携帯電話とぼく
報道によると、レアメタルが世界的に不足している。
携帯電話の内部にもレアメタルは多数使われているそうで、使用しなくなった携帯電話のリサイクルが推奨されている。
これまで、機種変更して使わなくなった携帯電話を保管してきた。
どんな携帯電話を持っていたのか忘れないように、また古い携帯電話を見て昔を懐かしむためだ。
保管場所もそんなには取らないので、狭い我が家でも保管することができた。
しかしながら、昨今のエコロジーブームに安直にほだされてしまった。
僕も、リサイクルに貢献することにしよう。
だが、美しい思い出を残しておきたい質(たち)なので、手放す前に記録を残すことにした。
機種一覧
- 1998 機種名不明(PHS; NTTパーソナル)
- 1998-11 機種名不明(J-PHONE)
- 2000-夏 機種名不明(PHS; アステル)
- 2000-10 J-D03(J-PHONE)
- 2002-10 J-SA51(J-PHONE)
- 2004-05 機種名不明(J-PHONE)
- 2005-01 802SH(ボーダフォン)
- 2007-07 815SH(ソフトバンクモバイル)
ケータイ前史
僕は、高校時代を小倉で過ごした。
僕が高校生だった頃、1980年代以来の女子高校生ブームが到来していた。
いや、ブームというより、市場の購買力において有力勢力、ひいては主役と目されいた。
今では当たり前のことだが、女子高校生がマーケティングに参加し始めたのもこのころだ。
女子高校生と同世代の安室奈美恵がTKプロデュースによってさらに売れ、流行の中心を担っていた。
また、制服を売る、援助交際など、社会問題も取りざたされており、一部で女子高校生が問題視されていた…。
とは、僕が小倉で見ていたテレビ番組「トゥナイト」などから得た情報である。
先端的小倉生活者は「ドォーモ」を見ないと「おいらの街」に書いてあったのだ(「美少女図鑑」にどう書いてあるかは知らない)。
安室奈美恵はともかく、女子高校生が時代の中心になっているという実感を、小倉にいる僕は全く持てなかった。
確かにテレビではよく見たのだが、小倉の街でルーズソックスを履いている女子高校生を実際に見たことはなかった。
僕が通った高校では、確か靴下の丈の長さがどうとか、靴下をいくつ折りにしなければヒステリックな指導を受ける、とかいう話が女子高校生の間でなされていたはずだ。
その頃、テレビの中の高校生たちが持っていたのがポケットベルである。
画面に表示される数字を符牒にして言葉を伝える、という時代がひとまず終わり、画面に日本語が表示できるようになっていた。
高校生たちが街中の公衆電話を使ってポケットベルにメッセージを送っている光景がよく目にされ、公衆電話を高校生が独占するという問題も生じていた…。
とは、やはりテレビから得た情報である。
一方、こちらは小倉。
もちろん、僕が高校時代に、ポケットベルを持っている同級生を見たことがなかった。
同じ国で同じ時代を生きているはずなのに、こうも違うものなのか、とほざいてみたりしたのだが、そんな話は誰も聞いてはくれなかった。
昔の話である。
普及当初
1997年。
大学の入学手続きのために教室の片隅に座っていた僕の目に、携帯電話を手にした大学生の姿が飛び込んできた。
この姿には表面上は冷静に、しかし内心ではものすごく驚いた。
携帯電話があることはもちろん知っていたが、大学生が持つようなものではまだない、という認識があったからだ。
「携帯電話が普及したのは、我が党の政策が実現したからです」と神保町で公明党が喧伝していたのに出くわしたことがあったが、たぶんそれが理由だったのだろう。
大学のサークルの新入生勧誘でも、電話番号を聞かれた際に携帯電話所持の有無をちらほら聞かれた。
それでも、クラスの同級生で携帯電話を持っている人はほとんどおらず、クラスで作った名簿に自宅の有線電話の番号を載せている人がほとんどだった。
この年の10月くらいに思ったことは、街中や電車内で携帯電話を見ない日がないなー、ということだ。
まだ、携帯電話は誰でも持っているようなものではなかった。
しかし、街で見かける人のうち2、3人くらいは、携帯電話を手にしている人がいた。
そのくらいの普及具合だった。
この頃、「0円携帯」というのが売られていた。
本体費用はタダ、ただし毎月の料金は通常通りという普及戦略(いわゆる「US*N商法」)である。
地味な京王井の頭線の中でも最も地味な三鷹台駅の前でさえも、道端にテーブルを出しその上に携帯電話を並べ、盛んに宣伝していた。
また、この頃、自宅によく電話がかかってきた。
電話の内容は、「あなたにPHSが当たりましたから、私どものオフィスまでいらしてください」というものである。
これとは別に、英会話教室の勧誘とか、何チャラクラブの入会案内(会員証を作ると、何千もの店で割引サービスを受けられる)とか、本当にたくさんの電話かかってきた。
中には「西荻窪の駅まで迎えに行きますから、ぜひお越しください」というのもあった。
内容から察するに、電話の相手は、僕が大学生であることを知っているようだった。
もちろん、それらは全て丁重にお断りした。
始めたばかりの一人暮らしにおいて、無事に生きていくための訓練がこれらの勧誘電話に対する応対によりずいぶんできたと思う。
それにしても、引っ越してきて間もない僕の自宅の電話番号を何故知っていたのだろう。
まさか、サークルに勧誘された時に教えた個人情報が、そのサークルの収入源として売られていたのではあるまい。
最初のPHS
1998年、西新宿のビルの狭間で、突然胸痛に襲われ倒れてしまった。
3度目の自然気胸である。
入院したが、1週間くらいで退院できた。
退院後、一人暮らしの身だし、またいつ気胸が再発してもおかしくない身でもあったので、めっきり気弱になってしまった。
そんな経緯で一念発起し、あまり持ちたくはなかった携帯電話を買うことにした。
そのころ生活費にほとんど余裕がなかった。
そこで、不本意ながら、携帯電話と比較して料金が安いPHSを選択した。
業者は、NTTパーソナル。
たしか、吉祥寺のサンロードにあるショップで購入した、と記憶する。
手元にないので機種は忘れたが、色はダークグレー、画面はモノクロ。
ボタンがカバーで隠れるフリップ型(いわゆる「パカパカ」)。
電話番号も忘れてしまった。
当時、PHSは屋内ではつながりづらいという欠点があった。
その欠点を補うために、家の中に電波を中継する「ホームアンテナ」という装置が無料もしくは安い値段でリースされていた。
僕も、そのホームアンテナを利用することにした。
でも、ホームアンテナの効果むなしく、家の中では全然つながらなかった。
この頃、大学のキャンパスの構内に携帯電話のアンテナを設置するか否かで、かなりの議論が巻き起こった時代だった。
キャンパスの建物の上にアンテナが立つ、というだけでニュースになったりもした。
だが、この話も、PHS保持者の僕には全く関係なかった。
分厚い壁に囲まれた教室に入ると、PHSなんて全然つながらない。
僕の数少ない友人は僕のPHSに不満をもらし、多くの知人とは疎遠になった。
まだまだ、自宅の有線電話で長電話していた頃の話である。
最初のケータイ
PHSを使って半年あまり。
早くも、その電波状況に業を煮やしてしまった。
1998年11月。
ついにPHSから携帯電話に乗り越えることにした。
業者は、J-PHONE(東京デジタルフォン)にした。
理由は、「都会でつながりやすい」と宣伝していたから。
ただ、今思うに、これは加入者が比較的少なかったからであろう。
前身の東京デジタルホンのCMも好きだったし、藤原紀香のCMも話題になっていたのも選んだ理由。
僕は当時「NTTやIDOなんて、古いでしょ」とか言っていた気がする。
もっとも、東京デジタルフォンも日本テレコム系であり、十分古いと言えることは全く知らなかった。
いつの時代も、僕は宣伝に弱い。
この時購入した本体は、今は手元にない。
機種が何だったか、忘れた。
メーカーも、色も、液晶がカラーだったかも、何もかも覚えていない。
ただ、型番は「DP-」ではなく、「J-」だったと思う。
メーカーは、PかNかFかTあたりだろう。
契約する際、印鑑を持ってなくて困ったが、ショップの店員には「近所のハンコ屋で100円で売ってますから、そこで買ってきてください」と言われた。
ただ、僕の名字はポピュラーではなかったので、ハンコ屋に僕の名字の印鑑は置いていなかった。
PHSから携帯電話に乗り換えたため、電話番号が変わってしまった。
そのことを知人に教えなかったため、連絡が取れなくなった知人に結構怒られた。
また、このあとすぐに電話番号が11桁になった。
番号をどうしても覚えられないので、番号の語呂合わせをむりくり作ったりした(今もその語呂合わせで番号を覚えている)。
都会に強い、というふれこみのJ-PHONEだったが、使ってみたら電波が入らないことが多かった。
「(ここでは)J-PHONE(の電波)は入らないけどね」というのが、その当時の口癖である。
いわゆる「着メロ」がついていなかったが、音階を打ち込んで着信音を自作することができた。
しかし、和音が使えず、音色も一種類。
たしか、COSA NOSTRAの「Girl Talk -Never Fall In Love Again-」や、「笑っていいとも」のジングルを作った、という地味な記憶がある。
東銀座の映画館で「ニンゲン合格」を見た際、座席に電話を置き忘れたことがあった。
下北沢の駅で気付き、東銀座まで取りに戻り、無事に見つかった。
このころ、僕は携帯電話のことを「悪魔の道具」「ねずみ講」「新手の宗教」と呼んていた。
人と待ち合わせの約束をした際、待ち合わせの相手が携帯電話を持っていないと、事情が悪くなったり約束を変更したいと思ったりした場合に連絡がとれない。
だから、携帯電話を持っている人が持ってない人に携帯電話の所持を執拗に迫る、という出来事が頻発していた。
その現象を称して、「悪魔の道具」などと呼んでいたのだ。
また、このころから、待ち合わせの約束に対してルーズに考える人が増えてきた。
待ち合わせの場所を詳細に決めなかったり、約束の時間を守らなかったり、そういう人たちだ。
僕もその1人で、「携帯電話がなかった時代、人はどうやって待ち合わせをしていたのか?」と悩む、いわゆる文明病にかかっていた。
これ以後、携帯電話を2年おきに買い換えることになる。
理由は、新機能が搭載された機種が次々と発売されるので、時代についていこうと思ったから。
その一方で、購入から2年経たたないと機種変更が安くならないため、2年周期という習慣ができた。
2度目のPHS
2000年、夏。
企業研修に参加するため、1か月くらい自宅を離れることになった。
現地での連絡手段を確保するため、携帯電話に加えてPHSを持つことにした。
通話料金が安く、かつ長いメールが打てる、というのが、PHS契約の理由。
確か、業者はアステルだったと思う。
メールアドレスに「pdx」が入っていた気がする。
1か月の企業研修から自宅に戻ってきて、速攻で解約した。
16和音
2000年10月、2台目となる携帯電話を購入した。
機種は、三菱電機製のJ-D03[wikipedia][#]。
当時の僕が三菱電機製をすすんで買うことはなかったのだが、あえてこれにした。
それには以下の理由がある。
前の携帯電話はボタンがむき出しで、ポケットの中に入れていると意図しないのにボタンが押されてしまい、誰かに電話がかかったりしていた。
だから、どうしてもボタンがむき出しでない機種が欲しかった。
2つ折りの機種が少しずつ出ていたのだが、本体のサイズがまだまだ大きかった。
ボタンがカバーで隠れる、いわゆる「パカパカ」は桑田佳祐が宣伝していた三菱製しかなかった。
なぜ、買い換えようかと思ったのか。
それは、着信音に不満があったのである。
J-D03の特色は、その当時まだ珍しかった16和音機能。
「着メロ」も使えて、すごくよかった。
大学での講義中に、買ってすぐの携帯電話の着信音が鳴り、その16和音の性能に友人にはずいぶんと驚かれる一方で、多くのひんしゅくも買った。
三菱製の特徴に、「アニメッチャ」というのがあった。
調べると、キャラクターが待ち受け中に登場したり、似顔絵が作成できたり、というものだったらしい。
ただ、具体的な記憶が全くない。
また、「ステーション」という機能があり、最新ニュースがプッシュ型で配信された。
アンテナの位置から現在地を割り出し、近所のレストランを探す、という機能もあった。
1度だけ使って、「あんまし使えないな」と判断した。
この後、僕は「FIVA MPC-216XL」というミニノートパソコンを買うことになるのだが、そのPCとUSBでつなぐことに挑戦したことがある。
旅行先にPCを持ち込み、携帯電話でネットと接続する、ということをやってみた。
平戸の旅館で、仲居に「これだから都会者は」というような目で見られた。
購入したケーブルを使って、アドレス帳の中身をPCに取り出したりもした。
そのデータは今でもPCに残っているが、肝心のソフトウェアがなく、読むことができない。
ところが、最近になってデータの中身をプリントアウトした紙を発見し、データを復旧することができた。
やはり、紙に限る。
その当時、僕は派遣のバイトをしていた。
そのバイト先の社長に携帯電話の番号を教えると、とんでもない時間に仕事依頼の電話がかかってくる、というのがもっぱらの噂だったので、社長には携帯電話を持っていることを知られないようにしていた。
「携帯電話を持っていないんです」という嘘が、まだ通じた時代である。
ちなみに、ここのバイト先の社長は普及初期の携帯電話をその当時も使っていた。
その頃に普及していた携帯電話と比べると社長が持っていた携帯電話はかなり大きく、体積比は約5倍はあった。
社長は、ベルトに携帯電話の大きなケースをつけ、それに電話を入れて持ち歩いていた。
「使い慣れた機種がいいから」というのが、買い換えを拒否していた社長の弁。
また、世間では迷惑メール被害が多発し、友人たちがパケット料金の高さを嘆いていた。
迷惑メールを減らすため、メールアドレスを変更する人も多かった。
ただし、J-PHONEユーザーの僕には無関係。
J-PHONEで迷惑メールが少なかったのには何か理由があったはずだが、忘れてしまった。
メールについては、センター問い合わせをしなくても、3日間はメールを送り続けてくれる、というのが、他の業者とは違うJ-PHONEのいいところだった。
J-PHONEはいろいろと便利な機能があったり、革新的な機能を提供してくれたりする一方で、つながりにくいという最大の欠点が常につきまとっていた。
このころ、僕は土木の勉強をしていた。
土木のいろいろな先輩方から伺った話によると、土木関係者はもっぱらドコモユーザーである。
なぜなら、ドコモが一番電波を受信できるからである。
土木関係者は往々にして都市から離れたところ(山とか海とか)で仕事をするが、そんな場所でも電波が一番入るのは、この国の津々浦々までアンテナを設置しているドコモ。
実際、群馬県の山奥にあるダム建設現場に行ったことがあるが、そこでもドコモだけが受信圏外ではなかった。
その話が、僕が土木業界から身を引こうと思った理由の1つであることは間違いない。
先日久しぶりに電源を入れたが、データは全て吹っ飛んでしまっていた。
デジカメケータイ
2002年。
僕は、その年にネパールに行くことになった。
当時、デジタルカメラが普及し始めた頃だが、僕は持っていなかった。
ちょうど携帯電話買い換えの時期だったので、こちらも普及しつつあったデジタルカメラ機能付きの携帯電話を買うことにした。
購入は、2002年10月。
機種は、J-SA51(三洋電機製)。
色は、ベルベットネイビー。
J-PHONEのウェブサイトで購入したのではないかと記憶する。
初めて手にした2つ折りの機種。
本当は「パカパカ」がよかったのだが、その頃にはもうほとんどなかったように記憶する。
これまで敬遠していた2つ折りだったけど、その当時の携帯電話はほとんど2つ折りだったし、かなり小さくなったので購入した。
ただ、メーカーが三洋製という、またまた普段の僕ではあり得ない選択をした。
「デジタルカメラの性能は三洋がいい」と友人に聴いたのが、購入を決めた理由。
ただし、それはデジタルカメラに限られる話のようで、携帯電話についてはどうなんだろう。
予定通り、実際にネパールに持参した。
エベレストが機窓から見える飛行機内で写真を撮ろうとして、キャビンアテンダントにひどくたしなめられた。
ポカラの山頂で写真を撮ったんだけど、そのデータは吹っ飛んでしまった。
メールの着メロを上原ひろみの「The Tom and Jerry Show」にしたことがあった。
そのせいで、メールが来る度、かなり気が焦った。
♪ティアリヤタリヤラティラリヤラタリヤラタッタンターンタンー
このころ、携帯電話は就職活動の必須アイテムになっていた。
志望先の企業にも、携帯電話の番号をお伝えした。
一方で、教えた記憶もないのに、なぜか防衛庁からも求人案内の連絡が携帯電話にかかってきたことがある。
この国の政府諜報機関がまともに機能している証拠だろう、安心、安心。
この携帯電話を持っている時に、J-PHONEはボーダフォンに買収された。
これにより、メールアドレスの@以降が変更された。
アドレスが変更されて、メールが一時期めっきり来なくなった。
この機種の最大の弱点は、赤外線通信機能がついていなかったことにある。
就職したばかりの頃、アドレス交換がスムーズにできず、ずいぶんと煮え湯を飲まされた。
使っているうちに、端子のカバーが脱落したり、アンテナの先端が折れたりもした。
今も手元にあるが、電源ボタンを押しても、画面が明るくなるだけで全く動かない。
緊急措置
2004年5月頃。
そのとき使っていた、J-SA51の動作がしだいに緩慢になってきて、ついには全く動かなくなった。
おそらく読みもしないメールを受信しすぎたのが原因だと思う。
ったく…。
早速、渋谷のボーダフォンショップに動かなくなった携帯電話を持っていった。
店員は、復旧に全力を尽くすが、たぶん復旧しない、と言った。
その際、ショップから代替の機種を1週間くらい借りた。
どんな機種かは忘れたが、たしか東芝製だったと思う。
1週間後、中身をそうとっかえされた携帯電話が手元に戻ってきた。
「火の鳥」を読んだばかりだったせいか、中身を取り替えられた携帯電話が何だか薄汚く見えた。
修理費用が軽減される「アフターサービス」をこのとき初めて使った。
先端が折れたアンテナも元通りに。
でも、店員が通告した通りアドレス帳は復活しなかったので、多くの人たちにこちらから連絡が取れなくなった。
今でも音信不通の知人がずいぶんといる。
3Gケータイ
2005年1月、新たな携帯電話を購入した。
機種名は、802SH(シャープ)[wikipedia]。
J-PHONEからボーダフォンになって、初めての機種。
色は、シャイニーブラウン。
ビックカメラ新宿店で購入した。
メーカーから派遣された臨時店員にいろいろ便宜を図ってもらい、マイラインがどうとかという説明まで聞いて、かなり安くしてもらった。
この機種から、第3世代の携帯電話(3G)になった。
この頃はまだ3Gの電波が弱く、ありがちな話だが自宅ではよく圏外になったため、周囲からはしばらく不評だった。
ちょうどボーダフォンが3Gの電波の弱い場所についてアンケートを採っていたので、すぐに報告した。
この機種で、赤外線通信機能をようやく手にすることができた。
ただ、送受信部が2つ折りの付け根の目立たない部分にあったため、しばらくの間どうやって通信をするのかわからなかった。
切望した赤外線通信だが、結局5回くらいしか使ったことがない。
SDカード(128MB)も購入した。
前の携帯電話で撮った写真データが手元にないのは、その機種でメモリカードを使えなかったからだったんだな。
この頃のトレンドは、液晶やデジタルカメラの性能向上で、この機種もこれまでのものと比べ画素数が格段に増えた。
仕事の会議後に、ホワイトボードの書き込みをこのカメラでおさめて、後で使ったこともあった。
このウェブサイトの日記に画像を載せられるようにもした。
QRコードを読み取れるようになったのも、この機種からだ。
このころ、ちょっとしたQRコードブームで、QRコードを載せた名刺や年賀状を見たこともある。
このウェブサイトでも、QRコードを載せてみたことがある。
この機種の難点は、本体が少し大きかったことだ。
それに、角張っていて持ちづらかった。
何度か落としてしまい、早い段階でボディが欠けた。
それに、ボタンの操作がこれまでのものとずいぶん違っていた記憶がある。
最近知ったのだが、Bluetooth機能がいち早くついていた。
使ったことないけど。
一度、通勤電車内で紛失したことがあった。
だが、鉄道会社のご迅速かつご丁寧な対応により、何とか見つかった。
でも、落下したときの衝撃のせいか、USIMカードがいかれてしまい、ボーダフォンショップで余計な料金を取られた。
ボーダフォンショップの対応に、大人げなくイライラした。
あの時の店員さん、ごめんなさい。
プログラムの不具合、ではなくバージョンアップがあって、2回くらいボーダフォンショップに持って行った。
お詫びの意味があったのか、500円分のクオカードをもらったことがある。
その頃、職場で「ボーダフォンがダメになったら、会社をドコモに買い取ってもらいたい」という冗談をよく言っていた。
結局、ボーダフォンをソフトバンクが買収する、という悪夢が現実になり、職場のドコモユーザーにかなり嘲笑された。
この携帯電話は、インドにも持って行った。
インドの地でも、電話やメールを使うことができた。
現地で迷惑メールを受信してしまい、後で高額な通信料金を請求された。
海外でメールを受信しないようにするのは、必須の設定である。
末期には、カメラのレンズ(内部)にカビみたいなものが付着してしまった。
おかげで写真を撮ると黒い影が映るようになり、心霊写真が簡単に完成。
久しぶりに電源を入れたが、USIMがないと全く動かない。
USIMを入れると復活。
メールをSDカードにエクスポートできないので、当分手放すことはできないだろう。
僕越え
2007年7月、新たな携帯電話を購入した。
ヨドバシカメラで、衝動的に。
そろそろ、おさいふケータイを使ってみよう、という気になったのだ。
機種は、815SH。
色は、メタルブルー。
ボーダフォンからソフトバンクに変わって、初めて購入した機種。
本体の代金を月賦で支払うという、「新ボーナスプラン」で購入した。
ホワイトプランでは料金の割引の恩恵に預かれないので、パケット割を初めて付けてみた。
1度だけパケット割の上限に達したことがあるが、現在は下限にも達しない。
携帯電話でウェブを見る人と見ない人では世界認識に大きな差がある、と僕は密かに思っている。
この携帯電話、実は着信音を聞いたことがほとんどない。
常にマナーモードにしているからだ。
おさいふケータイ機能も使えるはずだが、結局使ったことがない。
Bluetoothにも対応しているはずだが、何に使うのか最近まで知らなかった。
さらには、顔認証機能までついているが、認証されなくなりそうで、怖くて使えない。
機能がついに自分の理解を超えてしまった、初めての機種である。
microSDカードも購入。
カードの容量をどれくらいにするか悩んだが、(当時としては)思い切って1GBにしてみた。
ただ、こちらも十分活用したことがない。
この機種から、携帯電話を充電する際に使うホルダーが標準で付属しなくなった。
端子に充電器を直につなぐとよくない、と聞いていたので、ポイントを使ってホルダーを入手した。
ポケットに入れていたアメが体温で溶けてしまい、一緒のポケットに入っていた携帯電話の内部にまでアメが入ってしまったことがある。
どうやら故障は免れたようだが、しばらく携帯電話から甘いにおいがした。
あまりに迷惑メールが多いので対策を施してみたら、誰からもメールが全く来なくなった。
(以下、逐次更新)
今後
前回の購入から2年が経過したので、そろそろ買い換えの時期である。
次に購入するとしたら、やはりワンセグ機能ははずせないだろう。
できれば、ラジオも受信できて、プログラム録音できればいいのだが。
辞書機能も欲しいところ。
ただ、これ以上機能が増えても、使いこなす自信がない。
今の機能で十分満足しているので、買い換えることは当分ないのだろう。
でも、とにかくどこでも電波が入ることが一番だよね、ソフトバンクさん。