪をひくのも、免疫力の機能チェックみたいなものだから」と訳のわからないことを言って、その結果良識ある人々が離れていった。
現在は、年を取ったせいで、気がますます弱くなっている。
今回の大風邪の症状がつらくて、また休んだ後のリカバリがつらくて、予防接種について真剣に考える。
誰ともつながりがないのから、自衛の道を選ぶしかない。
つながりがないのに、なぜ大風邪がやってくるのかは、知らない。
蛮勇でも臆病でも、実情は全く変わらない。
いつまでも風邪に無力すぎる。
風邪のひき初めに葛根湯を飲むといい、と聞いてから、実践はしている。
今回は大風邪だったのもあり葛根湯の出番はなかったが、普段の風邪であっても、葛根湯の服薬はさして効果を示していないように思う。
服用の仕方が悪いのかもしれないが、やはり冒頭に書いてしまったように、もうひき初めの時点で負け試合なのだ。
そもそも、「風邪をひいた」という感知が遅く、初動が間に合っていない。
いずれにせよ、風邪に気付いたら、消化にいい炭水化物を食し、水分を取って、暖かくして睡眠時間を長くとる、しかない。
普段やっていることはすべて投げ捨て、風邪への対処にリソースを当てる。
それが1か月続いて、それが1シーズンに2回ある。
どれだけ生産性の低い機関なのだろう、誰もこんなの受け入れてくれない。
2025-02-07 Fri.
訣離
2025-02-07
赤川次郎 著「いもうと」を読む。
反省の結果、もう少し積極的にフィクションを読もう、ということで、長らくリストに上がっていた本作を攻略することにした。
「20世紀に見た映画で最も好きな映画」ということに便宜的に決めつけてしまった、「ふたり」。
その原作の続編が出たと聞いてから、ずいぶんと経ってしまった。
まずは、Kindleでサンプルを入手して、読む。
読み飛ばしはしたくないし、限られた時間で読み進めなければならないという制約からも逃れたい。
なので、小説は図書館で借りることをせず、購入することにしているのだ。
もっとも、出費をためらうがゆえ、小説に触れる機会が減っているのも、確かだ。
…。
納税者のたしなみとして、今回は公立図書館の蔵書で済ませることにする。
実加は成長し、企業に勤めている。
母がおらず、父がいて、父の妻がいて、父の妻の娘がいて、真子が戻ってきて、神永が出てくる。
いつの時代のことなのか、時代観がどうにも邪魔に感じるが、そういうものなのだと思う。
何なのだろう「連絡会議」、スポーツインストラクター、ウェディングプランナー。
ホテル勤めが放った率直な物言いが成立する世界とは全くの無縁である自分が情けなくなる。
フィクションならではの事件は起きるし、外泊すれば常にその結果がもたらされる。
時間が動いても何一つ変わることがない、少しだけその神格性を脅かされそうになる千鶴子に対して、感涙する。
石田ひかりでも、奥菜恵でも、どっちであっても、周囲の気随気ままに付き合わざるを得ない、そのような人生を作者に選ばされている主人公に、同情する。
もっとも、幸せな生活は、小説になりがたい。
記憶している以上、これが初めての赤川次郎著作の読書経験だったと思う。
もっとも、自分の記憶は当てにならないし、次の赤川作品が「初めて」になるかもしれない、そんな日が来るかもわからないが。
映画「運命じゃない人」を見る。
これもずいぶん前からリストにあって、ようやく対応する気になった。
その間に、内田けんじ作品の次回作の間隔が空き、中村靖日の次回作を望めなくなってしまった。
つまり、こういう映画が好きである。
ストーリーがすべてであり、ストーリーを描くためにキャラクターがあってほしいし、ストーリーで訴えようとしてこなくていい。
そういったものは、徹底的に抑えきったとしても、結局のところにじみ出てくるものだ。
この映画で言えば、最後にやっぱり戻ってきたところに出てきている。
ただ、戻ったところで、持っていったモノがモノだし、新たなキャラクターも加わることになるし、まだ話は続くだろう。
そういう余韻が、さらによい。
親分には象印賞を差し上げたい。
そして、調布駅。
もはや存在しない地上駅だったころの調布駅の姿を映像に残していることに価値がある。
僕は以前は地上にあり今は地下化されている途中駅の例を、他にあまり知らない…、と書いて、例をいくつか思い浮かべる、近い将来の新井薬師前駅とか。
とにかく、今の調布駅の「片付けられぶり」を思うと、その姿が映像に残っていることがいとおしい。
2025-01-31 Fri.
定職
2025-01-31
月曜、夜。
自分にしては珍しく、オフィスに残ってキーボードをたたいていた。
周囲はもっともらしいビジネスの話をしているのだが、結局僕のところには、ロジックと計算量の憂慮で事足りる話しかやってこない。
残るは、ストレージとネットワークの心配である。
サーバに指示を出し、ディスプレイの電源を落とし、立ち去る。
僕の部下はコンピュータしかいない。
よく働いてくれるし、裏切りも怠慢も脅威もあざけりもない。
言うことを聴きすぎるのが、難点。
そして、出した結果で何かを決められるものか、と訝しむ。
傲慢であり、勇敢であるし、信念と実力が先ではないか。
帰宅すると、「酒場放浪記」の放送も終わっていて、今の僕にとっては無縁の時刻、22時。
熱心にTVを見た。
やはり気になってしまう。
脚が疲れたときにはふくらはぎを揉めばいい、と以前は言われていたが、今は禁忌とされている、その理由は、と問われ、三遊亭わん丈、大沢逸美、照英、芹洋子が回答する。
正解は、「血栓がはがれて、血管が詰まる可能性があるから」。
番組に対して抱いてきた印象と異なり、実に役に立つ番組内容であるが、エンタメ性に欠ける。
1994年にタモリさんは「いいとも」を休んだ理由は、と問われ、画面に向かって「船舶免許の取得」と答える。
こちらは見事正解だったが、2009年にも人間ドックと白内障手術のために休んだことまでは、覚えていなかった。
僕は、見事に「いいとも」を終わらせた人たちの功績を忘れない。
番組の途中で、花王のCMが挿し込まれる。
リアルタイムで「脳ベルSHOW」を視聴したのは、これが初めてだと思う。
4K放送のポテンシャルを実感できる番組。
もう少し見やすい時間だったら、僕は取りつかれたように欠かさず見ていただろう。
危ないところだ。
食事を済ませ、風呂に入り、ウェブでこの日最後のゴシップ収集をすると、まだ続いている、という。
どうやら生中継しているようで、BSフジではなく地上波を見てみると、本当にやっていた。
「TVのお祭り」状態で、少し前の自分なら食い入るように見ていただろう。
今は、体力がない。
翌日以降のニュースを見たが、記者会見で示された事実がどれほどあったのか、読み取れない。
論点がずれないようにしてほしい一方で、いつもと同じように、「事実はさておきに、流れはどうなるのか」を気にする自分もいる。
鵜呑みにする人がいるので、こちらの関心も高まる。
鵜呑みにしていることを棚上げして怒るのも、それはそれで見ものだ。
今頃、全パーソナリティが恐々としているだろうが、惰性に引導を渡すにはグッドタイミングである。
ずるい。
それにしても、「相川七瀬 吉村由美 不仲説の真相」など、いったい誰が気にしていると見込んだのだろう。
これこそ、「脳ベルSHOW」の問題に適切だ。
2025-01-25 Sat.
黒腹
2025-01-25
それはそれは、大問題である。
「仰天ニュース」で出演シーンがカットされても当然である。
前からわかっていた通り、品のない、モラルのない人間である。
フジテレビも共犯である。
とんでもなく不潔なものを電波に乗せたのだから。
鶴瓶がTVから消えることに、何の異論もない。
誰よりも誠実に状況を受け止める、という意気込みで、早起きして「週刊フジテレビ批評」を見る。
騒いでいるみなさんも、当然やっているでしょう?
実際には、4時30分に目が覚めてもう眠れず、起き上がり今週の「相棒」を見て、見終わったらちょうど「週刊フジテレビ批評」が始まった、という次第。
今週の「相棒」は病院乗っ取りの話で、被疑者が杉下右京に事情聴取を懇願するところなど、全体的に好きなテイストだった。
「おはよう 暴れん坊将軍」なんて誰が見るのだろう、と思うのはひよっ子で、いずれは、「おはよう 相棒」を見ることになるのだろう。
で、「週刊フジテレビ批評」だが、改めてフジテレビの「たるみ」が見てとれた。
「新しいカギ」で、女子高生の交際相手を4択から選ばせるというコーナーがある。
ハナコの秋山氏が、観客の高校生に掛け声を要求して盛り上げる一幕が映り、もう見ていられない。
秋山氏は、コントをやるために仕事を頑張っているのだろう、けなげである。
そのコーナーに対する視聴者の投稿があった。
交際相手4択をデータ放送で視聴者に投票させるのだが、画面の選択肢の色表示と、リモコンの4色ボタンの対応が異なっており、そのせいで押し間違えた子どもが悲しそうだった、というのが投稿の内容。
思わず、「信じられない!」と絶叫してしまう。
データ放送が開始され相当の年数が経過しているのに、そんな基本もできていないとは、視聴者をないがしろにした「やっつけ仕事」が垣間見える。
きっと、何かが忙しくてチェックできないのか、そこまで気の回る人材すらいないのか。
その後、「めざまし土曜日」が始まる。
もう、西山喜久恵の笑顔をTVで見ることはないかもしれない。
最近フジテレビの視聴時間が増えており、特にコマーシャルはよく見ている。
お茶の間の傾向も同様だったりして、視聴率が上がったりしているかも。
さて、僕は青松が子供に付き添って走っている姿を見て以来、これは一般のアイドル像とは異なるな、と好感を持つスタンスにいた。
一方で、以前「ゴチになります」でピタリ賞を中居氏が当てたとき、「これ、本当かいな」と率直に思ったことがあった。
僕にまだTVに対する純粋な気持ちがあったほほえましい話ではあるが、その時の印象をこれまでずっと引きずってきたのだ。
ピタリ賞獲得が2002年だったことを知り、それ以来ずっとそんな気持ちで中居氏を見ていたのかと思うと、実に申し訳ない。
おつかれさまでした。
そして、さんまさん。
「SMAP解散以降、中居氏に会っていなかった」と語り、改めてさんまさんのリスク管理感覚と美意識に脱帽する。
「タモリステーション」は、闇バイト特集。
「手っ取り早く金を稼ぎたい」という風潮があるというが、「仕事をする」と「金を得る」の距離や関係が、いささか遠くなっている気がする。
これは、ネガティブな意味でもポジティブな意味でもそうであり、「金のために仕事をしなくてもよい社会」という語られ方が実は助長しているのでは、とも思う。
自由経済に任せていても野菜は生産されず、自農するのが当たり前、という社会が来るのではなかろうか。
2025-01-02 Thu.
苛烈
2025-01-02
2024年の金銭事情を振り返っておこう。
まず、光熱費。
電気代、ガス代の水準はもう以前ほどには戻らないだろう。
政府から料金支援がされてこの代金なのだから、支援が終わったらどうなるのだろう、というか、支援をやめられるのだろうか。
これまで蓄積してきた富が、どんどん国外に流出している。
画期的なエネルギー供給システムを待ちつつ、活動レベルを最低限にとどめる。
家賃も上がる気配、でも、なぜ上がるのか、そのメカニズムは不明。
こっちは、当初から「この家賃でいいんだー」というつもりで賃借契約を結んでいるのだ。
一応家賃を上げる理屈みたいなものはあるみたいだが、だったら今後家賃を下げてくれることもあるのだろうか。
生活費もずいぶんとかかった。
食費が足りず、誰も手を差し伸べてくれないので、自分で緊急支援の補助金を放出した。
COVID-19の時期に商品券を買って飲食店を支援しよう、みたいな話があった気がするが、結果的に残っていた資金を持ち出すことになった。
わかってはいたけれど、やはり誰も助けてはくれない、それは全部自分が悪い。
娯楽費もえらいつかった割には、自身に残っているものがほとんどない。
2024年は旅行に3回行き、予算を大きく越えたので、これもCOVID-19の時にこしらえた蓄えを当てることにした。
大きな買い物がなかったにもかかわらず、貯金をかなり切り崩した。
おおよそ10%の予算超過。
保険料も見ていられない。
年金保険料はまだ受け入れるけれど、健康保険料をこれほど払う意味がわからない。
そう思って使い道を調べると、高齢者の医療費のために拠出している割合が、全体の約半分ほどある。
どのように使われるかを知っておくことは、重要である。
前年にも思ったことだが、もう収入が増えることはないという確信を強くした。
世の中では賃上げが流行っているようだが、自分の周りでは全く聞かない。
いや、周囲が示し合わせた結果、自分だけには誰も教えてくれないのかもしれない。
これからも賃金には期待せず、待遇で元を取ることにする。
相手がだれであっても、誰が見ても分かるような事実についてのみ発言するし、可処分時間を死守する。
本年の営業利益は、120ドル程度だろうか。
余剰に余裕を見出して、KBCラジオ・チャリティー・ミュージックソンに協力する。
そして、資金運用。
年初に立てた計画を、計画通りに実行する、というつまらないシステム。
ただただ口数を増やすだけであり、それを「投資」と称するのも恥ずかしい。
銘柄を見極められる人がうらやましいし、自分にはその才覚がないことも十分にわかっている。
また、事情があって、債券ファンドを換金した。
「なぜこの時期に」との評はもっともで、実際投入額を下回る額が戻ってきた。
10年くらいにわたって金を貸していたはずなのに、配当もなく、なぜ戻りが減る結果になるのか、いよいよわからない。
よって、今期は損失が出たので、しっかり確定申告することにする。
ところで、この1年でドルが15円も上がった。
おそらく1.2Kドルほどの手持ちがあるはずだから、18K円ほど評価利益が出たはずだ。
儲かった気が全くしない。
さて、2025年。
生活費の予算を見直し、増額することにした。
こうしないと、もう暮らしていけない。
財源は、これまで退蔵してきた余剰を切り崩して確保する。
そう、そこまで追い込まれている。
これまでのサイクルが、ついに逆回転することになった。
何もかもが嫌になり、今後はつかっていくことにした、後は知らない。
資金運用については、2024年中に2025年のオペレーションを終えてしまった。
つまり、NISAを移管したのみである。
後はプログラムしたとおりに動くだけ。
本当につまらない。
2024-12-31 Tue.
思丈
2024-12-31
2024年も、しっかり終わろうとしている。
本年90回目のドトールである。
コーヒーの値段が280円まで上がった。
近所のラーメンの値段は、記憶している限り600円だったのが、今は850円で、麺の量も少し減った、気がする。
イノベーションによって物の値段が下がることが、ニューエコノミーだと思ってきた。
もう過去の話だ。
KBCラジオ「ナイトクラブとしま~としまの年忘れ~」を聴いて1年が終わる。
2024年の重大ニュースをまとめると、
- 星野ディスコ、ディナーショー7万円
- 中丸雄一、結婚
- 有安杏果、TOEIC875
- 利根川裕、亡くなる
- テレ東池谷アナ、奨学金完済
- JR時刻表、乗り換え掲載ページの案内がなくなる
- 萩野公介、富田靖子、上村愛子、加護亜依、離婚発覚
- 村田諒太、不倫報道
- 吉幾三、議員に物申す
- 市井紗耶香、1日議員に就任
- 川本源司郎氏、亡くなる
- 小倉の河川敷、いろんな物落ちてる
- アンバランス山本さん、引退
- おかもとまり、宗教団体設立
- 小池百合子都知事、剥離骨折で今季絶望
- 小嶋陽菜、ミリオネア
- 不穏なワタナベエンタ
- 菊地麻衣子、活動休止
- つぶやきシロー、ファミスタで27奪三振で完全試合達成
- 桜庭ななみ、宮内ひとみに改名
ぐらいだろうか。
個人的な2024年最大のニュースは、セザンヌ化粧品のキャラクターが志田彩良に代わったことで、意味なくコスメ売り場に行って、小芝風花のポスターとともに眺める機会が増えた。
三菱電機のCMに出てくる光石研、石田ひかり、神木隆之介、志田紗良が、理想の家族像である。
内田有紀の持ち直し方に気付き、改めて感嘆した。
ミス日本グランプリの辞退が、一番意味が分からなかった。
仕事は、2024年にやった記憶がある仕事が1つくらいしか思い当たらない。
自分の仕事が何なのか、この数年考察を続けてきたが、ようやく「コンピュータからデータを取り出すこと」だと理解した。
抽出条件をうかがい、プログラムを書き、効率的に実行し、正しい結果をお渡しする、ただそれだけである。
結局、計算量と論理式のことばかり考えている日々で、何の面白味も人情味もない。
だから、端末の前に1秒でも長くいることが重要であり、そう言って多くの用事を断った。
人の仕事をどんどん簡略化し、周囲の人間を無用化した。
特にわかりやすい役職を得てないために、この歳になっても誰もおもねってこない。
わかりやすい偉さがないと猫をかぶってくるやつもいなくて、多くの煩わしいことから解放されている。
そのくせ、困ったときに仕事のショートカットを見つけてしまうので、業務上で無視されることもない。
ごくわずかな責任を果たし、多くの責任を果たすよう、周囲の偉い人たちに迫った。
健康面では、相変わらず首の後ろと、左肩が痛い。
年初に左肘の蜂窩織炎にかかったのだが、それ以来痛みと違和感があるような気がする。
でもそれは誤認知でしかない気もするし、もう何もわからない。
右太ももの側面も痛い。
金がなくて、昼食を抜いていたら、体重が少し減った。
腹部の表面が時々チクチク痛むし、心臓あたりが苦しい時もある。
声が出しにくく、他人の言っていることが耳に入ってこない。
落ち着かないし、気温にかかわらず暑すぎる気もするし、全部加齢のせいだ、ということで片付けてしまいたくなる。
世間や周囲ではいろいろとひどいことがあったのだが、自分の身については、悪いこともなく、というか気づかず、近年まれにみる穏やかな1年だった。
旅行も行ったし、イベントにも行ったし、墓参りにも行った。
業務後の過ごし方、休日の過ごし方が安定してきた。
そして、楽しいことがいよいよなくなってきた。
本を読んでも、映画を見ても、記憶力が落ちているので、十分に楽しむことができなくなった。
眼精疲労がひどくて、ゲームをするのもつらい。
数少ない楽しみであった「飲酒」も、飲んでいる時も楽しくないし、飲んだ後も酒が残ってつらい。
おいしいものを食べても胃もたれするし、そもそもおいしいものが気軽に手に入らない世の中になってきた気がする。
22時に寝て、熟睡の末23時半に目覚め、その先一切眠れないことがある。
体は動かないし、飽きっぽいし、面倒なことが多い。
何をやっても何も残らないような気がして、結局何もしない。
吝嗇な自分に嫌気がさす。
きっと、いろいろなことに始末をつけてしまったのだろう。
多くのことは滞ることなく動いていて、ちょっとずつ手を加えては改良を続けているものの、省力化を進めている。
人や機械に仕事をふりまくった結果、手を動かすことも少ない。
強欲な方々の意見を黙殺しているので、地味な出力しか産まず、システムが機能しなくなることも少ない。
システムのオーナーである以上、それなりの上がりは入ってくる。
「もういらない」と言われれば手を離せばいい、それくらいの仕事を残した事実はもう否定できない。
みんなもそうだけど、いなくてもいないなりに世界は動く。
もちろん、まだ手付かずのこともいくつかあって、何も考えていないことが気がかりではある。
先日も、自分の重大な欠陥、というか特徴に気付かされ、周囲に著しい迷惑をまき散らしていた事実を認識した。
生きづらく感じる要因にもたどり着き、それでも幸運なことに、知見の蓄積を活用していく望みが見えてきた。
いつかはそれらの対処をしなければならず、対処できる自分を用意しておく必要がある。
何が起こるのかわからず不安ではあるのだが、結局何かをするのは自分である。
少しの備えはしているし、鍛錬も続けていく一方で、起きてしまうことは仕方ない。
その時考えることができるだけの能力があればいいのだが、その期待も薄い。
何の役に立つかはわからないが、怠けずに、何らかの鍛錬を続けるよう心がけたい。
2024-12-28 Sat.
展職
2024-12-28
「昭和100年問題」の対処を命じられることなく、というか話題にもならず、業務を終えた。
オフィスを去り、鍋焼きうどんを食べ、ウィスキーをたしなみ、2024年を締めくくる。
11月に行政書士試験を受けて以降、僕の中ではすでに年末感がただよい始めた。
この1か月半ほどは、仕事をしないモードが加速し、どうやって年末を迎えるかばかりを考える日々を送った。
熱はないが、咳はずっと続き、自分が「あるウィルスに感染しても発症しないタイプ」の人間ではないかと疑った。
そういえば、周囲がバタバタと倒れていき、仕事の差配をし直したような気がする。
さて、2024年は、本を約130冊読んだ、ことになっている。
2024年最も衝撃的だったのは、図書館で本を借り、その本を最後まで読み、いくつかのユリイカを得、読書記録管理システムに登録した際に、その本を以前読んでいた記録の存在を発見したことである。
これまでも、ある本を読んだ記憶はあるものの、中身を見るとほぼ初見の感覚、ということはあった。
また、以前読んだことを覚えていないまま本を手にしたことはあったが、読んでいる途中で既視感を覚え、記憶を取り戻したこともあった。
しかしながら、読んだ記憶も出てこず、中身を見ても新鮮な発見に満ちていて、以前読んだことに最後まで気付かなかったことは、初めて経験だった。
記録管理システムがなければ、そのままやり過ごすところだった。
本年中に読んだ本のリストを見返しても、「これ本当に読んだか?」というタイトルの本がいくつかある。
「融資地獄 : 「かぼちゃの馬車事件」に学ぶ不動産投資ローンの罠と救済策」など、内容を全く覚えていないが、タイトルだけ見ると面白そうであり、読んだ人に感想を聞いてみたい、たぶん「読んだことあったかな?」と言うだろうが。
良かったという本をいくつか挙げておくと、
- 本多正識「1秒で答えをつくる力」:実践は困難で、鍛錬あるのみ
- ビートたけし「頂上対談」:時代は変遷する、だからこそ書籍が必要である。2024年は、村山斉先生との対談がTV放送され、たけしさんの途方のない考え方を語るシーンの真似をずいぶんした。
- 田村昇平「御社のシステム発注は、なぜ「ベンダー選び」で失敗するのか」:失敗があるところに、仕事とカネが産まれるわけだから、恐ろしい。
- 室脇慶彦「IT負債 : 基幹系システム「2025年の崖」を飛び越えろ」:来年になると崖から落ちる自分の身が容易に想像できる。
- 阿部寛「アベちゃんの悲劇」:タフで繊細。
- 広末涼子「ヒロスエの思考地図 : しあわせのかたち」:タフで独尊。
- 小久保裕紀「一瞬に生きる」:最後の一瞬で、出てしまった。
- 山田隆太「SEの基本」:こんな難しいこと、してたかな。
- 木原直哉「東大卒ポーカー王者が教える勝つための確率思考」:取りつかれてはいけない。
- 高橋安幸「根本陸夫伝 : プロ野球のすべてを知っていた男」:インプットなければ結果はなく、高度な遊び道具を持っておくべき。
- 藤野英人「投資家みたいに生きろ」:むしろ、生きていない人がいるのか、とほくそ笑む。
など。
岩尾俊兵「日本企業はなぜ「強み」を捨てるのか」を読んだときは「確かに」と思ったものだが、今となっては何が書かれてあったか覚えていない。
ただ、この考え方については十分考慮するべきで、自分の「強み」、成功要因というものを、他者や雰囲気に惑わされず、正確に把握する必要がある。
それは、自身の観察で得られる自身固有のものであり、他者から「強み」が譲り渡される、もしくは他者の「強み」を真似できるものではない。
観察のためには、まず自身が「成功」しなければならないわけだが、その成功も大きく考えるのではなく、自分の小さな「成功」を徹底的分析して、それを少しずつ広げていけばよい。
あるいは、「成功」の「要因」が通用する場所を探す、居座るということを戦略的に行う必要がある。
島崎遥香「ぱるるのおひとりさま論」などは、その教科書的書籍である。
年末の予算編成を見ていて、神野直彦「財政と民主主義」のことを思い出し、国家財政とは民主主義の発露であると認識する。
参政党に言われなくても、投票結果が露骨に反映されることには気づいてほしいし、その調整がいくつも走っていることにも注目したい。
もはや調査報道をしているのは「しんぶん赤旗」だけで、他のメディアは「メディア観察」と「考察収集」をしているだけなのかもしれない。
9月ごろ、三崎優太「億を稼ぐ美学」、杉原杏璃「お金に働いてもらう!ほったらかし投資 : 貯金ゼロ、知識ゼロからの投資入門」、森博嗣「お金の減らし方」を同時に読み進め、頭がいい感じに混乱した。
金を使うため、あるいは金を得るために金を使うシーンが世間にはあるようで、巻き込まれないように気を付けなければならない。
したい何かをするための1つの要件に金であり、そのための金を稼ぐというのがまっとうだと思う。
自分は苦痛と退屈が嫌で、その解消手段としての金の役割をとらえている。
得意なことをやって対価を得ているだけだから、なんともみっともない。
その点、冨塚あすか「職業、お金持ち。 : 「愛されて幸せなお金持ち」になる32の教え」は、手に取るきっかけは「この方は、どのような人なのかしら」というものだったのだが、内容が恐ろしく正直で、わかりやすく、実践的で、核心を付いているように思った。
この本はぜひとも薦めたいし、この本を読んでいれば、著者のオンラインサロンへの支払いを先延ばしできるはずだ。
八名信夫「悪役は口に苦し」で、若山富三郎が映画関係者に土下座しているシーンが描かれているのは、控えめに言って仰天した。
中山秀征「いばらない生き方 テレビタレントの仕事術」を読み、「だから、自分は現代のTV番組から離れていったんだ」という理由に、30年来の思いとともに行きついた気がした。
たまたま聞いたラジオ番組で、とても好感の持てる話し方をしていたので、川村エミコ「わたしもかわいく生まれたかったな」を読んだ。
伊藤彰彦「なぜ80年代映画は私たちを熱狂させたのか」で結構興奮してしまい、もうこういうことは起きないのかな、と寂しく思った。
宇都宮浄人、柴山多佳児 「持続可能な交通まちづくり : 欧州の実践に学ぶ」を読み、戦略にどう合わせていけば快適な生活を送れるのか模索した。
「われらラジオ異星人 : みんなと歩んだ地方番組の裏側」を読み、ただただ感謝した。
存在を全く知らなかった、シーラッハ「珈琲と煙草」が2024年の大きな収穫である。
宮本常一「忘れられた日本人」で、自分の興味の行く先が見えてきた気がしたし、長年読み進めてきた「宮脇俊三 電子全集」も来年には完読しそうであり、さみしい。
現在読み進めている、大西康之「起業の天才!―江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男」が面白すぎて、2025年の読書の方向性を決めそうだ。
フィクションでは、ビートたけし「少年」を読み、素朴な文章が描くささやかな出来事に思いを馳せた。
アーサー・クラーク「楽園の泉」に、かなり手こずった。
ゴーゴリ「外套 ; 鼻」を読み、大笑いした。
吉本ばなな「TUGUMI」を読み、「こういうのを読みたかったんだよな」と思い出し、野呂邦暢「草のつるぎ」「一滴の夏」を読み、心を落ち着かせた。
こちらも、今読んでいる村田沙耶香「コンビニ人間」にどはまりしていて、来年のふるまい方に影響を及ぼしそうで、ひとまず周囲に謝っておく。
フィクションはあまり進んでおらず、課題である。
映画は、20本ほど見ていた。
この日記にほとんど書いてきたが、それ以外だと「王手」を見たのがよかった。
「すばらしき世界」を見て、この世界がちっともすばらしくないことを実感した。
見た映画が少ないのは、単にさぼっているだけだな、と反省する。
音楽は、特に進展はない。
「Neighbors Complain」の音源を手に入れた。
Yahooショッピングの商品券の使い道がなく、「東京マリーゴールド オリジナルサウンドトラック」を買い、ジャケットを眺めている。
年末の掃除で、外付けSSDのファイルがすべて見えなくなった。
チェックディスクを行うと隠しフォルダができたので、フリーソフトでサルベージしようとしたが、サイズが大きくて復元するには10K円の課金が必要と出てきた。
でも、自力で何とかした。
20K曲を失いかけ、ちょっと言葉を失い、橋本環奈もびっくりであろう。
TV番組の記憶はほとんどないが、とにかく「VRおじさんの初恋」がよくて、もう1回見たい。
体が心を束縛しているのだ。
「平野レミの早わざレシピ!」田中麗奈さん出演回は、言うまでもなく見返している。
そういえば「華丸・大吉のなんしようと?」にも田中麗奈さんが出演して、久留米への凱旋帰郷はよかった。
そして、映画「がんばっていきまっしょい」の出演者が再集結したのも…、となるときりがなくなる。
話は変わって、「内P」の復活に喜んだ一方で、過去の「内P」をTVerで見返し、昔は無邪気に笑っていたものだが、今見ると、芸人の才能がむき出しになる恐ろしい番組だと再自覚した。
タマ職人の大喜利職人ぶりは、年明けの出川哲朗還暦祭で思い知らされた。
有吉弘行の「普段の仕事の方が大変。むしろこういうことがしたくて芸人になった」というのが、2024年の至言である。
現在最大の懸念は、3年連続リアルタイムで見てきた「芸能人オールスター草野球」が、30日に放送されるかどうかである。
もともと混じってくることに不穏な雰囲気を感じていたのだが、やはり芸人だけでやり続けれていれば安心だったな…。
2024-12-14 Sat.
覚醒
2024-12-14
ICEの国岡真由美さんが、ラジオ2番組に出演。
朝の番組、ということで、「WAKE UP EVERYBODY」が披露された。
「目覚め」の必要性についてはわからないが、少なくとも人々は、自分については、目覚める必要があるのではないか。
「FUTURE is now!」とはいえ、普遍を見つけることが、われわれには単なる「未来」にしか見えないのかもしれない。
六本木で行われたライブのソフト化、およびソロによるアコースティックライブでやっているものの音源化に言及していた。
2025年も、これで暮らしていけそう。
「THIS IS ICE」を聴く。
選曲に着目すると、新鮮さを感じ、これはこれで作品なのだと実感する。
最近の感覚だと、「FLOWER」の終わりの部分で雰囲気が変わるのが、震える。
PCの前で「ズチャズチャ」小さく言っているときは、きっと「SOUL LOVERS」を口ずさんでいる。
「EYES OF YOUR MIND」を聴くと、次はどうなっていたのだろう、という思いが募る。
このアルバムを部屋の中で陽にあたりながら聴くのが、僕の残された、というか、最初からほとんどない、数少ない楽しみの1つだ。
それも、15時を過ぎるころには失われる。